陽平とエリカ 3
そこを飛び越えるのは簡単だった。
気を使ったのは初めて陽平の借り上げ社宅に訪れた時、顔が隠れるように帽子を深々と被り直した、ただそれだけだった。
表札の出ていないドアの前に立ってチャイムを鳴らす自分の指先が酷く緊張していて、応答を待つ間、実はこれが別の人の家だったらどうしよう、などということを落ち着きなく考えていた。
一言の返事もなく開けられたドアの向こうには、見なれない顔をした陽平がいた。
玄関へと踏み入れたその一歩は、想像していたよりもずっと軽かった。
陽平は、セットもしていないままの髪で煙草をくわえていた。
初めて見た普段着は、白の薄いセーターだった。
「なんで電気ついてないの」
「節電。外の光だけで結構明るいだろ」
無言で促されて、薄い靴下で入った陽平の部屋には、数冊の本が床に散らばっていて、それ以外にはあまり生活感は感じられなかった。
唯一使った形跡があるのは、部屋の隅のベッドだけだった。
自分のぎこちなさを自覚して目を泳がせるエリカに、陽平は
「お前帽子似合わねえな」
と言って、くしゃりと笑ってみせた。
前置き、なんてものはまるでなくて、陽平は一度離れた流し台の灰皿に煙草を押し潰してから、すぐにエリカの正面に戻ってきて、肩に掛けていた小さな鞄の紐を床に落とした。
触れたのは、学校ではしたことのないキスだった。
身体を触ってくる大きな手は、すぐに服の中に入ってきた。
怖い、待って、とは言えなかった。
たった一度でも口に出してしまえば、自分の子ども染みた反応に陽平が気分を削いでしまうかもしれないと思った。
脇腹から這い上がってくる指たちにどう反応すればいいのか分からず、エリカはただ突っ立ったまま息を乱した。
無我夢中でされるがままになって、終わってしまうのはあっという間だった。
期待していたような甘い空気はどこにもなく、代わりに初めて嗅いだ生臭さが辺りを覆っていた。
少し湿ったベッドシーツの感触と、陽平は、流し台の傍で煙草を吸っていた。
そんな空気の中で、エリカはぼんやりと誠のことを考えていた。
自分のことを好いているようなことを言っていた。
そんな気持ち、今まで一緒にいて、まるで知らなかった。
あの時は曖昧にしてしまったとはいえ、やはりきちんと断らなくてはいけないのだろうか。
「……どうしよっかな、」
そんなことをつらつらと考えていると、煙草を吸い終えたらしい陽平がベッドまで戻ってきた。
「なにが」
「え?」
「どうしよっかな、て言っただろ」
「ああ……。うん、あの……」
どうしようか、と、エリカは思った。
事後に別の男の話をしても良いものだろうか。
陽平は、エリカの頭の横に腰を降ろして、エリカの顔を見下ろした。
頬を撫でてくる大きな手は、温かかった。
「幼馴染みが、」
「ああ、こないだ話してた?」
「覚えてたんだ」
「まあな」
「どう、返事しよっかな、って」
その時エリカは無意識に、陽平に独占欲のようなものを期待した。
きっぱり断れよ、そう言われたいと思った。
陽平は、どこか考えるような素振りを見せてから、まあそれは、お前の自由だからな、と、言った。
「自由、って?」
「好きなら受け入れればいいし、嫌なら断ればいいだろ」
何を言っているんだろう、とエリカは思った。
自分が好きな人は今目の前にいるのに、だからこそ自分は今ここにいるというのに、彼は一体何を言っているのだろう。
「……誠と付き合ってもいいってこと?」
「別にいいだろ。自分のやりたいようにするべきだ」
「……そうなんだ」
エリカは、誠の言葉を思い出していた。
他にも女がいると言っていた。
お前は遊ばれているだけだと言っていた。
それでも、その場でそんなことを訊く勇気は、エリカにはなかった。
だって好きなのだ。
