陽平とエリカ 5

それからふたりは、居間に座り込んで沢山の話をした。

この数年で経験したことを、隙間を潰して埋めるようにして話した。

運良く塾の講師として拾ってもらったこと。

引っ越しをしたこと。

生活が随分と変わってしまって、それでも新しい環境に馴れるのは早かったこと。

エリカも、家を追い出されたこと。

何も分からない環境で必死だったことを話した。

絡め合った指先同士が労るように撫で合うのを、心地好く感じた。

陽平の手のひらは、あの頃と変わらなかった。


それから陽平は時たまエリカのアパートを訪れるようになった。

ふらりと現れては、夕食を一緒に摂り、同じ布団に入って、少しずつ、エリカに新しいことを教えてくれた。

ふらりとやって来て、数日居着いてはまた何日か姿を見せない。

でも会えばいつでも笑顔になれた。

心が軽かった。

そんな生活を続けてまた何年か過ぎ、それはある年のエリカの誕生日だった。

いつものようにふらりと陽平はやってきた。

7月の終わりの、まだ明るい夕方だった。

エリカは玄関の隣の台所で自分の夕飯の支度をしていた。

無言で玄関が開き、陽平が入ってきた。

「あれ、おかえり」

昨日までは陽平は居なかった。

自分の誕生日に現れてくれたことに、エリカは素直に喜んだ。

冷蔵庫に入れている1ピースのショートケーキを思い出して、もうひとつ買っておけば良かったと思った。

「ごめん、来ると思ってなかったから、ごはん一人分しかない、」

言いかけて、陽平の様子がおかしいことに気づいた。

ただいまも言わない。

靴も脱がない。

酷く冷めたような表情で、黙って玄関に立っている。

「……どうしたの」

エリカはそんな陽平に何故か不安になって、菜箸を握ったまま小さく訊ねた。

陽平は、漸くぶっきらぼうに口を開いた。

「お前今日誕生日だったか」

「そうだよ」

「俺なあ」

「なに」


「結婚してきた」


「………………え?」

誰と?

自然な疑問が湧き出してくる。

「お前の知らない女と」

「……いつ?」

「今日」

「………………なんで?」

「お前には関係ない」

そこから先は言葉が出なかった。

頭の中が真っ白になった。

どういうことなの。

この人何を言っているんだろう。

そう思うのと同時に、エリカは急に昔のことを思い出した。

お前には関係ない。

あの頃にも同じことを言われた。

なんで関係ないの。

なにが関係ないの。

これあたしには関係ない話なの。

じゃあなんで今言ったの。

あまりにも多くの感情が一気にエリカの中に渦巻いた。

あの時も自分との関係を一度も肯定してくれなかった。

遊ばれてるだけだ。

誠の言葉も思い出す。

そういえば今だって陽平の家に招かれたこともない。

急に来て急に居なくなる。

思えば時々ふとした時に思い詰めたように考え込む素振りがあった。

好きだなんて、今まで一度たりとも言われたことがない。

エリカは無意識に半歩後ずさっていた。

菜箸が、握りすぎた手の中から離れない。

心臓が酷く打ち付け始めて止まらない。

陽平はなにも言わない。

自分だけじゃなかったなんて。

いつから?

今までずっと?

