赤い糸 3

そうやって何週間か過ごして、気付けば8月が来ていて、あっという間に盆が過ぎた。

毎日代わり映えしない暑さに腕の色が日に日に黒く変わっていく。

「あっつ……」

お客さんに頼まれた買い物は、まあ当たり前だが米とか水とか重いものばかりで、店から車に載せるまでのほんの少しの距離でさえ蒸せ返った熱気に息が苦しくなる。

エリカさんは、あれから暫くしてアパートから少し離れた場所にある総菜屋でバイトとして雇って貰えたらしく、日中は働きに出るようになった。

それなりに充実しているみたいで、夜にもあの寂しそうな顔の代わりに笑顔が増えた。

余り物とか多少貰えるらしく、俺もご相伴に預かって毎夜コンビニ弁当を買って帰ることはなくなった。

毎晩一緒に飯を食って、風呂に入って一緒に寝る。

俺にはそれしか出来ないけど、エリカさんは、俺が思うよりもわりと強い人なのかもしれない。

そんな生活に慣れた頃、ある日ほろ酔い気分のエリカさんが、バイト先から持ち帰った唐揚げを爪楊枝でつつきながら、不意に陽平さんの話をし出した。


「あたしね、時々夢を見るんだよ。あたしがさ、あのいつものスナックの、カウンターの向こう側にいてさ、常連のお客さんと楽しく話をしてるの。そしたらそこでカランカランってドアが開いてさ、陽平が入ってくるんだよね。ママが席に着かせたところで、あたしが持ってたグラスの酒を全部陽平にぶちまけるの。出てって!って怒鳴りながら。そんなこと一回もしたことないのにね」


エリカさんは相変わらず爪楊枝で唐揚げをつつきながらも、それを食べようとする様子はない。

くすくすと穏やかに笑いながら、また焼酎が入ったコップを傾けた。

「会いたいから、そうやって夢に見るんじゃないですか」

「うーん、どうかなあ」

思ったことを素直に訊いてみたら、エリカさんは苦笑いしながら首を傾げた。

「だって帰ってきてもさあ、あたし別に幸せじゃないじゃない?」

「そうかな」

「そうだよ。だって、どうせ離婚しないでしょ」

「分からないですよ」

「分かるよ。だって、絶対良い人なんだもん、相手の人。そうじゃなかったらあんなのと結婚なんてするわけないし、今頃あたしは不倫で責められてるはずでしょ、5年も奪っていたんだから。いくらでもそんなタイミングはあったはずなんだし」

「あー、そうか……」

「人を好きになるのっていいことなんだろうけどさ、やっぱりなんだかんだ、相手から好かれるっていうのは大事なんだよね。そっちのほうが幸せに決まってる」

「そっすね」

「だからさ、別に要らないんだよ、あんな奴。どうせこうやってあきらくんが世話やいてくれるってタカ括って居なくなったんだろうし」

「俺の行動はお見通しだった訳ですか」

「あきらくんお人好しだもんね」

穏やかに笑うエリカさんの表情には、無理をしているような様子は全然見当たらなくて、前を向いている、吹っ切れたような、清々しさだけがあった。


ある日俺は、たまたまいつもよりも早く仕事を切り上げることが出来て、夕方過ぎにアパートに戻った。

汗だくで風呂に入りたくて、自分ちのドアの前で汗まみれの手を尻ポケットに突っ込んで鍵を取り出そうとしていた。

そしたら隣の部屋から、微かに声が聴こえる。

エリカさんの声だった。

誰と話しているのか。

もしかしたらあの人が帰ってきたんじゃ。

気になって、気になって気になって、いやこれ人としてやっちゃ駄目だろって分かっていながら、どうしようもなくて、足音を立てないように隣のドアの前まで移動して、そのボロい玄関ドアにそっと耳を近づけた。

