モーフィとアーレフ

 黒猫のモーフィはまだ真っ暗な時間に目を覚まし、かんたんな朝食を摂って身支度を整えます。

 そしてカートつきのバイクに乗って花市場に出かけていきます。

 お日様の上端が地平線を擦りはじめるころに、モーフィは荷台に箱づめの切り花や苗のポットをいっぱい積んで帰ってきます。

 店の通路にしまっていたブリキのバケツに水を張り、切り花の延命剤をたらしてから水切りした花を活けて店頭に並べます。

 骨の折れる仕事ですが、モーフィは楽しくてなりません。

 色もかたちもとりどりな花々を並べ終わり、花や観葉植物の苗に水をあげながらモーフィは呟くのでした。


――おはよう、妖精さんたち。


 こうしてお客さんを迎える準備がほぼ調った店を眺めるたび、まだ若いモーフィはしみじみと嬉しくなります。

 この街は花好きが多く、毎日多くの客がやってきては

「カミツレをたくさん使ってバスケット作って」

「女性に贈るっていうとやっぱりバラの花束かなぁ? 僕はマーガレットの方が彼女に似合うと思うんだけど」

などとそれぞれに選び、悩み、モーフィに相談しては、花を抱えて晴れやかに帰っていきます。

「ありがとうございました。またおいで下さい」

 そのときの幸福感は、何物にも代えられないのです。


 モーフィは小さく弱く生まれ、幼い頃からよく寝込んだり吐いたり、毛が抜けてぶつぶつができたりしていました。それがもとで捨てられ、うの体でこの街で花屋をやっている祖母を頼ってきた猫でした。今は健康に育って、こうして祖母のあとを継いで立派に花屋を切り盛りしています。

 ただちょっと困ったことに、彼女は彼女自身の理想とした姿より育ちすぎました。オス猫と間違われるほどです。服の丈も、靴も、女性用のプレタポルテでは間に合いませんし、似合いません。だからいつも、男物のシャツにズボンで、仕事中はそこへエプロンを着けています。ちゃんと身ぎれいにしているのですが、初めて会うひとが鼻の利かない種族だったりすると、男だと思われてしまいます。

 けれど、モーフィは可愛くてファンシーなものが好きで、フェアリーテールが大好きな夢見る夢猫ちゃんでした。花屋さんをやっている自分が大好きで、お店には花の妖精たちがいると信じて時々話しかけたりしています。

 その一方で、モーフィは花屋のセールストーク以外は他人と何を話していいかわかりません。仕事から離れると、図体ずうたいのわりに臆病な猫なので、ちょっと買い物に行くだけで、花屋で頑張っているときとは別人のように無口になってしまいます。だから常連さん以外の住民には、クールで不愛想なひとだと思われているのでした。