今までの優しさは何だったの。

あんなに触れ合ったのは何だったの。

あたし何してたの。

なにこれ全部馬鹿みたい。

信じていたのに。

疑いもしなかったのに。

「じゃあ、なんで、うちに来たの……」

エリカがやっとの思いでそう呟くと、陽平はあたかもその言葉を待っていたかのようにして、ゆっくりと顔を上げた。

その顔はさっきまでの冷めたような表情ではなく、何かに押し潰されたような、切なくて、それでも何かの覚悟を決めたような顔だった。

「エリカ」

「……なに」


「愛してる」


「………………は?」

エリカはもう一度耳を疑った。

何を言っているのかまるで分からない。

「何言ってんの」

「愛してる」

「誰を!?」

半ば叫んでいた。

意味が分からなかった。

陽平が靴を脱いだのが見える。

一歩ずつこちらへ歩いてくる。

エリカは後ずさった。

両目から涙が滲み出してくるのが分かった。

全然意味が分からない。

さっき自分じゃない人と結婚してきたって言った。

誰なの、なんなの、なんでここにいるの、なんでそんなこと言うの。

そんな言葉信じようがない。

「愛してる」

「嘘よ」

「愛してる」

「やめてよ」

「愛してる」

「来ないで!」

居間に辿り着く前に腕を取られて、それを無理矢理振り払ってそのまま、陽平の左頬をひっぱたいた。

乾いた音が響いて、手のひらが熱く痺れて、それでも陽平は避けることもせず、痛いとも言わなかった。

次に掴まれた手のひらからは、逃げ出そうともがいてもその力には敵わなかった。

腕を握るその手を初めて汚いと思った。

無理矢理に抱き締められて、足掻いても足掻いてもびくともしない体温に、もう嫌だと心底思った。

菜箸が手から落ちる。

思えばずっと振り回されている。

ずっとずっと一方通行でいる。

人のものになったんなら、一番にすらなれない。

もう顔も見たくない。

「帰ってよ」

「愛してる」

「言う相手が違うんでしょ、結婚したんでしょ、そしたらあたしなんていらないじゃん、なにしてんの離して、」

「愛してる」

「あたしには関係ないんでしょ、意味分かんない、もう聞きたくない出てってよ」

「愛してる。もうどこにも行かない」

愛してる。

それしか言わない。

腕の中から抜け出せない。

どうして欲しいのか分からない。

どうしていいのか分からない。

「なにこれ、意味分かんない。最っ低……」






「それで、それからこないだまでほんとにずーっとうちに居たわけ。5年もね。意味分かんないでしょ。分かるわけないんだよ、だってあたしにも未だに意味分かんないもん」

エリカさんはそう言って、疲れたように力なく口から煙草の煙を吐き出した。

行儀悪く椅子に片膝を立てるようにして座って、ゆっくりとテーブルの上の灰皿に灰を落とす。

俺は、向かい合った椅子に腰かけて、その指先を見つめていた。

「まあそれからも何だかんだ色々あったけどさ、結婚したとか言ったのが嘘みたいに誠実になったんだよ。家賃代わりに払うようになってさ、このテーブルセット買ったのも陽平だしね」

そこまで聞いて、俺はどうしても疑問に思ったことを聞きたくて堪らなくなった。

「あの、エリカさん、確かに意味分かんねえけど、本当なんすか、陽平さんが結婚したって話。実は焼きもち妬かせるためかなんかの嘘なんじゃ……」

「あー、それはね、なんか本当みたいよ。書類の中に、証拠見つけちゃったし」

「まじかよ……」

「祥子さんっていうんですって。まあ、どんな人かは知らないけど。陽平と同い年なのは、分かったけどね」

もうちょっと隠せよ、って話だよね、と、エリカさんは苦笑いをした。

その5年間、その人はどうやって過ごしたんだろうか。

想像だにし得ないけど、でもエリカさんは、これからどうするんだろうか。

「エリカさんは、どうするんですか?」

「別に、どうもしないよ。忘れたくらいにまた帰ってくるんだろうし。まあでも、取り敢えず仕事は探さないとね。ああごめん、こんな時間だ、ごめんね、変な話聞かせちゃって」

「いや、それは全然いいっすけど」


エリカさんの部屋の玄関を開けると、辺りはすっかり夜になってしまっていた。

俺は尻ポケットから自分の部屋の鍵を出して、鍵穴に差し込む。

何だか気分が重かった。

どうにかしたいと、思った。

だから、部屋の照明を点けて布団に寝転がって、慎二に電話をした。

慎二は、いつも通りの優男の声だった。

『おう、どうした』

「あ、悪い、俺だけど。あのさ、悪い俺、明日から暫くエリカさんちに泊まろうと思う」

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