しれいの夏
潮が来る
満ちて、引っ張り上げてくる
悲しい気持ちも、恨み辛みも
満ちたものが、やってくる
祓い屋、とか拝み屋、とか祈祷師、とか後は霊媒師とか。
ともかくそんな世間一般で言われれば胡散臭いといわれるような生業で生計を立てられるようになって、こんな仕事は何度目になっただろうか。
「盆に死霊が上がってくるんです。海から」
青ざめた顔でそう告げてきたのはその地域の代表を名乗る壮年の男だった。今どきそんなことを真剣に言っていたら病院を紹介されてしまうが、残念ながらここは「草間心霊相談所」と大きく掲げられた廃寺を改装した事務所なのだから、心霊現象を真剣に相談されても仕方がない。
「盆に死霊が来る――ですか……」
「海から上がってくるんですよ」
盆には先祖が帰ってくるのが定石だが、なにせその死霊という一言が引っかかる。普通は幽霊と言わないだろうか。
「死霊と言っても、それはご先祖様なんでしょう? 何がそんなに恐ろしいんですか?」
「それが……」
男が青い顔を紙のように白くして下を向いた。もごもご、と何か言い募っているが聞き取りづらい。水が耳の中に入ったような耳閉感に一瞬首を傾げた。
なおもまごまごしている相談相手に、仕事の話とは言え焦れてしまうのは私の性格ゆえか。だが、こういう場面で無理に続きを促せば、さらに長引くというのを最近学んだ。
しばらくすると、意を決したように対面の男が顔を上げる。
「確かに、皆懐かしい顔なんです。親戚や、友人、数年前に亡くなった人まで。でも、皆一様に海に還っているんですよ。体のあちこちに藤壺を付けた者、目の代わりに魚を入れている者、腕がなくなったものは肘から海藻が生えていました。そういうものは……死霊というほかないでしょう」
「そう、ですね」
私の乏しい想像力で思いつくのは某海賊映画の船員たちだが、そういう認識でいいのだろうか。確かに、そんなものが上がってくるなら『死霊』が来るという言いかたも頷ける。
盆に海から上がってくる死霊。それも飛び切り奇怪な姿の。
それを幽霊や心霊現象と片づけていいかはわからないが、ともかく私の仕事は依頼主の意向に沿うだけだ。
「それで、その死霊――をあなたはどうしたいのですか?」
「海から上がらないようにしてほしいのです。あんな姿を見るのは忍びなく……親しい顔を恐ろしいと思うのも嫌なんです」
草間有栖なら、この告白にどんなふうに応えるだろうか。死者を恐ろしいと思うのは当たり前、というのか。心を強く持ってくださいと励ますのか。あの尼さんは読めないところがある。もしかすると叱り飛ばすかもしれない。
どうせこれも私の先生――草間有栖への依頼なのだろう。だが、残念なことに先生は急用で北海道に行ってしまっている。先生が帰ってくるまでは、この心霊相談所の代理は私だ。
盆と言えばもう差し迫っている。早急に対処が必要だった。
「わかりました。そのお話、私が解決いたしましょう」
「よ、よろしくお願いします! 草間先生!」
具合の良くなさそうな顔をパッと上げて、彼が思いがけず手を握ってくる。海の底のように冷たい手だった。
だが、それよりも気になったことがある。
この男は何か勘違いをしているらしかった。そこでようやく、自分の名前を名乗っていないことに気が付く。
「ああ、申し送れました。私、草間有栖先生の代理をしております。草間先生の一番弟子であり、草間先生の秘書兼草間心霊相談所の第一助手、宇佐見ミケと申します」
「え、あの……草間先生は?」
「先生は北海道へ人魚を釣りに行きました。」
先生の急用を告げれば、相手が愕然としているのが手に取るようにわかる。目を見開いて、黒い瞳を濁らせていたのがだんだんと不安を垂れこめさせていたので、仕方なしに一押ししてやった。
「草間先生の 代 理 の、宇佐見ミケです」
たかが代理、されど代理である。そもそも、こんな怪しい商売誰がやろうと結果は同じだ。多少向き不向きがある、ということだけである。
「それとも、草間先生の一番弟子である私では不満ですか?」
「い、いいえ。滅相もない」
男が青い顔をさらに青くして首をすくめる。水が彼の首からしたたり落ちた。冷汗のようだ。
「そうですか。それでは、さっそく行きましょう。件の海へ」
「い、今から……ですか?」
「はい。事態は思っているより差し迫っているようですから」
件の海――死霊の上がってくる海は人の手のついていない、凪いだ美しい入り江だった。現地についたのがちょうど夜明けの頃でもあったので、朝焼けを抱くその短い浜に宇佐見ミケは感嘆の声を漏らした。
依頼主――浦坂氏は悪い顔色をさらに悪くして、木の陰からこちらの様子をうかがっている。
見渡す限り、今はその死霊の姿は見当たらない。
浜にでも打ち上げられていないかと、散歩感覚で歩き出す。後ろから「おいて行かないでください!」と半ば悲鳴のような浦坂氏の声が聞こえたが、追いかけては来ないようだった。