 さて、モーフィは開店準備の最後に、少しくたびれだした花を短く水切りしています。張りと美しさを取り戻させて、プチブーケを作るのです。

 そのとき、お客さんが現れました。


「おはようございます。いいお天気ですね」

「おはようございます。今日は暑くなりそうですわね」


 エクレアのようなチョコレートタンの、大きな雌犬が尻尾を振りました。

 青いストライプのコットンドレスを着け、リボンがついたキャノチエを被っています。

 街を歩いているところを時々見かけていましたが、この犬、ゾーイが客として訪ねてきたのは今日が初めてです。


「このゼラニウムの苗、全部頂けますかしら?」

「全部?」


 十八株のゼラニウムの苗が並ぶトレーを指差す彼女に、モーフィは琥珀こはく色の目をしばたたきました。


「センテッドゼラニウムは結構大きくなりますし、差し芽でどんどん増えますから最初は五株くらいではいかがでしょう?」


 商売っ気のない言葉に、ゾーイは微笑みました。


「私のお財布の事情としてはそうしたいのですけど、犬は蚊に刺されると命に関わりますの」


 センテッドゼラニウムは蚊よけ効果があることで有名です。

 犬という生き物は、この人間に近い姿になっても蚊が媒介ばいかいする寄生虫、フィラリアからは逃れられないようです。

 この陽気だともうすぐ蚊が出ます。確かにこの小さな苗が大きく育って、それを差し芽してそれがまた育って、というのを待つ時間はないでしょう。

 モーフィが十八株分の価格を言うと、ゾーイは買い物用のバスケットから青い革の財布を出し、中を見てみるみる顔を曇らせました。


「あら……」


 ゼラニウムは簡単に殖やせることもあって、決して高価なものではありません。でも、この犬は今、懐具合ふところぐあいが非常によくないらしいのです。

 そこへのんびりとやってきたのははだか猫の美容師、アーレフでした。


「おはよう、モーフィさん。ちょっとトロピカルな感じのやつで適当に作ってもらえないかなぁ」


 はだか猫はスフィンクスという品種名を人間につけられていましたが、どんなかっこいい名前で呼ばれたって、はだかははだかです。

 桃のようなうっすらした短い産毛はあるものの、ちゃんとした毛が一本もないので、ニットの帽子をかぶり、帽子でへしゃげた耳の端には輪っかのピアスが光っています。

 彼はこのはだかんぼうの風体ふうていがいいと言われて人間に高値で取引されたそうです。ところが彼を買った人間は、彼の柔らかい皮膚にとがったもので絵を描いたりピアス穴を開けたりしました。また大きな絵柄を背中に彫ろうと飼い主が話しているのを聞いて、アーレフは逃げだしたのです。そんなアーレフが、それでもこの街に辿り着き、暮らしているのは、毛がないのに普通に生きられている人間がほんの少し羨ましかったからでした。

 アーレフは、この花屋で自分の店に飾る花をよく買います。一方モーフィのほうは、妖精事典から抜け出してきたような姿をしたこの猫に親しみを覚えていました。

 ここでやっとアーレフは、先客に気づきました。


「ああ、ゾーイさんおはよう」

「おはようございます、アーレフさん。お花屋さん、アーレフさんのをお先に作って差し上げて下さいな」

「いやゾーイさんの方が先に来てたんでしょ」

「いえ私はちょっと……アーレフさんお先にどうぞ」


 ゾーイは、アーレフの店に時々通っています。

 おしゃれをするために、ではありません。ゾーイは、週に二度、アーレフの店に掃除に行くのです。要するに、アルバイトです。


「ああそうだ、今月のバイト代、ゾーイさんの口座に振り込んどいたよ」


 ゾーイが驚いた顔をしました。


「え? もうお給料日ですの?」

「昨日でしょ」

「あら! では今から銀行へ行きますわ!」


 ゾーイの表情がぱっと明るくなりました。

 彼女は色とりどりのアンスリウムをまとめようとしている黒猫に弾んだ声をかけました。


「花屋さんは、お名前をモーフィさんっておっしゃるのね?」

「はい」

「モーフィさん、私、また後ほど参りますわ。それまで、この苗は取り置きしていただけませんこと?」

「十八株ですと嵩張かさばりますから、お宅にお届けしましょうか? ええと……閉店後の、夜七時過ぎでもよろしければ」

「願ってもないお申し出ですわ。お代はそのときでもよろしくて?」

「ええ」

「夜の七時でしたら……いいことを思いつきましたわ! 今夜、宝石屋さんのカータさんをお食事に招いてますの。ね、アーレフさんもモーフィさんも、よろしければご一緒にいかが?」


 もともとのんきで警戒心の薄いアーレフは、夕食に何を食べるか考えなくてもよくなった、と快諾かいだくし、ゾーイは嬉しそうです。そして彼女はモーフィに視線を移して返事を待っています。

