陽平とエリカ 2

エリカには、誠という幼馴染みがいた。

幼稚園から高校までをずっと同じ場所で過ごしてきた。

誠はどちらかといえば賑やかなほうで、いつも休憩時間には誰彼構わず話しかけて騒いでいるようなタイプだった。

エリカは常に誠と一緒にいるような付き合い方はしていなかったが、誰よりも誠のことを理解しているつもりだったし、誠もまた付かず離れずの距離でエリカのことをよく見ていた。

それでもエリカは陽平とキスをしたことは、誠にも他の友達にも、誰にも言わなかった。

口に出してはいけない出来事だと思ったし、あまりに唐突すぎて、実は夢だったのではないかと疑うような思いでもいたからだ。

陽平の態度がまるで変わらないのも一因した。

過剰に目が合うでもなく、かといって避けられるわけでもなく、本当に何一つとして彼の態度は変わらなかった。

それでもエリカは、陽平のことを意識した。

せずにはいられなかった。

近くにいれば無意識にその唇を目で追ったし、声が聞こえれば自然に身体が軽い緊張をした。

神崎、と声をかけられるのを待った。

誠はそんなエリカに誰よりも早く気づいた。


「お前最近須田のこと見すぎ」

「そんなことないよ」

廊下の窓から丁度見える渡り廊下に陽平を見つけたときに突然隣に現れた誠からそんなことを言われ、エリカは咄嗟に否定した。

陽平からは慌てて目を逸らした。

「そんなあからさまな嘘が俺に通じるとでも思ってんの?俺が見すぎっつったら見すぎなの」

「なにそれ」

「俺はお前が思ってる以上に、意外にお前のこと見てんの。だから間違ってねえよ。お前最近須田見すぎ」

「……そっかな、」

「なに、恋でもしちゃったわけ?」

恋。

音にして出されて、エリカはその単語のことを考えた。

恋。

……した。

恋をした。

自覚すると急に顔がぶわっと熱くなった。

まるで突発性の熱でも出たみたいに、やたらと身体も熱くなって、エリカは困ったと思った。

恋をした。

先生に、恋をした。

「おいおいマジかよ。なんだお前その分かりやすいリアクションは」

「だって……」

この気持ちを恋だなんて思ってもいなかった。

ただ、キスをしたから、気になっているのだと。

感情につけられた名前がこんなにすとんと填まり込むなんて、初めてだった。

「ま、今度ゆっくり聞いてやるよ。俺今からみんなと遊び行くわ。じゃあな」

「うん、ありがと」

返事はしても、エリカは見送った背中に何も話すつもりはなかった。

公にしたくない。

誰にも秘密でいたい。

そう思った。


二度目に陽平とキスをしたのは、保健室だった。

具合が悪かったわけではなく、掃除当番だった。

掃き掃除を終えて友達がごみを捨てに行き、先生が職員室に用があると言って出ていった。

ベッドのカーテンがひとつだけ閉められていて、エリカはそんな中ひとりで拭き掃除をしていた。

ベッドの傍の窓枠を拭こうとして近づいて、カーテンの裾から見えるサンダルに見覚えがあることに気づいた。

陽平のサンダルだった。

ベッドで寝ている。

具合が悪いのだろうか。

いけないと思いつつ、エリカはカーテンの隙間にそっと指を差し込んだ。

「覗き見か、神崎」

カーテンの向こうから陽平の声がして、不意を突かれたエリカは身体を揺らした。

そ、っとカーテンの隙間から覗くと、陽平がベッドに寝転んでいた。

「ごめん先生。起こした?」

「いいよ、昼寝してただけだから。こっち来れば?」

なんのことはないようにそう言われて、一瞬だけ戸惑ったエリカは、雑巾を手にしたままそろりとカーテンの内側に入った。

陽平は、起き上がりながら「カーテンちゃんとしめろよ」、と言い、エリカがきちんと隙間を塞いだのを確認してから、神崎、と名前を呼んだ。

甘い響きだと思った。

右手首を優しく掴まれて、ああ、この間キスをしたのは、やっぱり本当だったんだ、と実感した。

「……夢かと思ってた」

そんなエリカに、陽平はくすりと笑ってみせた。

「なら、もう一回、するか?」

そう囁かれてさらに一歩引き寄せられ、そうしてエリカは陽平と二度目のキスをした。

いけないことをしている。

そう思うと、唇が震えた。


それから二人は、人目を忍んではキスをするようになった。

会いたくて会いたくて堪らなかった。

叫びたい気持ちを包み隠すので必死だった。

陽平の大きな手に頬を撫でられるのを幸せだと思った。

名前を呼ばれることが嬉しかった。


「おいエリカ、あいつはやめとけ」

たまたま帰宅時間の重なった誠に、隣を歩きながらそうたしなめられた時、エリカはそれを大きな世話だと思った。

「お前最近ちょっとあからさますぎるぞ。周りも何人かお前らのこと怪しんでる」

「好きに言わせておいたらいいんじゃない?噂が好きなんでしょ」

「それ以上続けてもお前にいいことなんてひとつもないぞ」

「知った風なこと言わないでよ、なにも知らないでしょ」

「あのなあ……」

誠は苛立ちを沈めるように、一度大きく息を吐いた。

それから、ばつの悪そうにエリカから目線を逸らした。

「……知らないだろって言うけどさあ、知ってるぞ。あいつお前で遊んでるだけなんだよ」

「なに言ってんの、ばからしい」

「あいつ他にも女がいるよ」

「嘘ばっかり」

「信じたくない気持ちも分かるけどさあ」

そんな話は信じようがなかった。

あの大きな掌の温もりだけが確かだった。

「別に須田先生とはそんなんじゃないよ。だからそんな話しされても……」

「俺は須田よりもお前のこと見てるぞ」

「それは分かってるよ」

「……分かってねえよ、」

風に乗せるように小さな声で、誠は呟いた。

「お前、俺がお前のこと大事に思ってんの知らないだろ」

「へ?」

お互いに足が止まった。

見つめあった少し高い位置の誠の顔は、真剣そのものだった。

「……知ってるよ?あたしも誠のこと大事だし」

「俺の言ってる大事は、お前が言ってんのと意味が違う。お前が須田としてるようなことを、俺もお前にしたいって思ってるってことだよ」

「……へ?」

「俺は見たぞ。お前が空き教室であいつとキスしてんの」

どくり、と、心臓が大きく跳ね上がった。

上手く隠していたつもりだった。

「うそ……」

「ほんとだよ。俺じゃなかったら今頃大問題だぞお前ら。……俺だって見たくなかったわ」

誠が先にまた歩き出したので、エリカも釣られて足を動かした。

地面を踏みしめた感触はなかった。

「とにかく、俺の気持ちがどうこうは別にしても、お前は本当にちょっと落ち着け。今度俺以外のやつに見つかったらお前もう学校いられなくなるぞ」


エリカはその一連の話しを陽平に話した。

陽平は、少し考えてからこう言った。

「そうか。それは確かにまずいな。……だったら、」


お前が俺の家に、来る?

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