陽平とエリカ 4

「は、なにそれ、先生ほんと意味わかんないよ」

エリカは苛ついて語気を強めた。

それでも陽平は落ち着いた調子で

「ま、お前は馬鹿だからな。分からなくていいんだよ」

と言って、面倒くさそうに目線を逸らした。

「分からなくていいわけないじゃん。確かにあたしは馬鹿かもしれないけど、なんであんなこと言うの」

「んなもん決まってるじゃねえか」

冷えた言葉とは裏腹に、エリカの左頬には陽平の温かくて大きな手が添えられた。

エリカはその温度をどう受け取れば良いのか分からなくて、どこかすがるような気持ちで陽平を見上げるしかなかった。

わざとらしく優しく笑って見せるこの顔は、なにを考えているんだろうか。

「お前は俺のことが好きなんだろ?」

「……そうだよ」

「ならそれでいいじゃないか。他に何が必要なんだ?」


もう少し頭が良ければ、なにか言い返すことができたかもしれない。

でもそのときのエリカには、なにも浮かぶ言葉がなかった。

これからどうしていけばいいんだろう。

そんな気持ちを抱えて夜を過ごし、朝起きると、エリカの周りには変化が生じていた。

いつも通りの時間に登校すると、クラスの誰もがエリカを避けた。

挨拶もろくに返してもらえず、ただ遠巻きに見つめられるだけの状況になんとも言えない危機感を感じた。

居づらさから廊下に出ると、すぐそこから誠が慌てたように飛び出してきて、ちょっとこっち来い、と腕を引かれた。

足早に近くの階段を駆け上がり、踊り場の隅で誠がエリカを隠すようにして立ちはだかった。

「馬鹿!お前、俺がこないだちゃんと忠告してやったのに」

「え、なんで?誠こないだ話しかけないって」

「今それどころじゃねえよ!お前退学させられるぞ」

「えっなんで?」

「全部ばれたからだよ、学校中にな。今須田が呼び出されてる。多分もうちょっとしたらお前も」

エリカはあまりに突然のことで、なにが起きているのか分からなかった。

呆然とするエリカに、誠は渋い顔で自分が知っている範囲の情報を教えてくれた。

「お前須田の家行ったんだろ。まあお前かどうか知らないけど、なんかそれを、3年の、須田のこと好きだっつー先輩に見られてたんだと。そんで焼きもち妬いたその先輩が、ずっとこっそり須田に着いて回ってたんだってさ。そんでお前らの会話聞いて、その人今日の朝になって職員室の前ででっかい声で須田に詰め寄ったんだってさ。お前の名前つきでな」

「嘘でしょ……」

「嘘なら教室あんな空気になってねえだろ。ま、うちのクラスにも結構いるもんな、あいつ人気だし」

「だってそんな、あからさまな話とかしてたつもりないのに……」

「女の嫉妬は恐えな。今朝なんか、あんなガキみたいなののどこが好きなのよーって叫んでたみたいだぜ」

エリカは言葉もなかった。

誠にもう一度力なくお前ほんとに馬鹿だよ、守ってやれなくてごめん、と頭を撫でられたところで、担任の若い女教師が急いたように迎えに来た。

進路指導室には校長と教頭、生徒指導、学年主任、担任が揃い踏みで、その中に隠されるようにして陽平が座っていた。

担任が庇うようにしてエリカの傍に座ったが、エリカは動揺のあまりに膝の震えが止まらなかった。

皆が一様にして優しい口調で、本当のことが知りたいんだと言った。

エリカは、陽平はなんと言ったんだろうかと思った。

肯定したのだろうか、否定したのだろうか。

黙ってこちらを見るその瞳に、なにが映っているのか分からなかった。

「本当じゃないです」

と、エリカは嘘をついた。

なんとかして陽平を守りたい。

そう思った。

どう言えば真実味が増すだろうか。

そんなことばかり考えながら、エリカは必死で震える唇を動かした。

「先生のこと好きだけど、でも、他になにもないです」

どこを見ていればいいのか分からず、エリカはずっと伏し目がちでいた。

教頭と生徒指導がなにか話をしている。でもなにを言っているのか分からない。

緊張のあまり頭に真っ白な靄がかかったようにぼーっとしている中で、エリカの耳には陽平の声だけがはっきりと聞き取れた。

「今彼女が言った通りですよ。昨日は彼女の申し出を断っていただけですし、なにより僕は彼女に対して好きだのなんだのと言った覚えは一度もない」

その言葉に、エリカは一瞬はっとした。

その通りだ。

好きだなんて、一度たりとも言われたことがない。

生徒指導の本当なんだな、という問いかけに、エリカははいと答えた。

その一言だけが真実であることが、悲しかった。


それでも程無くして、陽平は学校を辞めた。

騒動の責任を取るという名目だった。

学校に完全に居場所をなくしてしまったエリカも、それからしばらくして自主退学した。

誠は引き留めたが、エリカの両親はそれを許さなかった。

エリカの両親は厳格で、高校中退という肩書きを手にした娘を恥じ、しばらく彼女を家から出さなかった。

そして次の春に父親が隣町の小さな古いアパートを契約し、娘をそこに押し込んだ。

それからエリカはいくつものバイトを繰り返して生計を立てた。

アパートの近くのコンビニや、個人経営の衣料品店、カラオケ店、人に紹介してもらったスナック。

中卒でできることは、限られていた。

それでもエリカは必死に仕事をこなし、自分ひとりが生きていくだけの収入は得た。

それなりに好きな人もできた。

楽しいと思えることも増えた。

自分を知っている人のいない環境は、エリカにとっては少しばかり気が楽だった。

そんな生活を続けて何年も過ぎ、ある日突然、なんの前触れもなく、陽平がエリカの前に現れた。

買い物帰りのことだった。

「……先生?」

「神崎……」

目の前にいた陽平は数年前の教師の姿とは似ても似つかず、髪は少し長くなっていて、薄く無精髭が生えていた。

お互いに驚いたのは同じだったようで、陽平も面食らったような顔をしていたが、それでもエリカは、これはもしかしたら神様がくれた運命ってやつなんだろうかと思った。

「お前ここで何してるんだ」

「先生こそ、なんでこんなとこにいるの」

「そりゃ、……」

陽平が言いかけて言葉に詰まるので、どうしたのかと思えば、知らぬ間に自分の目から涙が溢れ落ちていた。

会えると思っていなかった人と再開できたことと、この数年の心細さが堪えきれない涙になって、次から次から溢れ落ちた。

気丈に振る舞っているつもりではいても、やはり一人の暮らしは不安でたまらなかったのだ。

陽平はゆっくりと近づいてきて、そんなエリカの頭を片手でくしゃりと撫でてから、額に軽いキスをした。

「お前今、どこに住んでんの?」


エリカのアパートを見た陽平は、開口一番に「おお、ボロい」と率直な感想を漏らした。

それでもエリカと一緒に部屋に上がり込み、一番最初にエリカを抱き締めた。

「先生……」

抱き込まれた耳元で、くぐもった声が小さく響く。

「もうお前の先生じゃないよ」

「でも、先生だもん。須田先生でしょ」

「違うよ」

「じゃあ、誰なの」

「そうだな……、陽平」

「ようへい?」

「そう、陽平」

「陽平……」

「そうだよ、エリカ」

涙が止まらなかった。

下の名前を覚えてくれていたなんて、初めてそれを呼んでくれるなんて、声を聞けるなんて、抱き締めてくれるなんて、全部が信じられなかった。

何年経っていたとしても、やっぱりこの人が好きなんだと、エリカはそう改めて思った。

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