凪の人魚
生臭い海の匂いがしている。
波とともに押し寄せる白い気泡が手招くようにも見えたし、苦痛に歪む女の顔にも見えた。
ともかく、生臭かった。
私の腕に抱かれた人はまだ眠っていて、水の音などきっと聞こえてはいないだろう。
もうすぐ故郷に帰れるのに、彼女は眠りこけたままだった。別れを惜しむように、私のシャツの胸元を強く握っている。
穏やかな夢を見ていてほしいと思うのに、どうか私の夢も見てほしいと思ってしまっていた。
彼女と私は違う生き物だったから、これ以上一緒にいられない。悲劇は彼女がたわむれに人間に紛れてしまったところから始まっていた。出会った日のことは今でも思い出す。四年前の夕暮れの海岸での出来事だった。海水に濡れた濃い色の砂の上で、楽器も持たずに恋の歌を歌う彼女を見て、私はどうしようもなく心が急いた。
おとぎ話など微塵も信じてはいなかったが、私と彼女の出会いは確かにそこにあったのだ。世間一般で言う切ない別れの物語であるが、私には力強い運命のいたずらであったのだと思う。
私と彼女の生活は、面白おかしく過ぎていった。
彼女が歌うたう間に、私は彼女の世話をする。
私たちは似ていたから、私は勘違いをしてしまっていた。
世間一般で言う浮気性なところは、彼女にとってはごく当たり前のことなのだ。見目麗しく、魅力的で、才能にあふれた彼女にとって、自分のように魅力的な存在を知ってみたいと思うのは。
私たちは違う生き物なのだから。
「ねぇ、本当は私とずっと一緒にいてほしかった」
彼女はもう喉がつぶれてしまって人の言葉は口からこぼれなかったが、彼女の嗚咽や唸り声が私には慈しむ言葉にも聞こえた。彼女が私を傷つけることは決してないのだ。だから、バタつく足は水を捉えようとして動かされているだけだし、私の首に延ばされる手は私との別れを惜しんでいるからなのだ。
彼女は人魚だから、海へと返す。
陸にいるから、息が苦しいのだ。
ここへ居てはいけなかった。
私から離れようとしていた彼女を、とどめておこうと努力してしまった私が悪いのだ。
温い海水が、私の足を浸す。
私は人間だから。ヒレも、水かきも、エラもないから。これ以上は一緒に行けない。
濡れた砂の上に、彼女の体を寝かせた。
「海へお帰り」
押し寄せる波が、彼女を舐める。
飛び散る白い泡沫は、仲間の帰還を喜ぶ雄たけびの様だった。
本日未明、歌手の×××××さんが海岸の波打ち際で、手足を縛られた状態で倒れているのが地元住民によって発見されました。病院に運ばれましたが、死亡が確認されました。警察が事件の方向での捜査を進めています。
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