虹の上しか歩いちゃいけない

桑原賢五郎丸

天使はとりあえずボコボコにされる

黄海陽子1

 ある晴れた夏の昼下がり。黄海このみようは思わず独り言をこぼした。


「わ、私のたくあんが、浮いている……」


 よく晴れた夏休みだった。

「たまには空を見ながらご飯を食べよう」と思い立ち、母が用意してくれた色とりどりの昼食を弁当箱に詰め込んだ。縁側なら空を見ることができる。蓋はしなかった。水撒きを終えたらすぐに食べるからだ。

 毎日様子を見ている朝顔が、かわいらしく咲いている。ひまわりもすくすくと伸びてきた。太陽のような花に合わせて目線を上げると、横に黄色いものが浮かんでいることに気づいた。

 黄色いたくあんが宙に浮いている。空中にぴたりと止まってしまっている。陽子はもう一度つぶやいた。


「た、たくあんって、浮くもの……?」


 もしここで「お母さん、たくあんって浮く?」と聴いたらどうなるだろう。怒られるだろうか、病院か神社へ連れて行かれるだろうか。普通に考えるとろくな未来にたどり着けないので、どっちにしろ母の知恵は借りられない。がんばって一人で解決してみることにした。


 まず疑ったのは、蜘蛛の巣である。昆虫代わりのエサとして持っていかれたのかと、浮いているたくあんの周辺をじょうろでつついてみるが、なにもない。

 目に見えない細い糸を使い、釣りのような仕掛けを垂らされていることも考えたが、たくあんの上にもなにもない。そもそもそんなことをして、誰が何の得をするのか。

 黄色いひまわりを長いこと眺めていたゆえの残像の可能性も考えた。しばらく目を閉じ、カッと見開く。たくあんは明らかに実像を伴っている。

 このまま食事を済ませて水撒きに戻れるはずもなく、腕を組んでまじまじと眺めていると、大きなサイレンが鳴り響いた。空襲警報だ。


 母に促され、防空壕へ向かう。歩みにつれ、後ろに結いた髪が揺れる。途中、爆撃機に抵抗するように、青空をにらみつける同級生を見つけた。泣きそうな顔をしながら、迷彩服を身にまとい走る戦士もいる。


「バカじゃないの。あんなことしても、何の意味もないのに」

「なに陽子、なにか言った!?」

「なんでもない!!」


 警報にかき消された非難の声は、誰にも届かなかった。目の前の母にさえも。



 ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   



 夕方まで続いた爆撃が止み、家へと帰る。笑っている大人もいる。市庁舎に設置された地対空迎撃システムの成果ということもあるが、どこか緊張感がない。


 途中、ほのかに桃色がかった短い髪の女子高生とすれ違った。こんな時にどうかと思うが、なんだかいやらしい感じがした。同性の自分から見てもそう感じるのだから、あんな人が防空壕の中にいたら男の人たちはどうにかなってしまうのではないだろうか。自分も成長すれば、あんな感じにいやらしくなってくれるのだろうか。

 つい見とれていると、目が合った。微笑みかけてきた彼女になんとなく頭を下げる。自分が赤面していることがわかった。


 幸い、陽子の家の周辺は無傷だった。

 そして、たくあんも、そのままふわふわと浮いていた。

 なぜか急に腹が立った陽子は、箒を手に取る。いつもどおり左手で柄を強く握り、拳一つ分開けて右手を添える。もはや宙に浮いている理由を調べるつもりはない。


「そののんきな顔にイライラするわ。こっちは敵から逃げまわってるのに」


 理不尽なことで怒っているのは理解しているが、意味がわからないことを言っている自覚はない。


「叩き落とすしかない、勿体無いけど」


 陽子は箒をふりかざした。じりじりと距離を詰める。一撃で仕留める自信があった。

 だが振り下ろすことができない。浮いているたくあんの周辺をじっと見つめている。

 その目に映ったものは、虹だった。小さな虹が、目の前で浮いているたくあんから空に向かって伸びているのだ。



 たくあんを起点とした黄、緑、水、紺、紫、赤、朱の小さな橋が、緩やかな半円を描いて青い空に向かっている。

 被害が出なかったとは言え、先程の爆撃で空気は乾いている。その為、虹ができるはずもないのだが、陽子は虹の仕組みを知らない。

 口をぽかんと開けてひたすら素直に見とれていると、空からキラキラした固まりが2つ降りてきた。そのキラキラから厳かな声が響いてくる。


「私はアリシア。ヨーコを守る者」

「僕はヴィクター。ヨー」

「きえええええい!」


 陽子は勢いよく箒を振り下ろした。

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