赤い糸 1
『は?』
と、慎二は次にはわざとらしく、あからさまに不機嫌そうな声を出した。
『なに言ってんの?泊まるってお前んち、隣じゃん』
帰れや、意味わかんねえ。
そう返されて、そりゃまあそうなんだけどさ、と口ごもる。
まあ、慎二に不機嫌になられる理由は、正直俺にはないんだけれども。
なんかあったんかと聞かれて、漸く俺は隣の状況を慎二に軽く説明した。
『ふーん。で?オッサン帰らないからお前が代わりになるってこと?』
「いや代わりにって言うか、そりゃ代わりにはなれねえけど、なんっつーかさあ、こう、今は放っておきたくないと思っちまったんだよ、あの人のこと」
どうにもしてやれないのは分かってるんだけど、なにかどうにかしてやりたい。
そう思ってしまったんだ。
仕方ねえじゃん。
そう伝えると慎二は暫く押し黙った。
不機嫌そうな顔で膨れているのが見えるようだ。
怒ったかなあ。
でも俺文句言われるような筋合いもないような気がするんだけどなあ。
そんなことをつらつらと考えながら返事を待っていると、慎二は突然『あっそ、』と投げやりに寄越した。
「え、怒った?」
『分かったよ』
「は?」
『つまり俺は暫くそっち行かないほうがいいんだろ、邪魔だもんな、分かったから、好きなだけ世話焼いて、そんで最後には盛大に振られやがれ』
おうおう何だそりゃ。
「いやだから別にそういうつもりじゃなくて、」
『煩ぇ、お前が世話焼きな性分だってことはこっちだって嫌ってほど分かってんだよ、だから、分かったから、気が済むまで好きにすれば?』
「え、おう、ありがとう」
不貞腐れたような声ではあったけど、なんだか偉く簡単に納得してもらえてしまった。
電話を切って畳に放る。
見慣れすぎた天井の木目を意味もなく凝視してみる。
いつも思うが目みたいに見えてしまって気持ち悪い。
正直なところ、自己満足でしかないっていう自覚はある。
俺が傍にいたところでエリカさんが喜ぶわけでもなし、逆に迷惑がられる可能性だってないわけじゃない。
でも俺は今彼女を放っておきたくない。
ひとりには、したくない。
だってほら、身体の一部がなくなったみたいな感覚なんじゃないのか。
陽平さんが言っていたような。
エリカさんは陽平さんの半分なんだろ。
そしたらあの人今身体の半分ないんじゃん。
不便じゃん。
助けてやりたいじゃん。
これって別に自然な感覚だろ。
違うのかよ。
頭のなかで何度も何度も自問自答を繰り返す。
誰かに言い訳を繰り返しているかのようだ。
誰に言い訳しようとしてんだ、俺は。
「あーあ、……面倒くせ」
取り敢えず明日もっかい寄ってみて、様子見てから決めよ。
寝て起きたら当たり前だけど朝が来て、仕事に行けば当たり前だけど夜には終わる。
手ぶらで行くのも体裁が悪いから、コンビニでビールとつまみ買ってから自分ちの隣のインターホンを押した。
出てきたエリカさんは、既に酔っていた。
「あれえ、あきらくん、どうした?」
「や、酒買ってきたんだけど、完全に手遅れですね、これ」
顔色こそ変わらないものの、目が潤んでるし足がふらついている。
そして酒くっさい。
なに飲んでんだ、この人。
「えええ、ありがとう!飲む飲む!おいでー!」
陽気に両手を広げてくれるのはいいんだが、平衡感覚駄目になってるらしく、ふらついて異様に前のめりだ。
「危ねえ危ねえ!ったくあんたひとりで何をどんだけ飲んでんだよ!」
慌てて身体を支えて抱き止めてみたらば、あっつー。
ぽっかぽかじゃねえかよ。
こりゃ相当、いや完全に出来上がってんな。
「焼酎飲んでただけだよう」
「なるほどな、水割りでもロックでもなく原液なんでしょうねきっと!ったく、しょうがねえなあ、お邪魔しますよ!」
あっつあつに出来上がってしまっている身体と買ってきた荷物を抱えて人んちの玄関を我が物顔で上がる。
エリカさんはかろうじて腕を首に回すようにして抱きついてくれてはいるのだが、なんかもう女抱き締めてんのに全然むらむらしない。
やれやれとしか思えない。
「うううーん……なに買ってきたの?」
「ビールだけど、冷蔵庫入れときますよ、明日にしましょう」
「飲む飲む」
「無理無理。ポテチならあげる」
「たべるたべる」
「はいはい」
部屋の中にはまだ布団は敷いてないらしく、俺がいつぞや親子丼ご馳走になった小さな簡易テーブルと、テレビが小さな音でついていた。
深夜ニュースが流れている。
ぜってえ見てねえな、これ。
簡易テーブルの上には飲みかけの温そうなコップとリモコン、畳には麦焼酎の4リットルのペットボトルが半分以上空いた状態で置いてある。
まさか今日開けたわけじゃあるまいな。
「大丈夫ですか、布団敷きますね、押し入れ開けますよ」
可能な限り支えてゆっくりと畳に横たわらせると、エリカさんは首に回していた腕を、離すどころか逆に力を込めて離すまいとして抱きついてきた。
俺は額を畳に擦り付けたまま動けない。
頬に当たる頬が熱い。
「あのね、今日さあ、」
エリカさんがぽつりと溢すように呟いた。
「仕事見つけなくちゃと思ってさあ、いろいろごそごそしてたんだけど、」
「どうでした?」
「……全然ね、だめだったの。誰も雇ってなんかくれないの、」
「……」
涙声に聞こえた。
心細さが伝わったように感じてしまった。
「どうしよう……」
そうしてエリカさんは、静かに、でも本格的に泣き出してしまった。
俺は抱き合った体勢のまま身体を横に倒して、エリカさんが泣きつかれて眠るまで、そのまま抱き締めていた。
細い髪の毛が、そのまま弱々しく見えた。
完全に寝入ったのを確認してから、そっと身体を離すと、顔には横に流れるようにして涙あとが残っていた。
まずテレビを消して、音を立てないように気をつけながら押し入れを開いて布団を敷いた。
力の抜けた身体の重さは、日頃から仕事でじじばばの世話してるだけあってか、大した苦ではなかった。
電気も消して、隣に横たわってその細くて長い髪を指で鋤くと、暗い部屋の中で現れた額に、4つも歳上なのになんだかあどけなさを感じてしまって、素直に可愛いと思った。
「仕事、なあ……」
考えてみれば当たり前の話しなんだ。
職歴のない30手前の中卒の女なんて、多分だけど、どこも雇わない。
しかもこの5年近くは、バイトすらもしていなかった筈だ。
きっと最終的には、いきつけのスナックに落ち着くんではないか。
不安でいっぱいなんだろう。
こんなに酔った姿を見るのは初めてだった。
そう思うと、途端に憐れに思えた。
好きになった相手が、悪かったんだろうか。
俺は陽平さんのこと好きだけど、俺にとってのそれとはまるで違うんだろうからなあ。
悪いオッサンなんだなあ、あの人。
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