灰色っぽい砂の中に時折キラキラと光るものがあって、ミケはそれを拾い上げた。ガラスか何かかと思ったが、陶片だった。松の模様だったらしいものが欠けて波の絵柄にも見える。
こびりついた砂を波間で落として、ポケットに陶片をしまい込んだその時だった。
ポチャリ、と海の中からバレーボール大の黒いものが浮かび上がってくる。
ミケが唖然としている間にも、波に押し返されながら、ずるずると人の体が海から上がってきた。我に帰れば、次々と人ならざる者たちが浜へと還ってきていた。
水底で冷やされたのか、皆一様に青白い顔をしている。磯臭さが鼻を突いた。
これが『死霊』かと、ミケは妙に納得した。どれもこれも波のように曖昧な形をしている。
溺れた人のように濡れ鼠で、青い顔の一団が波の際にずらっと横並びになっていた。海の中から出てこようとしないのは、そこが境だからだろう。海の中にしか存在できないのだ。
「あなたたち、どんな未練があるの?」
試しに話しかけてみるが、どの人影からも返答はない。
朝焼けで黒く伸びた影がミケの足元まで迫ってきていた。
「あなたたちが放っておいて欲しいのなら、私はほったらかしにするよ。何の害もないようだし……」
返事がないのに焦れて、ミケが彼らに一歩近づいたその瞬間だった。思っていたよりも迫り来ていた濡れた影の端を彼女の足先が踏んでしまう。
顔が一斉にミケのことを振り返った。
体の奥がぞっと冷たくなる。彼岸と此岸が繋がった。
身を引く隙もないうちに、影を伝って死霊たちが海から上がってくる。ミケの影はもうすぐで背後の防風林と通じる。そうなれば、彼らは林の中へ散っていくだろう。
ごくり、と生唾を飲み込んだ彼女の眼前に青白く、冷たい顔が迫ってきていた。
『……、…』
水を飲んだ時のような耳閉感だった。水音交じりに何か言っているのは分かるが、判然としない。曖昧な存在だから、こちらに聞こえないのだろうか。
ミケが彼らの主張に一生懸命に耳を傾ける。
浜の砂のように濁った灰色の瞳が彼女のことをじっと見つめてくる。力なくだらりと開いた口から、生臭い海水が流れて、ごぼごぼ、と詰まった音がしている。
「カ、……、…」
「……シテ…、」
「……カ、…テ」
各々の口が欠けた言葉を走って、それが殷々と響く。波の音が一瞬止んだその間に、声がぴたりと重なった。
『カエシテ』
返して。否、還して、だ。
どこへ、なんて野暮なことは訊かない。
彼らは還りたいのだ。海に。だが、一つ足りないから還れない。だから、盆に海から還ってくる。怖がりで、受け入れがたい事実を無視したその彼を。
「浦坂さん」
名を呼んで振り返れば、青白い怯えた顔が返事もなくミケの方を凝視していた。
きっと彼にはお迎えに見えていたことだろう。
拒否するように首を横に振る彼の方へ歩き出す。私の影と防風林の影が繋がって、死霊たちが我先にと走り出した。
「帰りましょう。皆さんお待ちかねですよ」
「い、嫌だ」
海の底のように冷たい手がミケの手を掴んだ。
「行きたくない。私は死んでない。死霊が海から上がってくるんだ。だから、だから……」
「あなたを迎えに来てるんですよ。心残りなんですよ。一人ぼっちはさみしいでしょう?」
「行きたくない。海の中なんて」
「住めば都というじゃないですか」
嫌だ、嫌だ、と言いながら、曖昧な存在は海の中へと連れていかれた。
水に沈むその際に「返してくれ」と言っていたのが印象的だった。
朝焼けが去ると、太陽が強く照り付けた。灰色の砂が太陽の熱を足元からも這い上がらせてくる。
「あれは、来年も上がってくるだろうなぁ」
海を眺めながら思わずそんな風に呟いていた。
~~~~~~~~~
「と、言うわけで」
報告書と一緒に事の顛末を話せば、先生――草間有栖が相変わらず年齢に見合わない可愛らしさで頷いていた。
「先生がこのくそ忙しい盆の時期に暢気に人魚釣りに行っている間に、私はこんなにも働いたんですよ?」
「お疲れさまでした、ミケさん」
「どうも」
「ところで――」
可愛らしい笑顔で彼女がことりと首を傾げる。
「その、浦坂氏から報酬はいただいたんですか?」
「まさか! 六文銭を分捕れっていうわけじゃないですよね?」
「そんな血も涙もない様なこと言わないけれど、お仕事はお仕事なわけだし……」
有栖が顔に手を当てて困った、と言いたげに眉を顰める。どうせ、北海道への旅費で生活費がカツカツなんだろう。
だが、ない袖は振れないのでミケが首を横に振る。
仕方のない人だなぁと思いながらポケットに手を突っ込むと、指先につるりとしたものが当たった。
何者か、と引っ張り出してみればあの日海岸で拾った陶片だ。
気に入っていたが、仕方がない。
「はい、先生コレどうぞ」
「先生はゴミ箱じゃないですよ」
なんて、すげなく突っ返されてしまった。
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