そういう関係 5
は、なに?
じゃあなんだ、今俺が見てるこの光景はなんだ。
不倫、なのか?
ごくり。
突然聞いてはいけない話を聞いてしまった緊張感が押し寄せてきて、俺は、言葉をなくしてしまったみたいに押し黙るしかなかった。
なんだよ。
なんなんだ、最低じゃないか。
全然そんなふうに見えない。
「ねえねえ、この話もしかして長くなるの?」
エリカさんは大きな目を伏せるようにして、ならちょっと煙草吸ってくるわ、と、静かに立ち上がって部屋から出ていってしまった。
玄関ドアが静かに開けられて、静かに閉まっていく。
陽平さんは、何故か優しそうに微笑みながらそんなエリカさんを黙って見送った。
俺も帰りたい。
この空間、なんか急に嫌だ。
「不倫なんて最低だ、なんて、思ってんだろ」
静かになった部屋の中に陽平さんの穏やかな声が落ちた。
どきっとした。
図星だ。
「エリカを責めてやるなよ。悪いことしてんのは、俺だけなんだからよ」
知るかよ。
そんなの、俺、なんて言えばいいんだ。
親子丼、あと少しなのに、喉がつかえる。
「責めるなんてしないですよ、理由ないし」
「そうか」
「追いかけたりしなくていいんですか」
「いいんだよ。そのうち帰ってくる。いつもそうだからな」
「ここ来て5年、って、言ってましたよね」
「言ったよ。大体それくらいだな」
「家には、全然帰らないんですか」
「好きなときに帰るさ」
「離婚、しないんですか」
「しない」
陽平さんは穏やかに、でもきっぱりと言い切った。
なんでだよ。
「エリカさん、このこと知ってるんですよね」
居なくなったってことは、そういうことだよな。
親子丼、どうやって食べ終わろう。
レンゲ、動かしにくい。
「ああ知ってるよ。殴られたからな」
「エリカさん、」
言葉に詰まった。
何を聞きたいんだ、俺は。
「あいつはなあ、」
陽平さんもテレビの横に置いていた煙草を腕を伸ばして取り上げて、一本唇に挟んだ。
「半身なんだよ、俺の」
その表情は酷く満足げで、変な柄のライターでカチリと音をたてて火を点ける。
それは、誰のことを言っているんだ。
「どういう意味ですか」
「エリカは俺の半分だ。いなくなったら困る。だからこうして手放さないでいる」
「だったら尚更おかしいじゃないですか」
おかしいじゃないか。
なに言ってんだこの人。
自分の半分なら、尚更ちゃんとするべきじゃねえのかよ。
「ま、分かってもらおうとは思っちゃいねえよ。でもなあ、」
ジリジリ。
煙草の先が赤く焼けて焦げていく。
「俺はあいつを、俺なしでは生きていけないようにしたいんだわ。逃げ道を全部絶ちたいんだ。だからこれでいい」
不穏なことを口にする陽平さんは穏やかだ。
それが余計に、余計に、……なんだ。
俺はエリカさんのことを思った。
あの人は、何を考えて何を望むんだろうか。
「なんすかそれ。怖いですよ。好きなら、相手を大事にしたいって思うもんなんじゃないんですか」
「好きなんて綺麗なもんじゃねえんだよ。傷つけて駄目にして、それを拾い上げるのも俺でありたい」
ごろり、床に敷いた布団に転げる。
隣の自分の部屋に帰り、さっきの話を思い出す。
「執着心。……だよなあ」
好きなんて綺麗なもんじゃない。
それって紛れもない執着心だろ。
少なくとも俺は他に呼び方を知らない。
別に隣人が不倫だからって何をどうこう言うつもりはないが、ふたりのあの笑顔に裏を感じたような気がして、少しだけ悲しくなった。
エリカさんが戻ってきたような靴音は未だに聞こえない。
代わりに誰かが階段をゆっくりと降りていく音は聞こえた。
陽平さんだろうか。
こんな時、いつもなら俺は真っ先に慎二に連絡をしていた。
辛いことがあった時とか、どうしようもない時。
誰かに話を聞いてもらいたいような気分の時には、必ず慎二に連絡した。
慎二はいつも穏やかに話を聞いてくれていて、時々はそのまま顔を見に家まで来てくれたりした。
酎ハイ缶持って、なんだ泣いてんのかと思ったのに、とか、からかうようなことを言いながらいつも俺に付き合ってくれた。
今だって、何気ない素振りで電話でもすれば、慎二はいつものように穏やかに話を聞いてくれるんだろう。
だけど、どうにもそれをする気にはならない。
心配の向こう側に違う気持ちを一緒に持ってくるような気もしたし、それにそういう時の慎二の穏やかさは、さっきの陽平さんのそれと似ているような気がした。
「なんだよ……」
役立たずが。
なんで半分なんだろ。
でもよく考えてみれば、言ってることとやってることが違う気もする。
だって陽平さんは、俺がエリカさんと何をしていても全く嫌がることもないし、先週なんかエリカさん、好きな人に振られたとか言ってた。
一人で飲みにも行かせてるみたいだし、縛り付けるどころか完全に解き放っているような。
「全っ然分からん」
俺に陽平さんは難しすぎる。
そこからしばらく、俺は慎二を避けまくった。
家の前にいればエリカさんの家に逃げ込み、会社に顔を出せば事務所の奥で用のない計算を繰り返すか、早々に客のところに出向いた。
電話には一応出るけど、なんだかんだ言い訳をしてすぐに切った。
社長には喧嘩をしていると嘘をついた。
陽平さんとエリカさんは、結局なにも変わらなかった。
俺だけが、慎二から逃げ回っている。
そうしてまた10日近くが経ち、ある日いきなり。
慎二がキレた。
「おいこら。いい加減にしろ」
いつものように自分の部屋を通りすぎてエリカさんの部屋へ向かおうとしたところ、ガンッと鈍い音を響かせて慎二は俺の部屋の玄関ドアに勢いよく殴りかかった。
めこ、と音がして、ドアが拳型にへこむのを目前で見た。
男に壁ドンをされるのは初めてだし、それがこんな物理的な意味で破壊力のあるものだとも思っていなかった。
やべえ。
ガチで怒っている。
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