 思わずモーフィは作業台に目を落としました。

 お食事会、ということは黙りこくっていると失礼になります。

 この今日初めて話す犬と、土属性の妖精っぽいおしゃれキャットと、おしゃべりのカラスと何を話せばいいか考えると、弱りに弱ってしまいます。

 モーフィは、断ろう、と思いました。


「誘ってくださってありがとうございます……でも私、用事が」


 モーフィはそのまま言葉を切ってしまいました。

 モーフィの沈黙を、ゾーイは「困惑」と受け取りました。

 今日初めて話したというのに突然夕食に招待するのは不躾ぶしつけだったかもしれません。

 思い立ったらつい何でもぽんぽんと言ってしまう癖を、ゾーイは反省しました。


――断りが言いにくいのですわね。

――こちらが上手に、断りやすくしましょう。


「ごめんなさい、お忙しいのでしょう?」

「……いえ」

「今度また、ゆっくりお花のお話をお聞かせくださいな。ではごきげんよ……」


ゾーイの言葉はモーフィにさえぎられました。


「いっ……行きますっ!!!」


 言った後で、モーフィはまたおろおろと下を向きました。

 言ってしまった後も尾を引く迷い、一歩踏み出したことの不安と後悔、そして微かな期待。

 モーフィのしっぽが低く揺れます。

 ゾーイはにっこりしました。

 「……お待ちしておりますわね。少しくらい遅れても大丈夫ですから」


 銀行に寄ってアルバイト代を受け取り、ゾーイは小走りに家路へ着きました。

 人数と顔ぶれが変わればもてなし方も変わります。

 陽気なカラスひとりを招いていた時は、もてなす側が度々中座しては失礼にあたるので、一度にテーブルに並べられる大皿の取り分けスタイルにしようと思っていました。でも、多人数となればお客さん同士がおしゃべりできるので、もてなす側が中座して熱いもの冷たいものを運んで出せるようになるのです。

 家へ着くと、ゾーイは献立の練り直しをはじめました。


 さて、夕方六時になりました。

 宝石店の閉店は一時間後の七時なのですが、店仕舞いは従業員の几帳面な白蛇に任せて、真っ黒なカラスのカータは往来に飛び出しました。

 今夜は犬のゾーイに、夕食の招待を受けています。

 さすがに手ぶらで他人の家で歓待される非礼をやらかすつもりはありません。かといって、店にあるキラキラしたものをプレゼントするというのは、ちょっと重いのです。

 カータが駆け込んだ先は、花屋でした。

 古今東西、女性への手土産は花と相場が決まっています。賢いカラスは、そういうところを弁えているのです。


 初めて会った時、ゾーイは砂色の髪が汚れもつれて頬のこけた雌犬で、サファイヤやスピネルがいくつもはめ込まれた首輪を数本持ってきて、買い取るよう頼んできました。カラスは大抵性悪しょうわるというイメージを持たれていて、初対面だと腰が引けるものも多いのですが、ゾーイは全く物怖じしませんでした。

 ジュエリールーペをつけて、宝石を一粒一粒めつすがめつしているカータにゾーイは突然こう言いました。

「私、カラスさんをこんなに間近で拝見するのは初めてですの……黒真珠みたいで、つやつやぴかぴかして素敵ですわ」

「あ、ありがとう……」

 変な犬だなあ、と思いつつ、もともとぴかぴかしたものが大好きな彼は、自分がぴかぴかしていると言われると気分が悪いわけはありません。しまり屋の従業員の視線を背後からビシバシ感じながらも、ゾーイの身の上話も聞いたうえで、カータはほんの少しおまけした金額で首輪を買い取りました。

 それから、街角で会うたび、世間話をする仲になったのでした。


 それはさておき、サンダーソニアやマーガレット、ヤグルマギクにまっすぐ伸びた麦を合わせた牧歌ぼっか風な花束を抱え、カータは花屋を出ました。今日は早仕舞いするのでしょう、花屋の猫は落ち着きなく店頭のブリキのバケツを店の奥に並べ直し始めています。