エリカさんが、歌を歌っていた。




こんなに近くに聴こえるってことは、台所にでもいるんだろうか。

晩飯の用意でもしながら、口ずさんでいるんだろうか。

歌っているのは、何年も前に流行った別れの歌だった。

歌詞と曲調が全然合ってない、とんでもなく爽やかな名曲だ。




始めは普通に口ずさんでいたのに、段々とその声は大きくなってきて、怒鳴るみたいになって、仕舞いにはとうとう殴りかかりそうな勢いで歌っていた。

そして最後のサビの直前で、ぴたりとその声は止んだ。



泣いているんだろう、と思った。

台所で、飯の用意しながら、歌うたって、思い出して、堪らなくなって泣いているんだろう。

そう思った。

全然、吹っ切れてなんかいないんじゃないか。

俺は昨日までなにを見ていたんだ。

しばらくドアにもたれ掛かって、かける言葉が見つかりそうになくて、そのまま静かに自分の部屋に帰った。


日が落ちてもなんだか隣の部屋に行く気にならなくて、ずっと自分の部屋でテレビを観ていた。

だけど、最近ずっとひとりでいることがなかったから、ただ自分の部屋でテレビを観ているだけの、それだけのことがなんだか寂しくて、手持ちぶさたになってきた。

誰かに会いたい。

会いたい。

……あいつに会いたい。

放り投げてあるスマホを眺めてみる。

呼べば来るだろうか。

まだ仕事をしているだろうか。

ずっとほったらかしにしていて、連絡もろくにしなかったから、怒っているだろうか。

いろいろ考えて、迷った指がスマホに触れそうになったとき、急にインターホンが喧しく鳴り響いた。

自分でも面白くなるほどビクッ、と肩がすくんで、玄関に目を向けて、そっと立ち上がって移動して、そのドアを開けてみる。

そこには、久し振りに見る慎二がいた。

「よお。今日は逢い引きしねえの?お隣さんと」

へらりと笑ったその顔があまりにも今まで通りで、俺は今なにをあんなに迷っていたんだろうかと、ちょっと情けなくなった。

「久し振り、慎二。……今ちょうど、お前に連絡しようか迷ってたとこ」

「そうなん、ならもうちょっと待てば良かった。しかも悪い、俺今日手ぶらだわ、会えると思ってなかったからさ。入っていい?」

返事をする間もなく慎二は勝手に玄関を大きく開いて部屋に入ってきた。

「会えると思ってなかったって、じゃあお前なんでここ来たんだよ」

後を追いながら慎二に尋ねると、あー、日課だよ日課、と返ってきた。

「日課?」

「あきらにああ言った手前さあ、なかなか俺から連絡するの躊躇ってさ、でもどうにも落ち着かないし、だからあれから、この時間帯時々来てたんだよ、あきら会えないかなーって。まあいっつも電気ついてないから、そのまま帰ってたんだけどなー」

「は、まじで」

なんだそりゃ、それって……普通にストーカーじゃんかよ。

慎二は勝手に扇風機のボタンを最強に変えて、その前をさっさと陣取った。

ぶうん、と、羽根の回る音が一際大きくなる。

「なになに、俺に会いたかったの?」

振り返ってにやつくその顔に、なんか、なんだ。

急にたまらない気持ちになってくる。

「……、おう、会いたかったわ」

「へっ?」

「会いたかったって」

「へ……?」

「会いたかったんだよ」

「……ど、どうした?具合悪い?」

なんで訊いたお前がそんなに動揺してるんだ。

俺がお前に会いたかったらおかしいんか。

「会いたかったんっすわ、慎二さんよお」

いや、確かにおかしいな。

俺ほんとに具合悪いんかな。

だって俺、なんでこんな気持ちになってんだ。

慎二がこっち振り返るみたいにして座ってるから、近くまで寄ってしゃがみこんでその顔をまじまじと眺めてみる。

「ど、どうした?大丈夫か?」

「おう」

なんでちょっと怯えてんだ。

目ぇ丸い。

頬染めんな。

唇、よく見たらわりと厚めだな。

あー無理。

無理無理無理無理無理無理無理無理。

顔見ながらとかほんと無理。

右手で慎二の視界を遮ってみる。

眉間に皺を寄せた感触が手のひらに伝わる。

文句を言われる前に、何故か俺は慎二にキスがしたくなって、そのまま軽く、キスをしてみた。

軽く触れて、すぐに離れる。

うーん、やっぱ微妙。でも。

「えっ、ちょっ、」

「俺さあ、なんか、」

目の前にお前がいんの、なんか嬉しいんだわ。

「俺、もしかしたらお前がいないと駄目かもしんない」

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