陽平とエリカ 1

「あ、ねえあきらくん、丁度良かった、陽平見なかった?」

昨日から帰ってないのよ、とエリカさんに言われたのは、夕方だった。

不満そうな顔だった。

アパートの脇の高い木では、上の方でつくつくぼうしが喚いていた。

ほんの少しだけ、日が傾いてきていた。

「え、いや、見てないですよ。連絡取れないんですか」

仕事の途中で着替えに帰っただけなのだと告げると、エリカさんは慌てて謝ってきた。

「そっか、ごめんね、気にしないで。お仕事大変ね、行ってらっしゃい」

「すいません。見かけたら言っときますよ」

それから一週間。

俺は陽平さんを見かけていない。


「死んだんじゃない?」

と、エリカさんは事も無げに言った。

まるで連絡がつかないっていうから心配して隣を訪ねると、部屋の中には相変わらず無数の本と着替えと洗面用具が当たり前のように置いてあって、主人の帰りを彼女と共に待っているようだった。

エリカさんは表面上いつも通りを装ってはいたけれども、明らかに浮かない顔色をしていた。

「やあね、大丈夫よ、分かってるから。出ていったのよ、あの人」

やれやれ、軽い溜め息混じりにエリカさんは微笑んでみせた。

「だって居なくなったの、あたしの誕生日の前の日なんだもん。ここで一緒に暮らしてから、5回目のね。……完全に油断してたなあ。信用してたわけじゃないけど、これまであまりに何もなかったし、そろそろ何か、とは思ってたけど、まさか前日だとは思ってなかったから、完全にしてやられたわ」

オレンジ色になろうとしている窓に向かって悟ったようにゆったりと伸びをするエリカさんに、何故か俺は酷い焦燥感に駆られて、エリカさんを急かした。

「なに悠長なこと言ってるんですか、一週間ですよね、捜さないと!事故か何かに巻き込まれたりしてたら……」

「やあねえ、あきらくんってば。何て言って捜すつもりなの?不倫相手がうちに帰ってこないんですが、って?言えないでしょ、そんなこと」

「あ……」

そうか。

出来ないんだ、そんなこと。

例え事故に遭っていたとしても、連絡を取られる相手はエリカさんでは有り得ない。

そして、それってまさか。

「陽平さん、もしかして……」

帰ったのか?

本当の奥さんの待つ家に。

あんなに愛を謳っていたこの人を捨てて?

出ていったって、そういうことなのか。

嘘だろ。

そんな馬鹿な。

急に口が乾き出す。

音にして言えなくて、それでもエリカさんは、分かってるよ、とでも言いたげに、寂しそうに微笑んだ。

「本当に、死んでればいいのにね、あんな人」






須田陽平は、有名な私立高校の数学教師だった。

彼はその時はまだ29歳だった。

若くて背が高くて男前で、気さくでいつでも笑顔で、勿論髭なんて生やしていなかったし、いつも清潔な身なりをしていた。

生徒からも慕われていたし、他の教師たちからも信頼されていた。

神崎エリカは、彼の教え子だった。

特別目立つでもない、素行が悪いわけでも、況して良いわけでもない。

そんなごく普通の生徒だった。

担任だったわけではない。

ただ数学の時間に会うだけの、ただの教師と生徒だった。


「分かんないよこんなの」

それは秋の始まりの、放課後の教室だった。

あまりに数学の成績の悪かったエリカは、いつまで経っても追加の課題プリントを終わらせることが出来ず、痺れを切らした陽平が教室までわざわざ教えに来ていた。

放課後の教室の真ん中で、二人きりだった。

「なんで分かんないんだよ今さっき教えたばっかだろ、お前どんだけ人の説明聞かないんだ」

「ちゃんと聞いてますー。先生の教え方が下手なんじゃん」

「んなわけあるか、俺の担当クラスでここまで成績悪いのお前だけだぞ」

「あーあ数学なんて滅んでしまえばいいのに」

薄桃色のシャーペンをさ迷わせながら、エリカは良く分かっていないまま思い当たる記号を適当に並べた。

「しょうもないこと言ってないでさっさと終わらせなさい。俺だってまだ他の仕事残ってるんだからな」

机に向かい合わせに座って、エリカは頭を抱え込んでいた。

長い黒髪は当時からゆるゆると畝っていて、それでも指先を通すとその毛先はさらさらと机にこぼれ落ちた。

陽平はそんなエリカの正面で、横向きに腰かけて足を組んでいた。

「先生はなんで数学の先生になったの?」

「数学が好きだからだよ。そこは掛け算だ」

「なんでこんなわけわかんない数字ばっかの勉強が好きになったの?」

「俺はお前ほど頭悪くないし、解けると段々楽しくなってくるんだよ」

「ねえねえ先生今あたしのこと然り気無く馬鹿にした?」

「然り気無くっていうかわりと露骨に馬鹿にした」

「酷い!あたしこれでも数学以外はわりと出来るんだからね!」

「なんで数学だけここまで出来ないんだよ、頼むからさっさと終わらせてくれ」

結局最初から最後まで教えてもらい、反対側から付けられた赤ペンはものの見事に丸ばかりがついた。

「あたしやればできる!」

「やれてないけどな」

のんびりと片付けをするエリカを、陽平はプリントと赤ペンを持って待っていた。

筆箱も教科書も、ひとつひとつ丁寧に、鞄の中に納められていく。

「先生さあ、そこまで嫌味ったらしいともてないよ」

「大きな世話だよ。それに、俺は誰にでも同じ態度を取ってるわけじゃないぞ。俺だって好かれたい相手にはそれなりの態度を取るよ」

「へー、そうなんだ。例えばどんな?」

「いいから終わったら帰りなさい」

「あー誤魔化した。大人ってずるい」

「ずるくない。……あ、お前前髪に消しゴムカスついてるぞ」

「えっ、最悪」

「問題解きながら何度も髪触るからだよ。じっとしてろ」

陽平の指がエリカの前髪に触れて、目があって、それから、何がどうしてそうなったのか分からない。

ふたりは、キスをした。

理由なんて忘れた。

何故なのかも、どちらからしたのかも覚えていない。

それでも確かにその日、その瞬間、ふたりはその教室の真ん中で、机を挟んで、キスをした。

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