「ありがとうございました。またどうぞ」


 モーフィは溜め息をつきました。

 夕方の光の中、カラスの影が石畳の上に長く長く伸びています。

 カータは、今夜ゾーイの家でモーフィが同席することを知らない様子でした。自分も招待されていることを話そうとも思ったのですが、どうしても気が引けて言えませんでした。

 まだ、迷っているのです。

 ゾーイの家に電話をかけて、急用が出来たとか、体調が悪くなったとか、そういうだけで迷いはすっぱりと断ち切れます。

 しかし、断ち切れてしまうのは迷いだけではないような気がします。

 ひとと話すことは不安なのです。でも、招かれるのはちょっとうれしかったのです。うれしくなかったら、行きます、なんて言えません。モーフィはくよくよと考え続けましたが時間の流れは何人も待つようなことはしません。出かけないといけない時間が迫ってきます。


――そろそろ支度しなきゃ

――そう言えば、手ぶらで伺ったら失礼になるよね?

――カータさんは花束買ってったし


 花屋ならば、豪勢な花束や鉢を持っていくことがやっぱり自然です。ところがカータに花束を売った自分がより上等なものを持っていけば彼の面子めんつをつぶしてしまいます。それに花ばかり貰っても、もてなす側は迷惑かもしれません。

 彼女は慌てて、ゾーイに注文されているゼラニウムを作業台に載せました。


 ゾーイの家は街の中心部から少し離れたところにありました。

 田舎風の家でとても目立っています。のんびりした街とはいえさすがに麦わらで葺いた屋根の家はここ一軒だけなのです。

 呼び鈴を押します。

 さっとドアを開けた犬に、カラスは挨拶しました。


「こんばんは、ゾーイさん。お招きありがとう」

「こちらこそお仕事でお疲れなのに、お運びいただいてありがとうございます」


 ゾーイは桜ねず色のドレスに白いエプロンをつけていました。昼間着ていたものよりほんのちょっとドレッシーです。


「これ、お招きのお礼に」

「まあ、とってもきれい! 殿方から花束をいただくのは初めてですわ!」


 人間の世界で犬として暮らしていれば、一個の存在として花束をもらうことなどほぼなかったでしょう。花束を抱いたゾーイの尻尾が揺れています。


「さっそくけて、皆さんにもお目にかけましょうね」

「皆さん??」


 招かれたのは自分だけだと思っていたカータは小首を傾げました。

 そのとき、彼はニット帽をかぶってコットンセーターを着た毛のない猫が、家の奥から出てくるのを見つけました。


「ああ、こんばんはカータさん。僕もゾーイさんからお招きにあずかりまして」

「カータさん、アーレフさんはご存じですわね? いつもお世話になっておりますのよ」


 もちろんカータは、この宇宙人的な見た目の美容師を知っています。普段から、商店街の寄り合いではいじりいじられ、おごったりおごられたりしているのです。


「ああ、彼にはよくコーヒーおごってるよ」

「えー、この間のアイスクリーム、僕が払いましたよぉ?」


 アーレフは笑いながらやり返します。

 この町に来て間もなかった時、アーレフはカータに開口一番「君、もしかして宇宙猫?」と尋ねられました。「宇宙猫じゃなくて、はだか猫です」と答えると、珍しいものを間近に見るとテンションが上がる性質たちのカータは面白がって、その後も店を出すためのいろんな手続きでアーレフを助けてくれたのです。


「では、どうぞこちらへ、カータさん」


 先に立って歩くゾーイについていくと、そこはバスルームでした。白と青のタイル張りで、バスタブも鏡も、もちろんトイレも曇りなく磨かれています。棚には新しいタオルが積まれ、薄荷はっかやラベンダー、サイプレスなどのオイルの瓶が並んでいました。


「どうぞお手を洗ってくださいな」


 女主人が「手を洗いませんか」と食事に招いた客にまず勧めるのは、ヨーロッパの一部の家庭に見られる慣習の一つです。失礼に思えるかもしれませんが、まず、食事の前に手を洗い、ともすれば顔も洗い、様々に用足しをしてさっぱりしてもらってからもてなしに入るという、まことに合理的なものです。


