あきらと慎二 1

「ちょっといい加減にしような、あきら」

ゆらり。

道路に面した外灯の明かりで、慎二の影が間近で動く。

響き渡った拳の威力とは正反対に、声が異様に静かだ。

やっべぇこれ本気で怒ってる。

当たり前か。

どうしよ。

今の一撃で俺は完全にビビった。

それ、服屋の腕力じゃねえから。

恐る恐る横目に覗き見ると、その顔は一切笑っていなかった。

いつ以来だろう、久しぶりに見たこのキレ顔。

眼光鋭い。

整った顔が凄むとめっちゃ怖い。

「……慎二さん?」

思わず敬語になるほどビビりながら小さく声をかけると、慎二は黙ってもう一度、さっき殴った玄関ドアに凭れるように触った。

まずい。

俺の焦りはどんどん大きく膨らんでいく。

これが本当の壁ドンだ。

甘さは微塵もないけれども。

目の前に見えてるのにエリカさんちのドアが遠い……。

じんわりと滲んでくる汗は、暑さのせいか、それとも。

「なあ、あきら」

恐らく怒りのためだろう筋張った腕で通せんぼされて、あまり聞かないような低い声で名前を呼ばれる。

恐ろしくてもう顔は見れなくて、やべえとどうしようが混在する頭で取り敢えず馬鹿丁寧にはい、と返事をした。

「俺さあ、結構待ってるよ?お前が時間くれって言うから」

「……すまん」

「俺も自分のしたことは本当悪かったと思ってるけどさあ、お前のその態度もどうなの」

ですよね。

分かってる。

「……お前とこんなんなんのが嫌だから、だから黙ってたんだよ。だけどお前が、謝んなって、時間くれって言うから、んなこと言われたら俺はやっぱり期待するじゃねえかよ。……嫌なら嫌だって最初から言えや。……そしたら俺だってお前だってこんな思いせずに済んだじゃねえかよ!」

