夏男

 令和二年八月某日。

「ああ、暑い」

「……」

「暑くて溶けそう」

「……」

「おーい、口が溶けちゃったの?」

「……アイスでも買いに行こうか」

「よし来た!」

 最寄りのコンビニエンスストアまで歩いて五分。平時なら躊躇わない距離であるが、残念ながら今は真夏。予報では最高気温は三十五度を超えていた。バカみたいな暑さだ。

 吸い込む空気すら暑く湿っていて、「暑い」なんて間違っても口にできないことは分かった。

 うぐぐ、と唸った女に男が帽子をかぶせた。

 そもそも、室内気温は二十六度だったわけで、暑いはずはないのだがと男が気が付いた時には女が「アイス、アイス」と小躍りでアパートの階段を降りていく背中を見送る。

 狭い敷地に建てられたアパートの影に隠れるように置かれた室外機が、蝉の声に負けじと低い音を立てていた。

 日差しをよけて、頼りない影を渡るように歩く。吸血鬼にでもなった気持だった。

 一時でも日差しの中に出れば、アスファルトからの照り返しが足元から襲う。

 少し先の道が立ち上る陽炎で踊りだしていた。誰かさんみたいだと男が思う。

 五分間の簡易的な火あぶりに耐え、ようやくコンビニエンスストアにたどり着いた。

 涼しい店内に一息つく暇もなく女がするりと商品棚の間に消えていくのを見ながら、男が首の後ろににじんだ汗をぬぐう。

アイスクリームを選ぶ前にいつの間にかチョコレート菓子を握ってきた女に男が笑って

「途中で溶けちゃうんじゃない?」

と尋ねたが、彼女の方は得意げに

「アイスと買うから大丈夫!」

 と答えた。

 近い未来。暑さに耐えかねず帰り道にアイスクリームを食べだす彼女の姿を見た気がして、男の方は肩をすくめた。

 バニラのカップアイスクリームとフルーツの棒アイス、それからチョコレート菓子を買ってコンビニエンスストアを後にする。

 滞在時間は五分もなかったが、背中にかいた汗は冷たくなっていた。

 陽炎が踊り狂っているのが店の外からでも見える。

 再び日差しを避けて歩いた。

 対面から、赤い野球帽をかぶった初老男性が日光の中を堂々と歩いてやってくる。

 それに気が付いた女が少しでも日差しから逃れようとしていた顔をふいと上げた。

 自分がかぶせた帽子のせいで目元は濃い影になって見えないが、きっと目線はその初老男性を追っている。すれ違いざま、女が靴紐を結び直すふりなどしてその男の顔を覗き込む始末だった。

 行き違った後も背後を気にする彼女に男が知れたように「どうしたの?」と尋ねる。

 しかし、女は「うーん、いや?」と曖昧に首を傾げてまだ後ろを気にしていた。

 しばらく歩みが遅くなって、とうとう男の姿が陽炎ににじんだ頃、ようやく女が口を開く。

 しかし、出て来た言葉は

「子供の頃にさー、夏にアイスを売りに来るおじさんがいてさー」

 と、要領を得ないものだった。

 男が首を傾げるのも気が付かずに、女が記憶をなぞりながら間延びした声で語る。


 彼女の生家は海辺の町にある。昔からある漁師町で、古くから続くコミュニティが良くも悪くも強かった。男も女に連れられて二三度訪れたことがあったが、余所者はあまりいい顔をされない、そんな町だった。

 しかし、そんな町にも夏には外部の人間が姿を見せる。

 それの多くは海を目当てにした観光客であったが、女が子供の頃夏に楽しみにしていた来訪者がいたという。

 女に言わせれば、「夏の思い出だよね」ということらしい。

 赤い野球帽をかぶって、刺さる日差しの中港で遊ぶ子供たち相手に商売をする人らしい。

 子どもたちの間では「夏おじさん」と呼ばれていたという。

 その人は陽炎が出始める時期に港の入口辺りに気が付いたらいたのだそうだ。

 夏と大きく書かれた青色の旗をはためかせ、夏の風にあおられた潮臭いべたついた空気を切って、氷と水を詰めたクーラーボックスを自転車に括りつけてやってくる。

 祖母や両親にも聞いたが、町の人ではないとの話だった。

 氷と水の詰まったクーラーボックスを覗き込むと清涼飲料水のふたやアイスクリームの包装が見えるのに、「何を売っているのか」と尋ねると、

「夏」

 と低い声で返事が返ってきていた。

 しかし、弟と小遣いを握りしめて買いに行ったときには瓶のラムネと棒アイスを売ってくれたらしい。

夏の終わり、涼しくなってくると姿を見せなくなって、陽炎が出なくなるころ店じまいなのか姿を見なくなる。

いつかの夏にまた話しかけた時に

「夏もそろそろ終いだな」

 と言っていたのが印象的だったと女は懐かしそうに語った。


「で、おじさんが来なくなった頃に、陽も短くなって、涼しくなるんだよねぇ」

「夏の終わりだったんだ」

「そうそう」

 と男の言葉に小気味よく相槌を打って、女の口元が笑う。

 目元にかかる影の中で女は目を細めているだろうか。

 陽炎の立ち上る平たい屋根の上、赤い野球帽をかぶった男の姿を見た気がした。


*****


この作品は綿津見様主催「#web夏企画 あの夏を幻視する(http://un09.net/s2/member.html)」への投稿作品です。

素敵な企画をありがとうございました。


お題:陽炎、とじる

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