にほんじん作家 カズオ・イシグロ

ネコ エレクトゥス

第1話

 暑い。とにかく暑い。言うと余計暑くなるのだが言わなくてはいられない。部屋にこもって水分ばっかとって涼んでいるとまた水太りになるのは分かっているのだが、やっぱり外には出る気がしない。そんな日中を過ごすのに前から気になっていたカズオ・イシグロを読むことにした。

 素早く図書館に行ってさっさと借りて帰ってくる。そして読み始めるとイングランドからの爽やかな風が入ってきた。気持ちよかったんであっという間に読み進んでしまった。


 僕が読んだのはカズオ・イシグロの代表作の一つとされる『日の名残り』という作品なのだが、そこで扱われているテーマ系は近代ヨーロッパの文学作品に典型的なもので、キリスト教以後の人間の確立(ここでは「品格」という問題でとらえられている)、そして世界との調和、共存、さらに世界との調和、共存が題材となるのなら当然「愛」の問題が係わってくる。その意味で彼こそは近代ヨーロッパ文学の正統な後継者と言えるのだろう。

 では彼の一体どこが日本人的なのか?


 この問題を考えるのにルキノ・ヴィスコンティーがフェデリコ・フェリーニの作品についてコメントしたとされる言葉から始めるといいかもしれない。

「これは貧乏人が作ったものだ。」

 『日の名残り』は高貴な家の執事を主人公とした小説なのに、恐ろしいほど下から目線で書かれている。イギリスの作家であるならばシェイクスピアであったり、ホラティウスなどの古代ローマ詩人などの引用やほのめかしがあってもよさそうなのに、そういうものが一切ない。これらの詩人を引用するということは読み手にも知識を要求するし、詩人の権威を利用した書き手と読み手の序列関係を作ってしまう可能性すらありうる。それらの要素がない分『日の名残り』はとても風通しのいい作品になっている。

 ではこの作品に知的なところがないかというと全く逆である。実はこの作品を読んでいて井原西鶴の『好色一代女』のことを思い出していたのだが、『好色一代女』は遊女の性生活を通じて世界を描きながらそこには下品なところがなく、むしろ「品格」すら感じさせてしまう作品である。カズオ・イシグロと同じイギリス人のロレンスが『チャタレイ夫人』で性生活を顕微鏡的に拡大して描いたのとは全く対照的である(この顕微鏡的な拡大精神こそが「近代科学」を生み出した)。その井原西鶴と同じセンス、下から目線の美学をカズオ・イシグロも持っていると言ってもいいんではないかと思う。そしてその美学は茶の湯の美学でもある。

 

 アジア生まれの白い肌を持った磁器がヨーロッパに渡って洗練を施され作られたティー・カップ。カズオ・イシグロの作品はそんな印象も与える。この暑い夏のひと時、カズオ・イシグロという洗練されたティー・カップで爽やかなお茶をどうぞ。

 

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にほんじん作家 カズオ・イシグロ ネコ エレクトゥス @katsumikun

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