第107話 おじさん、二児の父になる
モルガン師匠は体を折って笑いながら、
「なるほど、そんなことになってたとはね。ユーリィ君の顔、見たかったなー」
「背後から心臓を一突きされた死体みたいでしたよ」
世紀の天才ユーリィ・カレラの知性を持ってしても、子供の「父親」になるというのは予想外の出来事だったのだろう。
もちろんシズカさんが言ったのは、生物学的な意味での父親、ということじゃない。
「……アル君を蘇生するために、チヅル君とユーリィ君が創った“
要するにユーリィは、子供ができる過程における共同作業――魔法的な意味で――のパートナーだった訳だ。
つと、師匠が研究者の顔に戻る。
「いや、待って? 確かに、肉体と“
師匠の指摘は正しい。
“
器が満たされていなければ、それは生命足り得ない。
例えば僕が残した残留思念のように、何か――魂とも呼ぶべき核がなければ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
僕が、モルガン師匠と同じ疑問を口にしたとき。
チヅルさんはためらうことなく、強く頷いた。
「そうなんです。むしろ、だからこそ、確信したんです。わたしの身体に子供が宿ったのは、
夜よりも深い色の眼差しは、自信に満ちている。
僕は黙って、続きを促した。
「……『
その記憶は、僕もシズカさんと共に視た。
楽しそうにカレンと戯れるチトセ。
あの日、彼女が伝えようとしていたこと。
お腹に宿っていた新しい命。
「わたし、あのとき、思ったんです。願ったんです。せめて、
……ああ。
嘘だろ。
僕は、言葉を失った。
「わたしの
つまり。
僕が、自分の肉体を使って生まれ直したように。
チヅルさんの胎内に宿ることで。
「で、でもっ! シズカさんとアル先輩は視たんですよねっ? 超高濃度
ユーリィの疑問に、シズカが頷き返す。
「はい。でも、今、アタシの【
「そんな、全然……それじゃ、説明が、つかないじゃないですか」
僕も、ユーリィと同じことを考えていた。
魔法使いとして培ってきた知識と経験は、すべてを否定している。
こぼれたミルクはカップに戻らない。
ガラスは砂に戻らない。
この世界では、奇跡なんて起きない。
(でも。受け入れるしかない。目の前の現実を)
感情が、噴き出してくる。
もう二度と、味わうことはないと思っていた。
腹の底から、胸を震わせ、頭の天辺から飛び抜けていくような。
ありったけの歓喜。
気付くと僕は、チヅルさんを抱き締めていた。
強く、きつく。
「ふわっ――あっ、あ、ああ、あ、あのっ、そのっ、あ、アルフレッドさんっ、ちょっと、あの、いたい、ですよぅ……」
分かってる。
でも、止められなかった。
「……ごめん。ありがとう。本当に――ありがとう、チヅルさん」
どれだけ言葉を尽くしても足りない。
すべては、チヅルさんがいたから。
チヅルさんがこの世界にやってきてくれたから。
僕はまた、こうして――新しい『最高』を手に入れることができた。
「……あの。こちらこそ、ありがとうございます、ですよ。アルフレッドさん」
チヅルさんは、いつかと同じように、優しく僕の背中を撫でてくれた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
モルガン師匠がティーカップを――チヅルさんが新しく淹れなおしてくれたお茶を、ソーサーに戻す。
「……まあ、でも、アレだよね。水を差すつもりは全然ないんだけどね。チヅル君もお人好しだよねー。いくら
あの苦痛だけは二度と味わいたくない、と師匠は笑いながら、
「よく引き受けようと思ったよね」
「……正直、迷いはなかったって言えば、嘘になります。今も出産は怖いですし、お腹が大きくなると大変なことも多いし……」
隣に座ったチヅルさんは、ちらっと僕を見る。
力が及んでなくて、本当に申し訳ない。もっとサポートします。
「でも。辛いときは、アルフレッドさんや皆さんが助けてくれますし。それに……やっぱり、自分が望んだことなので」
その言葉は、僕にとって救いだった。
叶うなら僕自身が引き受けるべき役割なのに。
「そっか。いやー、チヅル君はアル君を見習って、少しワガママになった方がいいね。彼は自分の目的のためなら、恩義ある師匠さえ囮にするんだよ?」
「まだその話引っ張ります!? アレは師匠が自分で言いだしたんでしょう!」
「私としては軽い気持ちで言ったんだけど、まさか本気にするとは思わなくってさー」
むしろチヅルさんは、モルガン師匠の図太さを見習うべきだと思う。
相手がドラゴンだろうが国王陛下だろうが、毛筋ほども怖気づかない傲岸不遜の体現者。
あ、でも、チヅルさんがこんな風になったら困るな。
わーわーとやり合う僕らを見て、チヅルさんがくすくすと笑う。
「大師匠――モルガンさんって、本当にいい先生なんですね」
「はっはっは、よしてよ、褒められたらお小遣いあげたくなっちゃう」
「やめてください。教育上良くないので」
「あ、出た、子供扱い。君も十七のときはそういうの嫌がった癖に! あーやだやだ、十年経ったぐらいで、『僕はすっかりオトナです』みたいな顔してさー」
こういう悪ふざけがなければ、もっといい先生なのに。
なんて思いながらため息をついたら、またチヅルさんに笑われてしまった。
「それで? 出産の予定日はいつなんだっけ?」
「順調に行けば、次の春頃ですね」
「よかった、それなら
思いがけないモルガン師匠の言葉に、チヅルさんがぎょっとする。
「えっ、移住って――というか、入学……って、何のお話ですか?」
「うん。あれ? え、アル君、話してないの?」
ああ、そうだ。師匠に手配を頼んだっきり、すっかり忘れてた。
「驚かせてごめん、チヅルさん。『
「ええっ、で、でで、でも、あの、出産が終わったら、次は体調の回復とか子育てとか、そういうのが」
そういうのが?