「どうぞごゆっくり。その後は居間においで下さいね。玄関から入って突き当りですわ」


 ゾーイはそう言うと、静かにドアを閉めました。カータは手を洗ってふかふかしたタオルで手を拭きました。


 カータが居間へ行くと、ティーテーブルに食事が始まるまでのスナックとしてカナッペが盛られた大きな皿と三つのフルートグラスが出ていて、氷で満たされた小さな桶の中にはアップルシードルの瓶がありました。


「ゾーイさんは、今キッチンにいるよ」

「あ、うん」


 カータが持ってきた花は出窓に飾られていました。その中のしゅっと伸びた大麦の穂を、鋭い爪の生えた指ではだか猫がみょんみょん揺らしています。


「麦って、こうしてみるとなかなかお洒落だねぇ」

「モーフィさんとこで作ってもらったんだ。彼女、ほんとセンスいいよね」

「だよねぇ。そう言えば、今夜モーフィさんも来るってゾーイさん言ってたよ」


 アーレフはシードルをグラスに注いで差し出しました。

 カータはグラスを受け取って一気に飲み干すと、オリーブのカナッペをぱくんと口に入れました。

 アーレフも、空中に指を迷わせた後、鮭のパテがのったのを選んでつまみ上げました。


「僕ねえ、いっぺん彼女とゆっくり話してみたいんだよねえ」

「ゾーイさんと?」

「いや、モーフィさん」

「へえ」


 カータはにやっとしました。


「今まで恋バナ一つもなかったアーレフ君がねえ……」

「そういうやつじゃないけどさあ」

「じゃあどういうやつなんだい」

「チョキチョキしたい」

「え?」

「彼女にカットモデル頼みたいんだよ」

「へえ」


 またカラスがにやっとするのと同時に玄関の呼び鈴が鳴りました。

 キッチンで忙しそうな女主人に替り、二匹は来客を迎え入れようとしたのですが、ごめんあそばせ、とその横をささっと通り抜けてゾーイがドアを開けました。


「ようこそ! 遅くならずにおいで下さってようございましたわ」


 ポーチに敷いた棕櫚しゅろのマットの上に、花屋の黒猫が立っていました。一本一本リボンをかけた十八株のゼラニウムを入れたトレーを抱えています。


「えっと……こんばんは。あの、今夜は、ありがとうございます。これ……お代は結構です」

「あら、私が注文したのですもの、お支払いはいたしますわ」

「いえ、今日のお招きのお礼に」


 自分の手土産の芸のなさに申し訳なさそうなモーフィに引き換え、ゾーイは喜色満面きしょくまんめんです。


「まあ! まあまあまあ! 可愛い!リボンをつけてくださったのね!ありがとうございます。大事に育てますわ!どうぞ、中へお入りになって」

「泥が落ちますから……お庭に置いておいたほうが……」

「……少々お待ちになって?」


 ゾーイは家の奥から新聞紙を取ってきて、出窓の、カータが持ってきた花を生けた隣に敷きました。


「せっかくの素敵な頂き物ですもの、今はこちらに飾りますわね」


 青い絵付けのオリエンタルな花瓶の横で、リボンで飾られた苗が泥のついたトレーのまま並んでいるのは少々奇妙な眺めでした。でも、この家の女主人は素晴らしいと絶賛しているので、うつむき加減になっていたモーフィも、そういうものかな、と思い始めました。

 ゾーイは今夜の客に華やいだ声をかけました。


「さあこれでお客様はお揃いですわ! 皆さん、どうぞ食堂へ……その前にモーフィさんはこちらへ」


 チョコレート色の犬は最後にやってきたお客さんをバスルームへ先導しました。


「どうぞお手をお洗いになって?」


――あ、かわいい


 洗面台に飾られたエニシダの花の一枝。

 モーフィはゾーイが立ち去るとそっと、その匂いを嗅いでみました。


 食堂のテーブルに、はしりの夏野菜のアスピックが並んでいます。

 鮮やかな赤や黄、オレンジに緑。初夏にぴったりのオードブルです。

 カラスとはだか猫がスプーンでそのゼリー寄せを楽しんでいる中、モーフィは頭の中がマーブリングの水面のようにごちゃごちゃしていました。わかりきっていたことなのですが、よく知らない顔ぶれが集まっている中、やはり無口になってしまいます。


――何か話さないと失礼になっちゃう

――天気の話は出たし、ここのおうちもお料理もみんなどんどんほめてたし、出遅れちゃったな

――そうだ、お花の話ならどうかな? それなら私にもできるよ!


