その日常 2

そんなに嫌なら例えば家出とかしてみたらいいんじゃないですか、って言ったら、エリカさんはさも腹立たしげに

「だってここあたしの家だもん!」

と言って、コップの底で小さくなっている氷をひとつ頬張った。

大きく仰ぐとつるりと口の中に収まったそれは、早くもガリッと歯を立てられたようだった。

彼女は相当苛ついている。

なんで俺がこんな相手をせねばならんのか。

折角珍しく貰った休日の昼間だというのに。

「ここ、エリカさんの名義なんですね」

「名義っていうか、ここ借りてんのはそもそもあたしだけなの!だってここ一人世帯用だし!」

と息巻いたあとで、エリカさんは

「……まあ、家賃払ってんのは、あっちだけど」

と、蚊の鳴くような声で付け足した。

さっきまでの勢いはどこへやら、今度はすっかり意気消沈してしまっているエリカさんのために、俺は軽く溜め息を吐きそうになるのをなんとか堪えて、わざわざ立ち上がって人んちの冷凍庫を開け、コップに氷を足してやってから、床に置きっぱなしにしていたサイダーを注いでやる。

エリカさんはちゃんと礼を言ってから、並々注いだはずのそれを一気に飲み干した。

……げっぷも出ないとは、どんな喉してんだ。

呆れながらもう一度サイダーを足してやると、今度は無言で一口飲んでから、

「それにさ、」

と、これまた蚊の鳴くような声で続けた。

「はい?」

「したことあるんだよね、家出」

「そうだったんですね」

そりゃまあ5年も一緒に暮らしてりゃあ、いろんなことがあるんだろうな。

「どうだったんですか?その家出」

「迎えにきた」

「陽平さんが?」

「そう。いっつも迎えにくるの。どこにいても。ファミレスにいても人んちにいても公園にいても。GPSでもついてんのかと思うくらい」

「へえ」

それは……毎回相当捜されているのでは。

「余裕ぶった態度でさ、おう帰るぞ!とか言って。ほんと腹立つ」

エリカさんは途中陽平さんの声真似をしながら、腹立つ、まで言い切ってまたサイダーを飲んだ。

俺はさっきから愚痴を聞かされているのかのろけを聞かされているのか。

サイダーで酔ってんのかなこの人。




「……ってなことをずっと言ってましたよ、昼間」

夜になって今度は陽平さんの晩酌の相手をしながら、今日の昼間に散々聞かされた恐らく愚痴を、俺は陽平さんにチクった。

陽平さんは爆笑しながらそれを聞いていた。

陽平さんとこうしてふたりで飲むのは随分回数が増えてきて、近頃では結構な頻度だ。

慎二や他の同年代の友達とは違う、空気の底のほうが落ち着いたような飲み方は逆に楽しかったし、年上の人の話を酒を飲みながら聞くのは面白かった。

「あいつ文句ばっかり言いやがって」

「とか言って、相変わらず満更でもなさそうですね」

「そりゃそうだろ。俺のいないところで俺の話ししてるってことだろ、気分がいいわ」

エリカさんが聞いたら爆発しそうな台詞だなあなんて思いながら、俺は陽平さんの話しに耳を傾けた。

「でもあいつも俺を呼ぶんだから、俺ばっか追っかけてるみたいな誤解は受けてほしくねえなあ」

「そうなんですか?」

「そりゃ確かに家出したときは一切連絡取れなかったが、それ以外なんて酷えもんだぞ。男に振られて元気なくて歩けないから迎えに来いとか、酒飲みすぎて金持ってないからタクシー乗れなくて迎えに来いとか、結構なもんだぞ」

「そう聞くとわりと甘えてますね」

「ま、行くけどな。あいつには俺しかいねえし」

こういうときの陽平さんは、いつもどこか誇らしげだ。

そして俺はその顔をいつも好きだと思う。

「今日も多分、そのうち電話かかってくるぞ」

「なんで分かるんですか」

「喧嘩したあと飲みに出ると大概そうなんだよ。あいつなりに甘えてんだ、ああやって」

お見通し、ってやつか。

きっとそれは陽平さんに限ったことではなくて、エリカさんはエリカさんで同じなんだろう。

「いいなあなんか。俺もそんな相手欲しいわ」

「いるじゃねえかよ、ほら、あのー、慎二が」

俺の本気の嘆きを慎二でからかってくるから、俺はそれこそ本当に渾身の力で嫌な顔をしてみせた。

「嫌ですよ!あいつ女じゃねえし」

「お前が女役だもんな」

「うるせえ」

「大事なのは見えない部分だと思うんだがなあ」

「他人事だからそうやって言えるんですよ。実際あんな状態で上に乗ってこられたらそんな訳にいかないですって」

「一歩踏み出す勇気って大事だよなあ」

「踏み出さないから。絶対に踏み出さないから」

「可哀想に慎二。見たことねえけど」

「本当ですよ。なんでそんな見たことない慎二の味方なんですか」

そんなあほな会話を繰り返してふたりでぎゃあぎゃあ騒いでいると、しばらくして本当に、先刻の予言通り陽平さんのスマホがテーブルの上でけたたましく震えた。

ほら見ろ言った通りだろ、そうだろうと思ってたんだよ、とか言いながら、陽平さんはあまり待たせることなく通話ボタンを押した。

俺は黙っていようと、コップに少しだけ残ったビールを空にする。

陽平さんは、今まで聞いたこともないような優しげな声を出した。

「おう、どうした。ああ、ああ、…………あ? ああ、分かったよ、駅だな。今からすぐ行くから、動かないで待ってな」

そう言って電話を終えた陽平さんは、いつもの声音に戻ってから俺に、悪いなああきら、お迎えの時間だわ、と言ってにかりと笑った。

「いっすよ、宣言されてたし」

「靴が痛くて歩きたくないんだとよ。ちょっくら行ってくるわ」

「お姫様は気紛れなんですね」

「王子様は白馬じゃなくてタクシーに乗っていくけどな」

自分でだはははは、と笑ってから、そのへんそのままでいいよ、明日片付けるから、と言われたので、俺たちは本当に散らかしたものをそのままで玄関を出て施錠し、俺は隣の自分の部屋へ、陽平さんはタクシーを拾いに階段を降りた。

部屋に入る前に俺は、王子様も40を越えたら厳つくて酒臭くなるんだなあなんてことをぼんやり思いながら、離れた道端を歩く自称王子様の背中を見送った。

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