第36話:アトラ
ジルは死んだ、と誰もが思っていた。
蹴り飛ばした謎の魔獣ですらジルのことを意識の外に追いやるくらいだ。
しかし、ジルは生きていた。僅かに生を繋ぎ止めていた。
頭蓋にはひびが入り、体全体にも重傷を負っている。
生きていても戦える状態ではなく、時間が経てばいずれは死んでしまうだろう。
そんな時、ジルの頭の中――否、意識に直接語り掛けるようにして女性の声が聞こえてきた。
(——ここまで来てくれて、ありがとう)
(——あなたは、誰なんだ?)
(——私は、アトラ)
(——アトラ? アトラって、
声の主はアトラだと告げてきた。
(——皆さんが伝え聞いているアトラとは違うけど、賢者のアトラであっているわ)
(——そう、ですか。ここまで来られたけど、俺はもうダメです)
(——そうでしょうか? あなたの心はまだ折れていないでしょう?)
(——……心は折れていなくても、体が動かないんです)
諦められない、諦めたくないと思っていても、現実はジルの思い通りにはいかない。
すでに体は動かず、死を待つのみの状態になっているのだ。
(——私には、あなたを助けることができます)
(——でしたら、その力でみんなを助けてあげてください)
(——このままでは、あなたが死んでしまいますよ?)
(——俺なんかよりも、メリやヴィールさん、スぺリーナで暮らす人たちを助けてほしいんです)
自分が助かっても、謎の魔獣を倒すことはできない。
二級の天職を持つヨルドが敵わなかったのだから、三級の天職である自分が助かっても結局は殺されてしまう。
(——アトラ様の力を使って、謎の魔獣を倒してください)
(——残念ながら、それはできないわ。私の力は人に影響を与えることはできても、魔獣に影響を与えることはできない)
(——そんな! だったら、スぺリーナは、もう……)
ジルの望みが絶たれてしまったことで、ついに心が折れてしまいそうになった。
(——あなたは、天職を疑っていますね?)
(——……はい)
(——それは、神に逆らう行為ですか?)
(——違います! 俺は、俺の可能性を自分の手で広げたかったんです!)
ここに来て場違いな質問をされていることにジルは気づいていなかった。
だが、不思議なことに答えなければならないと口が自然と動いていた。
(——でしたら、あなたにその可能性を与えましょう)
(——可能性を、ですか?)
(——ですが、可能性を得る代わりに失うものもあります)
(——それは、なんですか?)
ジルの質問に対して、アトラは微笑みを含んだ声音で答える。
(——天職を失います)
(——天職を、失う?)
(——天職は、人が生きるうえで絶対に失敗がないものです。天職に従い生きていれば困ることは無くなります。ですが、天職を失うということは失敗をすることもあるということです)
(——だけど、可能性は広がると?)
(——その通りです。天職を失うということは、何者にでもなることができるということ。あなたは、自分が望むままに可能性を広げることができるのです)
(——お願いします!)
ジルは迷わなかった。
天職を無視して双剣士を試し、普通の方法で運命を変えることができないと分かっていた。
自分ではどうしたらいいのか分からなかった可能性の広げ方を、アトラから提案してくれたのだから乗らない手はない。
(——本当にいいのですか? 一度天職を手放せば、後から元に戻すことはできませんよ?)
(——構いません。俺は可能性を広げるために、運命を変えるために冒険者になったんです。それに、どのみち天職を手放さないと生きて帰ることすらできないんですから)
ジルは意識で会話をしているのだが、自分が苦笑を浮かべているだろうと察していた。
今の状況で助かる可能性を捨てる者なんて誰もいないだろうと。それが天職を失くことになろうともだ。
そのことをアトラが図っていたのかは分からないが、どちらにしてもジルの答えは決まっていた。
(——分かりました。あなたに私の祝福を与えましょう。天職を失う代わりに、多くの可能性を手に入れることができます。私からの選別は、あなたの肉体の損傷を回復させてあげること)
(——ありがとうございます)
(——ふふふ。全く、面白い因果だこと)
(——どうしたんですか?)
突然笑い出したアトラにジルは疑問を口にする。
(——長い年月の中で、似たようなことを二度も行うとは思わなかったのですよ)
(——似たようなことを、二度も? 俺以外にも、天職を失った人が)
(——さて、時間がきたようです)
ジルの言葉を遮るようにして、アトラは話を強引に進めてしまう。
(——目を覚ました時、あなたは天職を失っています。これからのあなたの生き方に、期待していますよ)
(——……はい。俺は、アトラ様の期待に応えられるよう、まずはこの場を切り抜けたいと思います)
ジルの意識は、そこで途切れてしまった。
(——あの子も生きている。あなたも、私の期待に応えてくれるのでしょう? ジルベルト・アッカート)
これはアトラの気まぐれなのか。
それとも必然だったのか。
誰にも分からないことだが、ジルにとっては千載一遇の好機であることに変わりはなく、どちらでも構わなかった。
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