好きになってしまったあとで、そんな分かりきった痛みを自分に浴びせることはできなかった。
「……あたしは、先生のこと、好きだよ」
「そうか。ありがとうな」
精一杯の勇気で絞り出した告白は、大きな手に包まれた。
その日の夜はまったく眠れなかった。
知ってしまった身体の疼きと、よく分からなかった陽平の態度。
自分がどうするべきなのかがまるで分からなかった。
相談できる相手は、一人しかいなかった。
翌日になって、エリカは校内で誠の姿を捜した。
いつもなら廊下に出れば必ずと言ってもいいほど見かけるのに、その日はまるで見当たらなかった。
教室を覗いても見つけられず、ようやく姿を見たのは午後になってからだった。
向こうから友達と数人で歩いてきた誠に声を掛けようと近づくと、誠は目が合う直前に顔を逸らした。
エリカだけではなく、横にいた友達もそれに気づくほどに、その態度はあからさまだった。
そのまま通りすぎる誠に、友達が、おいどうした、いいのかよ、と声を掛けるのが聞こえる。
誠は、いいんだ、と、小さく一言だけ返した。
エリカはそのあまりの態度にショックを受けて、言葉も出なかった。
なんで?
どういうこと?
頭の中で、その言葉ばかりが反芻して、遠くなる背中を追いかけることもできなかった。
お前に近づくなって言われたんだよ。
と、ようやく誠から聞けたのは、数日が経ってからの帰宅途中だった。
家までもうすぐ近くだった。
「どういうことなの」
意味分かんない、とエリカが憤ると、誠はそれにも増したような険しい顔つきで、歩くのをやめてエリカの手首を痛いほど掴んだ。
そうして正面に立った誠は、小さな声で、それでも明らかに悔しそうな声音で、須田に言われたんだ、と言った。
「なんで須田先生がそんなこと言うの」
「知るかよ。でも言われたんだ。俺がお前にこれ以上ちょっかい出すなら、神崎を学校にいられないようにしてやる、って。教師が生徒を脅すんだぜ、しかもお前を人質に取ったような言い方しやがって」
「なにそれ、全然聞いてないよ、だって、好きにしろって言われたのに……」
エリカが眉根を寄せると、誠はさらに小声になって、エリカの手首を殊更強く握った。
「おいエリカ、あいつ頭おかしいぞ。俺だってそんなん言われてどうにかしようと思ったけど、あんな言い方されたらどうにもできねえよ。俺がどうだっていうんなら別に構わないけど、お前を盾にされたら……万が一なんかあったらと思ったら、どうにも……」
そこまで言って、誠は手首を掴む手を力なく離した。
彼には似つかわしくない、暗い顔だった。
「俺は、例えば生活指導とかにチクってこれを大事にしたっていいんだ。須田が学校クビになったって構わない。でもそうしたら今度はお前のこと話さないといけなくなるだろ。俺はお前をそんな晒し者みたいにはしたくない。それに、お前はきっと須田がそうやって学校いなくなったら、俺のこと嫌いになるだろ。そんなのは……嫌だ……。だから俺は、暫くは学校でお前と話をしない」
そこまで黙って聞いたエリカは、段々腹立たしい気持ちでいっぱいになった。
誠にこんな顔をさせるなんて、陽平のことを許せないと思った。
それに、大事な幼馴染みを奪うような真似をされる覚えはない。
そんな権利は、陽平にはないはずだ。
「先生なんで誠にあんなこと言ったの。あたしには好きにしろって言ったじゃん」
次の日の放課後、誰もいなくなった空き教室で、エリカは陽平に詰め寄った。
陽平は、毎日校内で見せる人当たりのいい表情を引っ込めて、何が悪い、と低い声で言った。
「悪いよ、言ってることとやってること違うじゃん」
「違わねえよ。お前はお前の好きにすればいい。俺は俺のやりたいようにする」
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