第88話 おじさん、JKのトラウマを抉る
日が落ちるまでに、シズカさんは二回失神し、三回嘔吐し、四回眼窩から出血した。
初めは怒っていたフレデリカも、途中からは諦めた様子で治療を続けてくれた。
モルガン師匠は僕に考えがあると見たのか、黙って訓練に付き合ってくれた。
結局その日は移動せず、第三のキャンプ地――ポイント・クリスティナで夜を迎えた。
行程としては半日ほど遅れることになるが、シズカさんの体調を考えれば仕方ないだろう。
……一日中、過酷な訓練を続けて精も根も使い果たしたシズカさんは、焚き火のそばに敷いた毛布の上で静かにうずくまっていた。
頭痛と目の痛み、それから疲労。
すべてが重くのしかかってきて、動くことも眠ることも出来ないのだろう。
僕は、彼女の前に木皿とカップを置いた。
「スープと、それから霊薬。少しでも体力を回復させて」
「……いらないです」
「ダメだ。食べなきゃ訓練ができない」
……やがて、シズカさんはのそのそと起き上がり、ウサギと香草のスープ――日暮れ前に師匠が獲ってきたものだ――をすすりはじめた。
スプーンを持つのも辛い様子だったけれど、身体は食事を求めているのだろう。
少しずつ皿の中身が減っていく。
「……そんなに面白いですか? アタシの食べ方」
「え、ああ、ごめん。その……ちゃんと食べてもらわないと、困るからね」
自分が厳しい教師に見えるよう、取り繕ったつもりだったけれど。
シズカさんはかすかに息を吐いた。
笑ったのか、それとも嘆息したのか。
「アル師匠って、なんか、父親っぽいです。そうやって、やたら見てくるところ」
「はは、まあ、シズカさんほど大きな娘はいないけど……シズカさんのお父さんって、こんな感じだったの?」
少し大きな肉を飲み下してから、シズカさんは頷いた。
「昔は。……母が死んでからは、変わりましたけど」
淡々とした答え。
焚き火が小さく爆ぜ、舞い上がった火の粉がふわふわと落ちていく。
「……お母さん、亡くなってたんだね」
「小さい頃だったので、母のことはほとんど憶えていないです。でも、あの頃は父親が良く笑ってたのは憶えてます」
僕はしばらく、何も言えなかった。
ようやく絞り出せたのは、月並みな謝罪だけ。
「ごめん。チキュウのこと、思い出させて」
「全部過去のことです。アタシはもう死んだ人間ですから」
それは事実だけど、すべてじゃない。
今、シズカさんは新しく生き直すチャンスを得たんだ。
……なんて真っ直ぐな言葉が通じるとは、とても思えなかった。
「死ぬ前の自分は、どうしたら父親に興味を持ってもらえるか、ずっと考えてました。勉強とかスポーツとか非行とか。思いつくことは全部試しました。でも、父は変わらなかったです」
誰かに聞いてもらうというより、ただ整理をつけたかったのだろう。
その証拠に、シズカさんの視線はスープ皿に向けられたままだった。
「結局、アタシが高校に入ったときに父は自殺しました。遺書の内容は抽象的で、母が死んだ責任は自分にあるとか、よく分からないことばかりで……多分、父は母が恋しかったんだと思います」
流れ出る言葉は、焚き火にくべられる枯れ枝のように。
「……アタシも、父親ぐらいの年齢の男を追いかけて、うまく行かなくて。全部嫌になって、校舎から飛び降りました。それでようやく分かったんです。父が母を恋しがってたように、アタシは父が恋しかったんだと」
ぱちん。
枝の一つが爆ぜる音。
「すみません。自分語りなんて、ウザいですね」
「いいや。……そんなことはないよ」
シズカさんの気持ちも、シズカさんの父親の気持ちも。
僕は分かるような気がした。
愛する人がいなくなった世界に、意味など無い。
チトセを失ったばかりの僕も、そう考えていた。
(シズカさんは、きっと。今もそう考えてる)
……この世界に、シズカさんの父親はいないのだろうか?
「シズカさんも、転移の前に女神――ムール・ムースに会ったんだよね。お父さんのことは?」
「訊ねました。あっさり否定されました。わたしは好みの魂にしか語りかけない、と」
言葉ににじむ、失望と怒り。
女神は慈悲深く、それでいて気まぐれでもある。
彼女が本当に全知全能で慈愛に満ちているなら、僕からチトセを奪ったりはしなかっただろう。
(あの頃、僕は女神すら呪っていた)
目の前に広がる闇が怖くて。
人生の寄す処を失い、たった独りで子供を抱えたまま、どう生きればいいのか分からなくて。
何かを攻撃することで、不安から目を逸らし続けていた。
ふと思い立って、訊ねてみる。
「シズカさん。昼間の【
「……
「相手の過去も?」
質問に。
珍しく、シズカさんはためらうような表情を見せた。
「……はい。視認目標になってもらったフレデリカさんとモルガン大師匠の、過去、だと思います。断片的で、VRのようでした」
「ブイアールって?」
「ああ、ええと……臨場感のある、動く絵です。音や匂い、それから当時の本人の考えも、少し見えた気がします」
やっぱり【
魔法の構成とは、器を人間にとって都合のいい形で利用するための形式に過ぎない。
本来空間に満ちる
適切に働きかければそのすべてが再現できるはずなのだ。
その証拠に、モンスターなど種によっては魔法とは異なる独自の方法で
普通の人間には不可能な形で
なかでも【
例えば。
空間に満ちる
人体に満ちる
『
「……ところで。フレデリカさんとアル師匠は、どういう関係なんですか?」
「え、なに? 急にどうしたの?」
「すみません。フレデリカさんの過去が見えたとき、アル師匠の映像が多かったので……少し、気になりました」
いやまあ、別に隠すようなことは何も無いんだけど。
「昔、受験生のフレデリカに勉強を教えていた時期があるんだ。その頃の記憶じゃないかな」
「……なるほど。理解しました」
飲み込み早いなあ。
独り納得した様子のシズカさん。
なんだろう。こういう感じ、前もあった気がする。
ああ、違う、そうだ、本題に戻ろう。
「明日でいいから、シズカさんに試してほしいことがあるんだ」
「……なんですか」
僕は続けた。
「僕の過去を
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