紺野風五郎1と緑川鳴海1
陸軍上層部、大佐室。
「すみませんでした、おじさん。ごめんなさい本当に申し訳ございません」
「おじさんと呼ぶなと言ってるだろうが!」
そもそも本気で投げつけたわけではない。当たったら後悔するだろうなと思いながら飛んでいった灰皿は、予想通りに空を切った。
大佐と一等兵。天と地ほど階級に差がある軍人が、大佐室に2人。本来ありえる状況ではないが、これは紺野風五郎大佐の望んだことだった。
一般市民から、またしても防空壕に逃げ込んだ軍人の目撃情報が寄せられたのだ。調べるまでもなく、それが自分の甥っ子の緑川一等兵だということは分かっていた。
「兄貴は立派な軍人だったのに、なんでお前はそんなにそんななんだ」
「すみません申し訳ございません」
「何回目だ『軍人が泣きながら逃げてます』って寄せられたのは。最初は市民の目かおれの耳がおかしいのかと思ったよ。泣き叫びながら我先に防空壕に飛び込む軍人なんか、ツチノコより珍しいわ!」
「本当にツチノコっているんですか」
風五郎は何かを言おうと口を開いたが、言葉は出てこなかった。
鳴海は風五郎をバカにしているわけでも、それほどバカなわけでもない。だが明らかに軍人に向いていない。
やっぱりやめさせちまうか、と風五郎は毎度の思考に陥った。
少将だった鳴海の父、また風五郎の兄だった武雄が、最期の出兵の前に言っていた言葉がまざまざと蘇る。
「悪いとは思うが、鳴海を軍に入れる」
「何が悪いんだい、兄貴」
「お国に。それとお前に。多大な迷惑をかけると思う」
「まあ、少将の息子が一等兵で入隊したら、周りは気を使うと思うが」
「いや、あの、見てくれれば分かる。死んだうちのに似て、優しい子なんだが」
入隊した緑川鳴海の体力は、人並み以上にあった。優秀な部類といえる。だが、軍人に不可欠な闘争心、攻撃力、怒りといった要素が、かけらも見受けられないのである。軍隊という特殊な集団に、そのような異分子が交じると士気に関わる。しかし少将の息子だということは知られているので、陰湿ないじめなどを受けることもない。鳴海以外の隊員はたまったものではないだろう。
なるほど、兄が迷惑をかけると言ったことも頷ける。
託された以上は面倒を見なければならないのだが、次の就職先を斡旋してやることも面倒を見ることにはなる。知力と体力は問題ないので、本人がやれるかどうかだけだ。
「なあ鳴海。お前が憎くて言うわけじゃないが、その優しさは軍には向いていない」
「……はい。自覚しています」
「消防士になるってのはどうだ。誰かと戦う必要はないし、人助けならできるだろう」
「火が怖くて身動きができません」
「やりたいことはないのか。口利きしてやるぞ」
「僕は画家になりたいです」
鳴海は緑色の油絵用の筆を取り出して高らかに掲げた。
けど一等兵、君、絵、下手じゃないか。
一度非番の日に見せられたけど、抽象画か風景画かすら分からなかったくらいだが。なんだその根拠のない自信は。
その言葉をなんとか飲み込んだ風五郎は、愛用の紺色のハンカチで額を拭いた。入隊祝として兄がくれたものだから20年ほど使っている。
その時、鳴海は見た。風五郎の紺色のハンカチから紺、紫、赤、朱、黄、緑、水の虹が出現するのを。
同じく風五郎も見ていた。鳴海の緑色の筆から緑、水、紺、紫、赤、朱、黄の橋が出現する瞬間を。
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