赤い糸 2
朝、いつも通り6時前に目が覚めて、布団の中がいつもよりも温かくて狭いことに気づいて、そうだったここエリカさんちだった、と思い出す。
目を開けるとエリカさんが真横で気持ち良さそうに寝息を立てていた。
昨夜は荒れていたようだったし、目を腫らしていやしないかと、親指でそっと瞼を撫でてみたけど、触ったところで分かるはずはなかった。
結局あのまま一緒に眠ってしまって、起こさないようにとそっと起き上がってみれば俺が買ってきたビールはビニール袋に入って投げ捨てられたままになっている。
放り投げたまま拾うのを忘れていた。
焼酎のボトルも中途半端に飲み残しが入ったままのコップもそのままだった。
俺は取り敢えず物音を立てないようにゆっくりと布団から抜け出して、ビールを冷蔵庫に仕舞おうと袋を拾い上げた。
カサカサと乾いた音を気にしながらふと考える。
昨夜の感じからすると、冷えてたら気づいてすぐ手をつけるのではないか。
……ううむ。
常温のがいいか。
まさかとは思うが流石に生ぬるいビールまでは飲むまい。
そう思い直して、一緒に入ったままのポテチごと全部簡易テーブルの上に、そのままそっと置いた。
代わりに焼酎とコップを回収して、台所まで持っていき、コップは一応洗っておいた。
いつまでもここにのんびりと居られる訳でもなし、仕事もあるし、だが帰ろうにも鍵を開けたままにしておくのは無用心だろうかと思ったので、そこまで済ませてからエリカさんに声をかけた。
「エーリーカーさーん」
頭もとにしゃがみこんでぺちぺちとほっぺをつつくと、目は開けないまでも、エリカさんは眉間に皺を寄せて小さく唸った。
「おおい、エリカさん、俺もう帰りますからね。玄関、カギ、内側から閉めといてくださいよ」
「うううん、……はぁ、…………やだ……」
耳の遠いばあさんに話すみたいにゆっくり声をかけると、うん、これ全然起きてないな。
完全に寝ぼけてる。
「寝起き悪いなあんた。やだじゃねえよ、強盗入ったらどうすんの、カギだけしてからもっかい寝なよ」
ほっぺをつつき続けると、さも鬱陶しそうに手で払われた。
「カギしといてよぉ……」
「どうやってだよ、俺が出たあと内鍵閉めろって言ってんの、危ないんだから」
するとエリカさんはさも嫌そうに寝返りを打って向こうを向いてしまった。
「もおー、煩いなあ、分かった分かった、取るもんないから大丈夫」
「駄目だこりゃ」
「あたまいたい……」
「二日酔いですよ、俺仕事行くから、帰りますからね」
「分かった分かった、おやすみ」
面倒そうにそれだけ言って、エリカさんは布団に潜ってしまった。
ま、こんな見るからに金のなさそうなアパート狙う強盗もそうそう居ないか。
やれやれと思いながら玄関に向かうと、布団の中からくぐもった声が俺を呼んだ。
「あきらくーん」
「なんすかー?」
「ありがとね」
「……、はいよ」
それから俺は隣の自分の部屋に戻り、風呂に入って着替えてからいつものコンビニに向かった。
朝飯とウコンを買って戻り、鍵のかかってないほうの部屋の玄関にウコンだけ置いて、おにぎりを食いながら仕事に向かった。
いつも大体へらへらしている社長は、珍しく不機嫌だった。
聞いてみれば、社長の中ではほんの少しのしょうもないことをしたつもりが、うっかり奥さんの逆鱗に触れたらしく、もともと社長は奥さんには頭が上がらないタチだもんだから、一切の言い訳も聞いて貰えず昨日から一言も口を聞いて貰えないんだそうだ。
知らんがな。
「なにしたんすか」
「なんで俺が悪者な前提なんだよ」
「俺どっちかっていうと社長より奥さんの味方なんで」
「ばーか!あきらのばーか!ぜってぇ話してやんねえからな!」
「別に聞きたかねえよ」
痴話喧嘩の内容をそんなに聞きたい他人はそう居るまい。
だが俺は自分の仕事まで俺に押し付けようとしてくる社長よりも、時々昼飯差し入れに来てくれる奥さんのほうが好きだ。
当たり前だと思う。
「鬱陶しいんでさっさと謝って許してもらったらどうですか。なにしたんか知らんけど」
「それが出来りゃあ苦労はねえんだよ」
回転椅子をギコギコ揺らしながら不貞腐れたように口を尖らせる社長を見て、夫婦っつうのもなにかと大変なんだな、と少し憐れんだ。
「ぶっ細工な顔」
「黙れ糞餓鬼」
社長夫妻を見ても、いろんなお客さんの家庭を見ても、得る感情は同じだ。
仲が良さそうで、それでいて不満がありそうで、それでも大体は手を取り合っている。
急に忽然と姿を消したあの人の家庭は、今どんな姿をしているんだろうか。
隣人の玄関は夜には施錠してあった。
明かりが洩れているのを確認して、インターホンを鳴らすと、中から人の動く気配がして、どちらさま、と聞かれたから俺ですよ、と応えた。
中に居たのは、やはりエリカさんひとりだった。
「ああ、あきらくん。ウコンありがとう」
「どういたしまして。大丈夫ですか」
ごく自然に部屋の中に入れてもらい、靴を脱いで居間に入る。
「うん、大丈夫。昨日はごめんね、折角来てくれたのに、やけ酒しちゃってて」
部屋の中ではいつものように小さな音でテレビが点いていて、夜飯は済んでいるみたいだった。
「いっすよ、別に。迷惑かけられんのも嫌いじゃないし」
勝手に座り込んで、買ってきたばかりのカップ酒をひとつ渡してみる。
貰えるものは貰っとけ主義は、お互い様だ。
「どーぞ」
「ありがと。ご飯食べた?」
「弁当買ってきた」
エリカさんは、俺に何をしに来たのかは聞かなかった。
ただ、弁当を食えるようにと、いつもの簡易テーブルを出してくれた。
今夜はわりといつも通りの感じで、ほんの少しの足りない存在感に対する寂しさだけが漂っていた。
俺がコンビニ弁当を広げる対面に座って、エリカさんは俺が食うのを眺めながらカップ酒を開けた。
お互いに、今日一日どんなことをしたのかを話し合い、ビールはさっき飲んでしまっただとか、社長の機嫌が悪くてとか、他愛もないようなことをぽつりぽつりと話した。
エリカさんは俺の社長のモノマネを見て爆笑した。
陽平さんの話しは、まったくしなかった。
それから一度隣に帰って風呂に入って、もう一度エリカさんの部屋に戻った。
エリカさんも風呂に入っていたようで、さっきまでなかった甘くて温かい匂いが部屋を覆っていた。
布団を敷いて、二人で横になって、腕枕をした。
エリカさんは嫌がることも疑問をもつ素振りも見せず、ただ、俺の好きなようにさせてくれた。
それでもそれ以上はなにもすることは出来ず、ただ微かに濡れた髪の甘い匂いを嗅ぎながら、自分よりも小さな頭だけを抱きしめて寝た。
例えそのままエリカさんのことを抱こうと思ったとして、彼女は恐らくなんの抵抗もせずに俺に身体を預けたと思う。
でも出来なかった。
翌朝になって、この隣人っていう肩書きが外れてしまうのはなんだか恐い気がしたし、何よりも陽平さんと比べられるのは嫌だった。
陽平さんよりも満足させてやれるような自信は、情けないことに微塵もない。
だから、温かさだけ分け合って、傷を癒すみたいにして、眠った。
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