陽平と祥子 1(終)

グラスの中で小さくなった氷が、酒で滑って軽い音を立てる。

仕事終わりの薄暗いバーカウンターの中央の席に陣取った陽平は、その氷を指でつついている左隣の祥子に礼を言った。

「あの時は本当に助かったよ、悪かったな、勤め先に口聞いてもらうようなことして」

「いいのよ、困ったときはお互い様でしょ。いつまで言ってるの、何年経ったと思ってるのよ。あの時は陽平くんの珍しく落ち込んだ顔も見れたし、私は気にしていないわ。仕事続けられてて良かったわね」

祥子は膝下までの丈の細身のスカートを揺らすようにして脚を組み替えた。

ふくらはぎがほんの少し覗く。

「ああ」

陽平は他に何も言い返すことなく、代わりに頭の後ろを指でポリポリと掻いた。

居心地が悪かった。

店内には大きめのボリュームで、最近流行りの洋楽が流されている。

後ろの席からは、がやがやと大きな話し声がひっきりなしに続いていた。

「それにしても、あなたが小学生相手に算数教えるだなんて、なんだか可笑しいわ。昔はそんな姿、全然想像できなかったのに、案外子ども受けがいいのね」

祥子は酒が入っているのも手伝ってか、暫く前からずっと機嫌良さそうにしている。

首筋まで露になった短い髪からは、深夜にも関わらず花のような柔らかな匂いがしていた。

「それはもう仕方ないさ。……転職の理由が理由だからな」

「でもあなた、本当は最初から好きだったんじゃないの、その女の子のこと。今でもその子のところに通ってるんでしょ」

からかうように祥子は悪戯な瞳をして陽平を横目に見た。

陽平は嫌そうに目線を逸らしながらまさか、と呟いた。

「女遊び好きなのは前から分かってたけど、まさか生徒に手を出してクビになるなんてねえ」

「自分で辞めたんだからクビじゃねえよ」

「同じようなものじゃない」

「あんなガキ相手に本気になんてなって堪るか」

陽平は、まるで自分に言い聞かせるみたいに吐き捨ててから、これではなんだか、癇癪を起こす前のガキのようだと、嫌な気持ちになった。

祥子は、まるでそれを見透かしたかのような目付きで、あらそうかしら、とからかった。

「あらそうかしら、じゃあなんで未だに一緒にいるのよ。謀らずもそう思ったからあの時逃げたんじゃないの。あなたは弱虫だものね。自分を晒け出して向き合うことをしないの、あなたの悪い癖だわ。そうじゃなかったら、陽平くんはそんなリスクの高いことはしないでしょ」

「知った風なこと言うなって」

「だって知ってるんだもの。好きな人の前でくらい、素直になればいいのに」

「……あんな子ども相手に必死こいてケツ振ってる姿なんか、間抜けなだけだろ」

「相変わらず良い格好しいなんだから」

くすくすと肩を揺すってから、祥子は一度美味しそうに酒を口に含んだ。

グラスに薄い色の唇の跡がつく。

祥子はそれを、軽く指で拭ってから、その指をおしぼりに擦り付けた。

「ねぇ、提案があるのよ」

「なんだ」

「私と結婚しない?」

「……は?」

陽平は、祥子があまりに突拍子もないことを言い出すので、とうとう酒に飲まれ始めたのかと心配した。

それでも、祥子の口調はまるで講義中でもあるかのようにしっかりとしていた。

祥子は自分のグラスを両手で包むようにして、中に入っている琥珀色の液体をまじまじと見つめていた。

「あのね、私、子どもが欲しいのよ。家族が欲しいんじゃないの、子どもがね、欲しいの。別にあなたのことを特別どうこう思ってるわけではないんだけど、ほら、シングルマザーだと周りにいろいろ言われるだろうし、どっちにしても父親がいないと産めないじゃない。だから私、あなたのために、家族っていう逃げ場を提供してあげるわ。その代わりに、私にあなたの子どもを頂戴。どうかしら」

「お前頭大丈夫か」

「大丈夫よ。私別にあなたを私のところに縛りつけるつもりなんて微塵もないわよ。ただ、そうすればあなた、その子の傍に居られるでしょ。あなたは弱いから、嫌われるのが恐いんでしょ。でも一緒にいて大事にしたいって、思ってるんでしょ。顔見たら分かるわよ。だから、格好つける余裕がなくなったときだけ、帰ってくれば」

「馬鹿げてるだろ」

「そう?私はわりと真剣に考えているわよ。私、陽平くんのことは好きなの。幸せになってほしいって思ってる。お互いを利用すれば、お互いに欲しいものを手に入れることも出来る。私は子ども、あなたはその子。悪い話では、ないと思うわ」

祥子はにこりと、取って付けたような笑顔をしてみせた。

「あなたの味方になってあげる。予防線さえ張っていれば、あなたはその子に素直になれる。別に帰ってこなくてもいいわ。その代わり、わたしの欲しいものも頂戴」

左手にひんやりとした右手を重ねられて、陽平は嫌な酔いの覚め方をしたと、舌打ちをしたくなった。

祥子はまっすぐに自分の目を見据えてくる。

後ろのほうで騒がしくしている他の客たちが、なんだか少しだけ遠くに感じた。

「本気なのか」

「私だって、こんなの誰にでも頼めるわけじゃないわ。言い方は悪いけど、こんなに都合の良い人は他にいないと思ったの。あなたにとっても、そうなんじゃないの」

陽平は、エリカのことを思った。

自分のせいで孤独になってしまった可哀想な女。

傍にいてやりたい。

傍に置いておきたい。

大事にしてやりたい。

嫌われたくない。

愛している。


「……分かった」


「契約成立ね」

怒るだろうな、と思った。

彼女はもうすぐ誕生日がくる。

これで本当に、自分は素直に想いを伝えることができるだろうか。


ああ、キスしてぇ。

酒が不味い。




(終)

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