 そう思って、モーフィはみんなの会話の切れ目に口を開きました。

「あっ……あのっ、洗面所のエニシダ……」

早速声が上ずってしまいます。

「えっと……エニシダって、すごくいい匂いで……」

 モーフィの顔に、三匹と一羽の視線が集まりました。それは、これまで口が重かった彼女に対する、話を聞く姿勢ができているよ、という彼らの善意なのです。

 でも、ここは花屋ではありません。モーフィを守ってくれる妖精さんはいないのです。彼女はすっかり気後れしてしまいました。

 会話が途切れました。

 特に、シルバーヴァインの外では弱い仔猫にとって最も恐ろしかった動物、犬とカラスがじっと見ています。

 スプーンを手にモーフィは下を向きました。


――やっぱり、みんなじろじろ見てる。

――変なやつって思われたんだろうな


 カタン、という音がしました。

 カラスのカータが真剣な表情で立ち上がったのです。


「エニシダ?……エニシダが飾ってあったって?!」


 ゾーイがびっくりして答えます。


「ええ、飾っておりましたわ。それがどうかいたしまして?」

「庭に植えてる?」

「ええ」

「長年、エニシダをうちに植えたかったんだよ! 曾祖父の遺言でエニシダを植えるように言われたのすっかり忘れてた」


 随分変わった遺言をするカラスもいたものです。でもそのひ孫であるカータがそういうのですから、いたのでしょう。


「あああ、今の今になるまで思い出さないなんて! ずいぶん先祖不孝をやらかしてたよ!ゾーイさん、ちょっと株分けしてもらえないかな?」

「え、ええ……」


 モーフィが小さく言います。


「あ、あの……エニシダは株分けが難しいので……今の時期だと挿し木のほうがいいです」

「ナイスアドバイス! じゃあ、ゾーイさん、今、少し枝をもらってもいいかな」

「今……ですの?」


会食の招待主はきょとんとしています。


「うん、ごめんねえ、あいにくカラスなもんで、鳥頭とりあたまなんだよ。思い出した時にじゃないと忘れてしまうんだ」


 カータは自分の頭をとんとんと人差し指でつついて見せました。招かれたお宅でなんて迷惑なことを言うのでしょう。カラスは賢い鳥のはずなのです。

 でもゾーイは鷹揚に笑って立ち上がりました。ゾーイはカータが何か別の意図を持ってそんなことを言っているような気がして、とりあえずこのカラスの目論見に乗ってみることにしたのです。


