ひとのかたち

 数年来の友人である熊野に、登山に誘われたのはどんな経緯だっただろうか。

 冬の寒さが和らいで、一気に桜の蕾が芽吹いた折だった。忙しさにかまけて次々散っていく桜の花を前に、「去年も花見なんかできなかった」と恨みがましく愚痴った。それに応えたのが彼だった。

「じゃあ、花見しに行こうよ」

 と誘われて、何ともなしに頷いてしまったのが運の尽き。

 あれよあれよという間に登山用品の販売店に連れ込まれ、ちょっとした山登りに耐えうる装備をそろえた。

 そして、今は熊野に連れられ山を登っている。

「……ねぇ、」

 たかが登山、されど登山。運動不足な体には、突然の山は堪える。

 少し声をかけたかっただけなのに、震えた情けないものになっていた。

 環境音にかき消されてしまったかと思ったが、前を行く熊野が首だけで振り返る。

「なに~?」

「あのさぁ、桜、見に行くんだよね?」

「うん」

「あと、どれくらい?」

 熊除けの鈴の音がリンリン、と挟まり熊野が視線を一瞬逸らす。

「二十分くらいかな」

 彼の目指す先はまだ遠い。

 いや、二十分か。平地なら歩けない距離ではない。しかし、見上げる先は限りなく傾斜している。思わず閉口した。

「まぁまぁ。桜を見たら疲れも忘れるって」

 軽口をたたく熊野は、足取りも軽い。

彼は俺が登山を渋った際に「初心者コースだから」などと言って、俺の背中をぐいぐいと押したくせに。

まだ見ぬ桜につられて、足は動くだろうか。

今にも膝に手をつきそうな俺と対比的に、熊野は迷わぬ足取りでずんずんと山道を登っていく。

無駄口をたたく余力もなく、後に続いた。


二十分と言っていたくせに。あれは、熊野の足で二十分という意味だったらしい。

たっぷり倍の時間をかけて、ようやく目当てのものが見えてきた。

見上げるほどに大きな桜の巨木だった。

岩壁に憑りつくようにして、無数の花を咲かせている。

 思わず見上げて、言葉を失った。

 熊野はしたり顔である。

「どう? すごいでしょ」

 呆けたまま「ああ」としか返事ができなかったが、熊野は気にも留めていないようだった。

「ここいらの桜はね、標高が高いからちょっと遅れて咲くんだよ。特に、この巨木は他のよりも遅く咲く。だから、この時期でも花見ができるってわけ」

「へぇ~」

「あんまり聞いてないな」

「すまん、桜がすごすぎて……」

「俺も初めて見た時は圧倒された」

 熊野がへらへらと笑う。

 それにしても、すごい木だ。

 岩と岩の隙間に根を差し込んで、この巨体を支えているらしい。根がもっと伸びたら、その内に岩をも砕いてしまいそうだなと感じた。

 サラサラ、と音を立てるように桜の花びらが舞い落ちてくる。

 また口をぽかんと開けていたらしく、桜の花びらが口の中に一枚入ってきた。

 ぺっぺ、と舌に張り付いた花びらを撮るのに苦労しているのを見て、熊野が腹を抱えて笑っている。

 唐突に、大きな風が吹いた。

 ゴウ、と山が吠えたのかと思うほどの大きな音がした。風にあおられて、巨木の枝が大きくしなる。桜の花びらが、目隠しのように降り注ぐ。

 バキ

 乾いた音がした。

 音のした方を見やる。巨木の枝が中空に浮いていた。

 桜の花びらよりも、ずっと早く落ちてくる。枝の下には、熊野がいた。

「あ」

 何を言おうとしていたのか。枝の下敷きになった熊野は、ピクリとも動かない。

「熊野! 熊野!」

 と名を呼んで、体を揺する。巨木の下から熊野の体を引っ張り出す。雨のように降り注ぐ、桜の花びらが鬱陶しかった。

 振り払うように腕を振り回すのに、ひらりひらりと避けられてしまう。目を瞑る熊野の顔にも容赦なく降り注いだ。

 口元に積もった花びらが、ふわりと浮かぶ。呼吸はあるようだった。

「熊野! おい、熊野!」

 体を揺すって、名前を呼ぶ。

 枝の下敷きになっていた頭部の外相の確認をしようと、桜の花びらを払う。

 額が大きく切れていて、血は――出ていない。一滴も。

 傷口に、桜の花びらがくっ付いていた。

 花びらを一枚ずつちまちまと退かしていくと、破れた皮膚が見えてくる。皮膚の下からは、真っ白な綿が飛び出していた。

「熊野?」

 名を呼ぶも、彼は目を開けなかった。

 桜の花びらがはらはらと散っている。

 枝の折れた、痛みに涙を流しているようだった。

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