「……わたしの、役割になるんじゃ」
「ああ……そうか。もし育児に興味があるなら、専念するのも選択だと思う。でも、それは君だけの仕事じゃないよ」
チヅルさんは本当に真面目というか、誠実な人だ。
一つ一つのことに正面から取り組んで、全部を自分のこととして抱えてしまう。
「もしチヅルさんが、いつか広い世界を見てみたい、魔法使いとして自分の力を試したいと思うなら。王都に住んで魔法学園に通うことは、すごく価値があると思うんだ。だから、挑戦してみて欲しい、って思って」
チヅルさんが、長い髪に触れる。
考え事をするときの癖だ。
「……もしも、わたしとカレンちゃんが王都に行ったら。アルフレッドさんと、ル・シエラさんと、この子は」
「保護官のユーリィも同行するよ。それに、
言いながら、僕はチヅルさんの変化に気づいた。
違う。
彼女が聞きたいのはこういうことじゃない。多分。
「……二人がいなくなるのは、寂しいよ」
でも、いつまでも傍にいられるわけじゃない。
子供より先に死ぬのは、親の務めだし。
「わたしは」
何より。
彼女達の人生は、彼女達自身のものだから。
これは、僕が二人に贈れる最大限のプレゼントなんだ。
「わたしは。……やっぱり、アルフレッドさんの、
その言葉に。
僕は、どう答えればいいのか、迷っているうちに。
「……あー。アル君。話がだいぶズレてしまったけどね。君の、身の振り方の件についても、話がしたくてね」
モルガン師匠は、車椅子に下げていた雑嚢から封筒をいそいそと取り出した。
見覚えのある封蝋――王立魔法研究所の印が押されている。
「……これは?」
「開けてみなよ。大丈夫、トラップは仕掛けてないから」
そんな心配はしてないけど。
でも、とりあえず言われた通り、中身を確かめる。
「……宮廷魔法士としての、召喚状――」
「要するにね。あの事件における加害者はドミニク君だった、ってことが法廷で認められた訳。すると、今まで加害者だったアル君の立場は……どうなると思う?」
……ドミニクによって実験を妨害され、不当な罪に問われた被害者、だと?
「陛下による公布が出され、晴れてアル君の名誉は無事回復。むしろ王家としてこれまでの不遇を補いたい、らしいよ」
だから反逆とか企てるのはやめてね、ってことだろうね。
と師匠は付け加えた。
僕はチヅルさんを振り向き、彼女が呆然としているのを確かめ、もう一度師匠に向き直った。
「その顔。理屈は分かるけど納得が行かない、って書いてあるねー、アル君」
「……いくらドミニクが細工をしていたとはいえ。最後に決断を下したのは僕です。妨害工作に気付いていれば、実験を中断することもできたはずで」
びっ、と突き出されたモルガン師匠の手のひら。
「分かった、知ってる、君の責任感の強さも、罪悪感は一生消えないだろうってことも、私はまあ大体理解しているつもりだよ」
でもね、と師匠は続ける。
「ドミニク副所長が起こしたビッグな不祥事のおかげで、とうとう所長のグリフィン君も引責辞任。後釜を据えようにも筆頭候補のマーティン・ヴィゴは消えたままだし、共謀罪を暴かれた職員も魔法使いも候補生も捕まったせいで、研究所は大混乱! とーっても人手不足なんだよねー」
危機感があるのか無いのか――そもそも、師匠が語る内情とやらが真実なのかどうか。
僕には、いまいち判断がつかなかったけれど。
「だからさ。私を――研究所に残ってる子達を助けると思って」
師匠の手のひらが、くるりと回転した。
握手を求めるように。
「帰っておいでよ。君が大好きだった、あの場所に」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます