3、

 次の二ヶ月は案外すぐ迫ってきた。ただでさえ忙しい仕事の合間だから、ろくに構想を練る余裕もない。自分に言い訳をして、家に帰って倒れ込むように寝る生活をしているうちに、気づくと梅雨が明けていて、次の企画会議まであと一週間になっていた。

 室内は冷房が効いていたが、蝉の声がどうにも暑苦しい。家じゃなくスタジオに来れば何か浮かぶかと思ったのに、最後だ、と思って力むほど、びっくりするくらい何も浮かんでこない。

 休みにもかかわらず会社に来ていた俺を、「あら」と目に留めた人がいた。社長の右腕、金子さん。会社の設立から務めているベテランの、ふくふく太った優しげなおじさんだ。

「亮也また痩せてるなあ、ご飯食べてる?」

「まあ、一応……コンビニ飯ですけど」

 暑すぎて何も食べる気になれないが、義務感で食事をしてはいた。俺の返答に金子さんは「もーー」と頬を膨らませ、「おいしいもの作ってあげるから、来なさい」と俺を休憩室に引きずり出した

「わー、作ってくれるんすか?」

「ご飯くらい僕がいくらでも作ってあげるよー。まだ若いんだから、栄養があるものをちゃんと食べなきゃ。身体は資本だよ。もたないよ」

 狭い台所の中。鍋に水を張り、棚からそうめんの束をごそごそ取り出す。お湯を沸かしている間に、金子さんのふくふくした手が、トマトをダイス状に切り始めた。

 金子さんは監督職には就いていないが、多和田久美子作品の助監督やプロデューサー補佐として、社長の手の回らない細かい仕事を丁寧にこなす。社長の傍に寄り添いながらも、社長と対照的に、スタッフの間では優しいお父さんのような存在だった。

 ロケの時や作業中、金子さんがスタッフのために作ってくれる料理がなかったら、もしかしたら、俺はとっくにこの会社を辞めていたかもしれない。

「こんな働き方させちゃってる僕たちにも責任あるけど……でも勿体ないよ。せっかく久美さんに期待されてるんだからさ」

「……そうなんすかね」

「うん。久美さんは不器用だから、直接は言わないけど。なーんにも期待してない人にはさ、久美さん、あんなにスパルタじゃないよ。

 亮也、けっこう根性あるし、弱音は吐くけどくらいついて行くでしょう? あれだけこっぴどく言われながらも毎回企画会議出して。だから久美さんも期待してるんだよ」

 細めた目に笑い皺が寄る。「ま、言われる方はつらいよねえ」という言葉に、うまい返事を返せない。金子さんの手からそうめんの束が解かれて、鍋の中に落ちた。料理をしている時の金子さんは、とても楽しげだ。

「何作ってるんすか?」

「おいしいもの」

 金子さんは子供みたいな顔でにっと笑った。ざばざばと流れる水の音。茹で上がったそうめんが水に晒される傍らで、ぱかりとツナ缶が開けられる。小太りの身体を躍らせるようにしながら、金子さんは台所を行き来する。俺はそんな後姿を眺めながら、ぼんやりと色々なことを考えていた。

 これからのこと。会議ごとに、今まで一度も欠かさなかった企画のこと。いつか映画監督になりたいと、愚直な夢を抱えていた頃のこと。疲れきって、もう映画作りを辞めてしまおうかと、布団の中でぼんやり思った日のこと。

 これで最後にしよう。自分で勝手に見切りをつける愚かしさには気づいていても、それでもやっぱり、諦めることでしか楽になれない気がした。

「悩んでいるねえ」

 頭上から金子さんの声が降ってきて、ことり、と皿が置かれた。キンキンに冷やされたそうめんの上には、ツナの脂で金色に光るトマトが乗っていた。

「そうめんとトマト?」

「おいしいよ。騙されたと思って食べてごらん。お腹が満たされたら、少し心が楽になることもある」

 いただきます、と促されるまま箸をつけた。めんつゆの塩味とトマトの酸味がちょうどいい。さっぱりしているけれど、ツナのおかげでコクがある。おいしいですねこれ、と言いながらずるずるとそうめんをすする。

「スランプなんすよ、俺」

 何口目かを食べ終えると、言葉は自然に転がり出た。

「社長に色々言われるのが悔しいのに、どうしても納得させられない自分のセンスのなさとか、自覚したらなんも書けなくなっちゃって」

 食べながら、目がつんと熱くなって、口にじわりと涙の塩味がした。鼻をすすりながら、食べた。泣きそうになっていることがばれないように。

 金子さんは、何もかも見透かしているみたいに微笑む。

「才能とかセンスってのは生まれつきじゃなくて、結局は、どのくらい向き合ったかってことだと思うよ。僕はね」

「……じゃあ俺は、まだまだ映画に向き合い足りないんすかね」

「そうかもね。でもまだ若いんだから、焦らなくていい。……天才とか鬼才とか呼ばれる人の多くはね、結局は努力ができる人なんだよ。それこそ久美さんは努力の人だからさ、死ぬほど向き合ってる。映画にも、自分にも」

 じぶん、と俺は小さく呟く。

「そう。自分が何を撮りたいのか。感情とか、伝えたいこととか、信念とか、そういうものに執着できる人は強い。それだけあれば、才能はあとからついてくる。

 世の中にはね、現実世界から逃げて、逃げて、もう映画以外に自分の逃げ場所なんてどこにもなくて、命懸けで映画以外の全てを捨ててきたような人もたくさんいる。監督になるっていうことはね、そういう奴らと闘わなきゃいけないということだよ」

 亮也は何が撮りたい? どうして映画人シネアストになった?

 金子さんの、優しいけれどまっすぐな目が、俺をしかと見ていた。


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