最後、怒鳴られて、目の前を塞いでいた腕がまた振りかぶるように大きく動いた。

殴られると思って咄嗟に身を竦めると、その拳は俺を通り越してまた玄関ドアを殴った。

ガン!と大きな音を響かせてまたへこむ。

どうしていいか分からなくて俺がなにも言えないでいると、慎二がぽつりと溢すように呟いた。

「俺が、お前を殴ると思った?」

思ったよ。

殴り合いの喧嘩、したことあるから。

「殴んないよ。好きだから」

ハッとした。

涙声だったから。

思わず慎二を見上げると、慎二は眉間に皺を寄せて、自嘲するように微笑んでいた。

「本当は今ここでお前を抱くことだってできるよ」

「……外だぞ」

「できるよ。こないだみたいに、無理矢理、お前に酷いこと、できる」

「……」

「でもしないよ」

「当たり前だろ……」

「好きだから」

「っ、……」

まっすぐに俺を見る慎二の目は真剣で、俺は、狼狽えた。

ちょっと待ってくれ。

「でもお前は俺を嫌になったんだろ」

「……違う」

「俺は完全に信用なくしたもんな」

「いや、そうじゃなくて、」

「嫌なら嫌って言えや」

「待てって」

「待ってるよ」

「違うそうじゃない」

くそ、何て言えば良いんだ。

どう言えば俺の考えが伝わるんだ。

段々ムカついてきた。

「違わねえだろ!俺のことキモいと思ったからお前はそんな態度取ってんだろうがよ!」

「だから違えから待てっつってんだろうが!」

気づけば俺は慎二の胸ぐらに掴み掛かっていた。

駄目だ俺、これじゃ完全に逆ギレだ。

でもちょっともう、どうやって止まればいいのか分からない。

「好きだ好きだうるせえわボケぇ!」

「っ、んだとこの野郎!」

「俺が俺がって、俺の気持ちを無視すんな!」

「してねえわ!してねえから黙って耐えてたんだろうがよ!」

「俺だって困ってんだよいきなりこんなことになって、勝手に好きになったくせに俺にどうしてほしいって言うんだよお前は!」

「俺だって別に好きでお前のこと好きになろうと思って好きになったんじゃねえわ!誰がわざわざ好き好んでお前のことなんか好きになるか!」

「はあああああああああ!?」

もはや支離滅裂だ。

二人して胸ぐら掴み合ってお互いに腹から怒鳴り散らした。

「お前よくそれで俺に好きだのなんだの言えたな!」

「言えたよ!言えるわ!だって好きだもん!好きになっちまったもんは仕方がねえじゃねえかよ!」

「っ、……」

そこで俺は言葉に詰まって、怒鳴り合いが止まって、お互いに胸ぐら掴んだまま荒くなった呼吸だけが残った。

「……、だ」

慎二が何かを言おうとして、俺はそれを聞こうと思って、意識を向けたとき、不意にエリカさんちの玄関が開いた。

「ねえ、いつまで見つめ合ってんの」

「え、」

二人で目線を向ければ、エリカさんが開けたままの玄関ドアに怠そうに凭れて腕組みをしながら、呆れたようにこっちを見ていた。

見つめ合っているわけではない。

「あんたらさあ、何なの?馬鹿なの?聞いてるこっちが恥ずかしいわ」

言われて改めて自分たちを俯瞰で見る。

アパートの玄関の外で好きだのなんだの大声で怒鳴りながら、今まさに近距離で掴み合っている。

煩いし近すぎる。

理解した瞬間にすぐに手を離した。

お互いに。

エリカさんは本当に呆れ果てたように、外だよ?よく恥ずかしくないね、と鼻で笑った。

恥ずかしいわ。

今まさに恥ずかしくなってきて、頬の辺りに熱が集中していく。

どんぐらい響いたかな、今のやりとり。

「すみません、お騒がせしました……」

慎二はすっかりいつもの調子に戻っていて、眉を下げながら赤くなってエリカさんに謝った。

「別にいいけど、結構響いたね、今の痴話喧嘩」

「だから痴話喧嘩じゃないって」

堪らず俺が訂正しようとすると、エリカさんは苦笑いをした。

「そうだねぇ、惜し気もなく好きだ好きだ叫んでたから、のろけていたのかな」

「だああもう!違いますってば!」

「いつぞやもこうやってあんなことになったのねぇ、なるほどねぇ」

「違いますってば!」

躍起になって否定を繰り返す俺を、エリカさんはいつもの楽しそうな声であははははと笑い飛ばした。

「まあ取り敢えずさぁ、部屋の中入ったら?君ら煩いし」

「いや、その、」

「あたし今日は用ないからね、あきらくん」

にっこりと先手を打ってエリカさんはひらひらと手を振った。

扉を閉めきる直前、もう一度こっちを見てからウインクをしてくる。

あれ多分癖なんだろうな。

エリカさんが静かに部屋に入ってまた慎二と二人になると、辺りに気持ちが悪いほどの静寂が訪れた。

慎二も目を逸らしたまま何も喋ろうとしない。

……どうしよう、気まず……。

時間の経過と共に重苦しくなっていきそうな空気に耐えきれず、仕方なく俺は自分の部屋の鍵を開けた。

丁度目線に当たる場所に、2ヶ所の窪みの出来た玄関ドアだ。

ドアノブを回して、ドアを開けて、迷った末に慎二を振り返る。

慎二は慎二でばつの悪そうな顔をしていて、それでも黙ってドアに手を掛けた。


一言も話さないまま二人で玄関で靴を脱ぎ、電気をつけて、俺はそのまま開けたままだった窓際まで歩いて、そこに座り込んだ。

本当は汗臭い作業着を脱ぎ捨てたかったけど、今はどうにも脱ぎにくい。

喉渇いてるから冷蔵庫の茶が飲みたいけどそれもしにくいし、スマホで時計を確認するのすら憚られる。

慎二は部屋の真ん中に置いている机に向き合うように座った。

………………遠っ!

今までこんな遠い距離で座ったことがあっただろうか。

いや、まああったかもしれないけど、今はこの距離が異常なほどに遠く感じる。

どうすんだよこの雰囲気。

俺が沈黙に耐えきれず挫けそうになったとき、慎二が小さな声で俺を呼んだ。

「あきら」

「……なんだよ」

「……ごめん」

慎二は、眉を寄せて切なくなるような顔をしながら俺を見ていた。

「ごめん、自分のことばっかだった」

くそ。

先に謝られた。

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