3.雞蛋粥 ―廃された王に捧ぐ一膳―
卵の入ったお粥① 初めての夕餉
峯という国に
宵鈴はその暮らしに満足していたので、今以上のものは何も望むことなく生きていた。だがある時、宵鈴のもとに役人が訪ねてきて、退位した帝のために料理を作れと言った。宵鈴はあまり乗り気ではなかった。が、依頼というよりは命令であるその話を断る度胸はなかった。だから仕方がなく、宵鈴は先代の帝である
◆
暁王の居城はかつての都にある古い宮殿であり、宵鈴はそこの厨房で働いた。
初めて夕餉を献上した晩、王の臣下である
「宵鈴、殿下がお呼びだ。私について参れ」
ひどく冷たい声で、康夜が命じた。
「かしこまりました」
宵鈴は厨房を片付けていた手を止め、康夜の言葉に従った。
しかし、暁王に拝謁することを宵鈴は恐れていた。表向きには、暁王は譲位して王に戻ったということになっていた。が、暁王は生まれつき狂っており、それゆえ今の帝により廃されたというのが世間に流布する話であった。また暁王は癇癪持ちで偏食が激しい人物であると、他の下女から聞かされていた。もしかしたら出した料理が王の口に合わず、叱責を受けるのかもしれないと不安に思った。
赤い柱の立ち並ぶ廊下を、宵鈴は康夜の後について進んだ。石畳を歩く二人分の足音が、静かな城内に響いた。
しばらく歩いた先の突き当りに、木製の大きな引き戸があった。
康夜が近づくと、両脇に控えた兵士が戸を開けた。康夜はすたすたと中に入ったが、宵鈴は戸惑い立ち止まった。しかし康夜が早く来いと言いたげな顔で振り返ったので、嫌々足を踏み入れた。
「殿下、先ほどの粥を作ったのはこの朱宵鈴という女でございます」
袖を合わせて礼をして、康夜が部屋の真ん中に座る男に宵鈴を紹介した。
宵鈴も康夜と同じ姿勢をとり、目を上げずに礼をした。緊張して何も言うことはできなかった。
「これをつくったの、きみなんだねぇ。ぼくがゆるすから、かおをあげてほしいなぁ」
妙に甲高い、舌足らずな声が部屋に響いた。どうやらこの声の持ち主が、暁王らしかった。
恐るおそる顔を上げると、粥の入っていた器の置かれた卓を前にして、立派な椅子に腰掛けている青年がいた。青年はにこにこと宵鈴に微笑んでいた。上等な衣で着飾った容姿は端麗で、背格好も間違いなく大人に見えた。だがその様子や表情は子供のようにあどけなく、落ち着きがなかった。
想像していたのとは違う方向である暁王のおかしさに宵鈴は面食らい、どう反応すればいいのかわからなかった。
だが暁王は宵鈴の戸惑いに構うことなく、勝手に話を進めた。
「このおかゆは、やさいがたくさんはいってるのに、おかしとおなじくらいおいしかったねぇ。もっとたくさん、たべたいねぇ」
匙を舐め、暁王はじっと宵鈴を見つめておかわりを要求した。
「殿下はもう四杯も召し上がられております。本日はここまでといたしましょう」
側に立つ康夜が、調子を崩すことなくやんわりといさめた。
その言葉が気に入らなかったらしく、暁王は康夜をにらんで声を荒げた。
「こうや、ぼくはもっとほしいんだって!」
暁王がそのまま空の器を掴み投げようとしたので、宵鈴は慌てて制止しようと話しかけた。
「明日、また違う味のものをご用意いたします。どうかそちらを楽しみにお待ちになって、今夜はもうお休みなさいませ」
適当に思いついたことを言っただけであったがわりと有効だったようで、暁王はすぐに機嫌を持ち直して宵鈴に尋ねた。
「ほんとう?」
「はい。必ずまた明日もおいしいお粥をお持ちします」
「ぜったいだよぉ、しゅ・しょうりん」
ほおづえをつき、暁王はうれしそうに微笑んだ。その人として欠けているがゆえの素直さに、宵鈴はほんの少しだけ心惹かれた。だが同時に、どこかで小さく胸が痛んだ。
そっと近づき、康夜が暁王を誘導した。
「それでは殿下、ご寝所へ……」
「わかったぁ」
食事を終えたら急に眠くなってきたらしく、暁王はあくびをして目をこすった。
康夜は他の下女を呼び、暁王を寝所へと連れて行かせた。
「では私もここで……」
暁王がいなくなったので、宵鈴も部屋を出ようとした。
「待て、宵鈴」
しかし、康夜に呼び止められた。まだ何かあるのかと身構えて、宵鈴は振り向いた。
康夜は、空の器が載った盆を宵鈴に渡しながら言った。
「殿下がこのように食事をきちんとお召し上がりになったのは、久々のことだ。お前を選んだのは、間違いではなかった」
相変わらずの無表情であったが、一応宵鈴に感謝しているようであった。そして一瞬ためらった様子を見せて、さらに話した。
「殿下のあのご気性は、生まれつきではない。昔を知る人は少ないが、かつては聡明な方であった。叔父である
康夜は昔を懐古するように遠くを見ながら、暁王の事情を語った。
宵鈴には、暁王はそのままでも十分痛々しい存在であるように見えた。だが親族の悪意の結果毒により退行したと知ると、さらに救いようがなく思えた。
面倒事を抱えたくない気持ちで、宵鈴は尋ねた。
「そんな話、一介の料理人の私にしてよいのですか?」
「よくはないだろうな。だが何となく、お前には知っておいてほしかったのだ」
康夜はぽつりとつぶやいた。その横顔の表情は何も変わっていないはずであったが、どこかさみしげに見えた。
「そう、ですか」
康夜が本当のところ何を思っているのか気にはなった。が、これ以上話を続けると大変なことを知ってしまいそうなので、宵鈴は空いた食器を手に足早に去った。
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