南天の星

 南天の花が咲く。

 梅雨の終わりの雲の色と同じ南天の花が咲いた。

 長雨も開ければ、人の往来は活発になる。夏の酷暑にも負けぬ行脚が始まる。

 

 トン、トンと控えめに玄関の木戸を叩く音がして私は顔を上げる。

「母さーん、お客さん!」

 ややあって奥の部屋から「はいはい」と母の声で返事があった。

 客人は余程せっかちなのか、その間にももう一度トン、トンと控えめに扉が叩かれた。

「はぁい」

 ともう一度返事をしてみれば、外からか細い「ごめんください」との声がかかる。

 その声を聞いて、ああ、南天の季節になったのだと私は実感した。

 返事を返す前に、奥から母が手を拭きながら土間へと降りて行った。

 私が扉の外を確認しようとする前に、しっしと手で奥へと散らされる。

待ちきれなかったのか再び「ごめんください」と声がかかったのを聞いて、気の毒になると私は奥の部屋へと下がった。

村には夏の南天の花が咲く頃にお客さんがやってくる。

夏に南の空に見える赤い星をめがけて歩いていくらしい。

 扉越しに母とお客さんの会話が聞こえる。

「今年も、お願いします……」

「ちょっと待ってくださいね」

「すみません……」

 母がとたとたと急ぎ足で台所の方へ歩く音を聞いて、私はそっと扉を開けた。僅かに覗けるほどの隙間から玄関の方を伺う。

 土間には黒い髪の若い女が旅装でぽつりとたたずんでいる。首筋が光っているように見えるのは汗だろうか。土を焼くほど暑い中歩いてきているはずなのに、肌は透き通るように白かった。

 この人が、夏の間中旅をして夏の間だけ南に見える赤い星の方へ行くのだ。母の話では星の見える村の麓に許嫁が住んでいるらしい。ならば、その許嫁と暮らせばいいのに、彼女は毎年旅をしてそこへと戻る。

 私が子供の頃からだ。物心ついたころから毎年村に寄って行くから、もう十年近くなる。

 なぜだか、大人はあのお客さんと子供が話すのを嫌がる。

 私ももちろん会話を禁止されている一人だが、遠目に見るくらい許されるだろう。

 そんな風に思っていると薄っぺらいドアががたりと鳴ってしまって、お客さんがゆっくりとこちらに目を向ける。

 不思議そうにしていた彼女がにこりと笑った。

 正面から見た彼女は若い。まだ二十歳にも届かないように見えるのに、もう十年も南の赤い星を目指している。

 見世物のように覗いていたことを何と言ってごまかそうか、と思った時お客さんの方が話しかけてきた。

「何してるの?」

「あ……えっと……」

「覗いてたの?」

「あの……」

「いいよ。私もよくしてるから」

 とお客さんが言って、懐から細長い棒のような物を取り出す。カチャカチャと伸びるそれを見て、望遠鏡だと気が付いた。

「よく見ている」とは星のことだろうか、それとも許嫁の居るという村のことか。

 戸惑っているうちに彼女が大事そうに望遠鏡を懐へと戻そうとするので、私は慌てて訪ねた。

「どこまで、行くんですか?」

「南の空に赤い星が見えるでしょ? あの麓まで行くのよ。ひと夏かけて歩くの」

「そ、その後は?」

「さぁ? 地面は丸いのよ。」

 お客さんがふっと遠くを見て笑う。きっと、夜でなくても、望遠鏡なんか使わなくても彼女はあの赤い星のその先を見ている。

  

 それが遠い夏の思い出で。

 庭で洗濯物を干していると「お母さーん! お客さん!」と、玄関先から娘の声がした。

 ああ、もう南天の花の季節なのだと思いながら私は「はぁい」と返事を返した。

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