第109話 おじさんと女戦士、最後の決闘

「――んなッ!?」

「ごめん、エレナ。君を安心させるようなことが言えなくて」


 突然のことに、エレナが身を固くする。

 構わずに、僕は続けた。


「僕達のことを心配してくれてるんだろ。明日からは、もう別々だから」

「……お前は、本当に、いつも、いつも……狙ったように的を外すなッ」


 叫ぶ声には、涙が混じっていた。

 抱きしめた肩は震えていて。


「君がいないのは、本当に心細いけど。でも、なんとかするよ。あの子達は、僕が守る」

「それは、まあ、そうだけど、それもそうなんだが――あああああああッ、もうッ、お前ってヤツはッ」


 不意に、襟首を掴まれたと思ったら。

 柔らかくて硬いものを、顔面に叩きつけられた。


「――ぶぎゅッ」


 頭蓋骨が割れそうなほどの衝撃と。

 それから、かすかな柔らかさ。


「どうだッ、少しは分かったかッ、アルフレッド・ストラヴェック! ちょっとは思い出しただろッ、この野郎ッ!!」


 鼻の奥から滲み出すような痛みと、錆の臭い。


(思い出した、って……)


 この感触。

 真っ赤になったエレナ。


 ……記憶と重なる情景。


「お前はすっかり忘れたようだけどなッ! あたしはめちゃくちゃ憶えてんだぞッ!!」


 もしかして。

 十余年前、僕が王都へ向かう前夜のこと。


「……あれって……まさか、キス、だったの?」

「逆に何だと思ってたんだッ、今までッ」


 頭突きだと思ってた。


「どこの世界に別れ際に頭突きかますヤツがいるッ!」

「いや、ここに」

「いねーよッ!! お前、お前はッ、ホント、この、バカ野郎がァッ!」


 もう一度引き寄せられて、唇が重なった。

 さっきよりは少し優しく――軽く前歯が欠けそうなぐらいの荒々しさで。


「クソッ、畜生ッ! どーせ最後だし、お前とチヅルをくっつけて、あたしもいいオトナになってやろうと思ったが、もうやめだッ! このアホ!」

「だ、だって仕方ないだろ! あの頃は僕もキスなんてしたことなかったし!」

「昔の話はもういいんだよバカッ! 恥ずかしいだろッ!」


 自分で持ち出してきたくせに、それ言うか?


「いいか、今ので、あたしは二回目――じゃないや、三回目のキスだ! つまり、その、誰にでもしてる訳じゃなくて、というかお前以外とはしたことなくて……あたしが言ってる意味、分かるか!?」


 ……どうしよう。

 分かってしまった。


(分かってしまったら――めちゃくちゃ恥ずかしくなってきた)


 十代の子供みたいに頬が赤くなっていくのが、自分でも分かる。

 いくら袖で隠しても、とてもごまかせる気がしない。


「えっ、つまりその、エレナ! 君は……ええと、まさか、僕のことを十年以上――」

「待て、誤解するなッ! 別に下心だけでお前達のそばにいた訳じゃないッ!」


 でも多分、僕よりエレナの方が赤面してる。

 顔を突っ込んだら残雪なんか一瞬で沸騰しそうなぐらい。


「もちろんお前のことはその、弟みたいだ、って思う気持ちもあるし、カレンもめちゃくちゃ可愛いし、チヅルはビックリするぐらい良いヤツだし、ユーリィのバカもアレでなかなか筋が通ってるし、マリーアンもかわいい後輩だし、それで、その、だからなッ」


 つまりエレナが何を言いたいのか。


 今の僕には、分かってしまう。

 分かりすぎるほど分かってしまって――逆に、訳が分からない。


「ま、まままままま、待って、エレナ! 待って! ストップ!」

「あァ!? お前、このあたしを遮るとはいい度胸だ――」


 なんだ、この感覚。

 まるで。


(ずっと閉じてあった扉が、開いたみたいな)


 頭の中に降り込んできた雷雨が、胸の中で巻き怒った暴風が、僕のすべてを蹂躙していく感覚。


 憶えている。

 これは――いつか、チトセが開いてくれた扉。


「ごめん! あの! ……時間が――整理する時間が、欲しくてっ」

「おっまえ、だからこれが最後だって言って……」


 変わらず、僕の襟首を掴んだまま。

 エレナはじっと僕を睨みつけ――違う、多分、彼女なりに僕のことを見つめてくれているんだ。


(これはきっと……恋の視線、なんだ)


 少なくとも、半分ぐらいは。


「……ふん。いいさ。あたしはもう十年以上待ったんだ。今更、待てないことなんかあるかよ」


 ぱっと、エレナの拳が解かれた途端。

 僕はそのまま、尻餅をついてしまった。


 ……もしかしてこれ、腰が抜けた、ってヤツか?


「いいか、これだけは言っておく」


 エレナは踵を返しながら、肩越しに振り返ると。


「チヅルと寝るのは許してやる。ユーリィのバカも……まあいい。でもそれ以外はダメだ、許さん。分かったな?」


 分かったけど、全然分からない。


 と答える前に、エレナは完全に背を向けてしまった。

 どかっ、どかっ、と残雪を蹴散らしながら、さっさと夜闇に消えていく。


 後に残されたのは、へたり込んだまま動けなくなった僕と。

 あまりの剣幕に怯えながら、恐る恐る酒場の窓を開いた野次馬達だった。


「だ……だ、だいじょうぶ? アル先生?」

「エレナ姐さんに殺されたりは……してないよな? 腕とか脚とか、もぎ取られてないよな?」


 ……言うまでもないことだけど、エレナが本気で叫んだら、山向こうの旅人にも聞こえるぐらいのボリュームが出る。

 壁一枚隔てた彼らには、どこまで聞こえていただろう。


(……出発が明日で、本当に良かった)


 この後、僕らのやり取りがどれほど彼らの酒の肴になるかは……想像したくもない。

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