「では少し切ってまいりますわね」

「一緒に行ってもいいかな」

「ええ……でもお花のプロのモーフィさんも、いらっしゃいません?」

「いやいや、モーフィさんはゆっくり食べてる最中だから、あとで育て方教えてもらうだけで十分だよ」

「……そうですわね。少し切るだけですものね」

「本当にわがまま言ってごめん」


 ゾーイの後ろについて庭に行こうとしながら、カータはアーレフの肩をポンと叩いてウィンクし、せかせかと食堂を出ていきました。


 どたばたとした空気の中、食卓に残っているアーレフは、モーフィに声をかけました。


「おなか、空いてないの?」


 モーフィの前の皿に盛られたアスピックは、スプーンの一すくいしか減っていません。

 今日一日仕事をしてお腹は空いているはずなのですが、モーフィののどから胸にかけて何か詰まったような感じがしているのです。

 でも、以前からの知り合いで同じ種族のアーレフは、犬やカラス相手よりは随分話しやすく感じて、モーフィは答えました。


「いえ、お食事に招かれたことが初めてで……緊張して」

「へえ……緊張とかするの? 意外。お店ではよくしゃべってるのに?」

「あれは仕事だから……花の話ならできるけど……何話していいかわからなくて」

「無理して話さなくても、相槌あいづち打ってるだけでもいいんだよ」

「でも、ちょっとは人と話せるようになれたらいいなって思って」

「じゃあこれから慣れたらいい」


 アーレフはこともなげに言うと眉毛のないつるんとした顔を擦りました。


「手始めに、今度の水曜、僕の店でカットモデルやってみない?」

「え?」

「水曜は定休日でね、自分でいろいろ勉強してるんだ。メイクとか、ヘアカットとか。前からモーフィさんの髪、切ってみたかったんだよ」

「私、そんなにみっともない髪でしたか……?」

「いやいや、今のボーイッシュな感じも似合ってるよ、すごくいい。でもモーフィさんのなりたい自分ってそんな感じじゃないんじゃないかって思って」


 モーフィは目の奥がぐるぐる回るような気がしました。

 以前、男と間違われたくなくて、髪を伸ばしてお花のピンを飾り、フェミニンな服を着て丁寧に化粧をしたことがあります。ところが、鏡が映し出したのはドラッグクイーンまがいの姿で、思い描いたものとは全然違いました。まだ存命だった祖母は「素敵ね」と言ってくれましたが、一瞬ひどく戸惑った顔をしたのをモーフィは見逃しませんでした。

 それがフラッシュバックしてしまったのです。


「わ、私、似合うヘアスタイルとか少なくて……」


 アーレフはふふっと笑いました。


「いやいや、僕ねえ、モーフィさんはすごく変わるんじゃないかと思うんだよ。モデルさんみたいにさ。背が高いのも、全然問題ないっていうか、僕はものすごい長所だと思う」

「……私は、こんなでっかい体は嫌です」

「骨格とか、そういう生まれ持ったものは変えられないけど、僕なら嫌だった自分を好きになる手伝いができると思うんだよ。……それが僕の仕事だしさ。お試しに一回、髪切らせてメイクさせてくれない? いっぺんでいいから」


 アーレフのごく薄い青の瞳を、モーフィは一瞬見つめ、すぐ下を向きました。


「なんでそんな風に私のことを気にかけてくれるんですか?」

「モーフィさんの店で初めて花を買ったときにね……なんでだかわからないけど、このひと、花と話せてるって気がした。そしたら、本当はこの人もここに並んでる花みたいになりたいんだよって誰かの声が聞こえたんだ」


 アーレフがメルヘンなことを言い出しました。

 だけどモーフィは心の奥があったかくなる気がしました。きっとそれは、花の妖精さんのしわざです。


「うちの店でも、お客さんと一応話はするんだけど、話さなくても何か、わかるんだよ。このひとはどうなりたいのかって、何か見えないものが教えてくれる、っていうか……いや、実際にそういうものがいるかどうかって言うと微妙だけど……えーと、何言ってるかわかんないよね?」


 その言葉は、どうせ相手にはわからないだろう、と理解を期待していない調子でした。でもモーフィにはわかります。アーレフの店にも、髪の切り屑の妖精とか、はさみの妖精とかがいるのかもしれません。

 モーフィが黙っているので、アーレフはだんだん語尾がぼそぼそとしてきました。


「ちょっと、変な話だったよね、気持ち悪くてごめん」

「気持ち悪くないです!」


 モーフィはいきなり大声を出してしまいました。やっぱり声はひっくり返っています。


「わ……私、アーレフさんの言うこと、よくわかります!」

「え? わかる?」

「私も見えないものとよくお話しします!」


 アーレフは顔中にしわを寄せてにこにこしました。


「へえ、やっぱり?」

「はい」


 モーフィはうれしくてたまりませんでした。これまで、こんなことを話せるひとがいるなんて思ってもみませんでしたから。

 アーレフは、普段クールな黒猫が目をキラキラさせているのを見てうんうんとうなずいた後、畳みかけました。


「じゃあ、今度の水曜の午後、三時ごろうちの店に来てくれる? 待ってるからさ」

「あっ……はい」


 モーフィはうっかりうなずいてしまいました。


「でね、きれいになるのも体力気力がいるものなんだ。しっかり食べて。おいしいよ、それ」


 はだか猫はモーフィの前の皿を目で示しました。


「まだこれからおいしいものが一杯出てくるんだから」


モーフィがアスピックを食べ終わったころにぎやかにカータとゾーイが戻ってきました。

カラスの手には、新聞紙に包んだ緑の小枝が握られています。


「何の話してたんだい、猫さん方」

「お客さんのニーズをどう掴むかとか、そういう話」

「華がないねえ」

「そんなことより、よかったね、ゾーイさんにエニシダもらえて」


 カータは楽しそうに答えました。


「うん。やっとひいじいさんの遺言を叶えられるよ」


 すっかり話が弾み始めた食卓に、続いてでてきたのは、肌よりほんの少し温かいところまで冷ましたきのこのフラン。

 様々な野菜のグリルのアーリオオーリオ。

 鯛のクリーム煮のパイが今夜のメインです。

 猫舌の二人は、すぐには手を付けず、冷ましています。

「もうそろそろ大丈夫じゃないかな」

と言い、ぱくっと食べたアーレフが、だんだん涙目になります。

 舌からのど、食道、胃までがっつり熱かったようでしっぽまで体を硬直させています。カータは笑い転げ、ゾーイは氷水を勧めました。

 モーフィはだんだん、楽しく過ごし始めていました。

 デザートは、ブリオッシュのサヴァランと、飴で固めたドライオレンジを添えたアイスクリームで、おかわりはいかが、と尋ねたゾーイに全員が学生よろしく挙手しました。よいお食事会の締めくくりになったようです。


 食後の紅茶を飲み終わると、深更しんこうとなりました。

 時間を好きに使っている宝石屋と美容師はいいにしても、朝の早い花屋は帰ったほうがよい時間です。

 全員が後片付けの手伝いを申し出ましたが、女主人は「お客様には最後までお客様でいてほしい」と穏やかに断りました。

 玄関のポーチで客と女主人はお互いに礼を言いあい、別れの挨拶をします。


「至らないところも多かったと思うのですけれど、またおいでになってね」

「どこが至らないのかさっぱりわからなかったよ。エニシダありがとう」

「おいしかった! いつもその辺で買って食べてたから久しぶりに健康にいいものを食べたって感じ」


ワンテンポ遅れて、モーフィはゾーイに話しかけました。


「とても楽しかったです……ありがとうございました」

「エニシダをカットして戻ってから、モーフィさんのお食事が進むようになってほっとしましたわ。お口に合わないのかと思って心配でしたの」


 それを聞いていたカータはにやっと笑いました。


「アーレフ君が宇宙猫ビームを使ったんだ、きっとそうだ」

「だからー、僕は宇宙猫じゃなくてはだか猫だってば」


 そうして心尽くしの饗応きょうおうは終わりました。


 ゾーイは、空っぽになった家へ入りました。

 隅っこのスツールに座って、来客がさっきまで談笑していた食堂を眺めます。

 静けさの中、彼女は「くーん」と鼻を鳴らしそうになりました。

 ゾーイはさみしさが染みてくるのを振り払うようにキッチンに立ち、山積みになったディナーセットやカトラリーを洗いました。


 花屋のモーフィのほうはというと、ベッドに入りながら、今日一日を思い返してどきどきしていました。


――やっぱり行ってよかった

――みんな優しかったし、面白かったし、お料理もおいしかった

――今度の水曜日、……うん、水曜日の三時。カレンダーに書いとかなきゃ


 彼女は一人照れながら、ブランケットに潜って目を閉じました。


――おやすみなさい、妖精さんたち。いつもありがとう。

   


           ――モーフィとアーレフ、の章 おしまい

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シルバーヴァインの空のした 江山菰 @ladyfrankincense

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