常識泥棒
『非常識な泥棒の方、お待ちしてます。』
アパートの部屋の扉。そんな張り紙が貼ってあるのを見つけて、激しい頭痛を覚えた。頭痛の原因は少なくともこの茹だるような天気ではないはずだ。
良いニュースと言えば、ここが自分の部屋でないということで、悪いニュースはここが自分の弟の住む部屋だということだった。
ドアノブに手を掛ければ案の定鍵はかかっておらず、抵抗らしい抵抗もなくキィと蝶番が鳴いてから扉が開いた。
泣きたいのは自分の方だと心の中で呟く。暑い空気を押し出すようにため息が零れた。
今日はどんな非常識が待っているのだろうか。
1Kの鼠の寝床みたいな頭の悪い小さな部屋である。部屋の主は果たして、玄関扉の前に座り込んでいた。手元には使い込まれた竹刀が握りこまれていた。
すわ泥棒か、と僅かに腰を浮かせた弟の期待に輝かせた瞳が暑さのせいで一気に煙る。
「なんだ、泥棒じゃないじゃん」
待ち人は来ず。
招かれざる客であったが。
今の弟にして見れは喉から手が出るほどかもしれない。
「何してんの?」
「日本語読める?」
馬鹿にするような笑みを浮かべて、竹刀が扉を示す。
扉に貼られたあの張り紙をもう一度振り返るようにして観察した。湿気で僅かに波打ったその紙はそれなりの時間外の空気にさらされているらしかった。
片膝をついてにやにやと笑う弟を靴を履いたまま蹴ってやると、ごろりと後ろに転がった。ゴン、と頭をぶつけた音がしたが、少しぶつけたほうが事態は好転するかもしれない。
「いったー」
と、文句を言いながら弟は起き上がりこぼしのように玄関に戻った。
「何してんの?」
「泥棒の出待ち……いや、入り待ち?」
「どっちでもいいけど」
「暑いから閉めてくんね?」
締めたいのは自分の方だが、と思いながら外気をありありと映す薄い扉を閉めた。後ろ手に鍵も閉めて置く。ついでにチェーンもかけた。「ああ!」と非難めいた声が聞こえるが、おそらく新種の蝉の求愛の声だろう。
「喉乾いた。茶」
「茶はない」
「じゃあ、ビールでいいよ」
「発泡酒ならある」
と、手を伸ばせば届く距離にある冷蔵庫から冷えた発泡酒の缶が登場した。
この弟に経済力は期待していないので、発泡酒で妥協してやることにして、とりあえず一口煽る。
「で、四千歩譲って泥棒の――」
「非常識な!」
「……。――非常識な泥棒の入り待ちだとして、お前に何のメリットが?」
「……メリット?」
竹刀にもたれかかるようにしたまま、弟が心底不思議そうに首を傾げた。
「アニキ、その靴は何で履いてるの?」
「……足を保護して、歩きやすくするため、か?」
「じゃあ、そのかばんは?」
「……荷物がたくさん入るから」
「その腕時計は?」
「……時間を確認するため」
「でも、時間を確認するためならスマホでよくない? スマホの方が便利だよ。ゲームできるし」
「そ、れは……」
「アニキ、いつもメリットとか考えて生活してんの? 疲れない? 大丈夫? 猫でも飼ったら?」
「うるさい」
妙に憐れんだような顔でわざとらしく口元を押さえる弟のスッカスカな頭を小突いて、睨みつける。
ややあって、弟が思い出したかのように口を開いた。
「まぁ、メリットにこだわるっていうなら多分社会的な意義があると思うんだ」
続けるようにと視線だけで促すと、弟が竹刀を力強くぎゅっと握った。
「泥棒が一人減る」
「で、犯罪者が一人増えるからプラマイゼロってか」
「え、誰が犯罪者になるの?」
竹刀を握りこんで座る犯罪者予備軍を指させば、非難の声が上がった。
「ええ~? なんで?」
「家宅侵入した人間を竹刀でしばき倒したら間違いなく過剰防衛だぞ」
「俺のは不意打ちだから確定先制攻撃で全体二回攻撃だし」
「間違いなく過剰防衛だな。疑わしきを罰しろはさすがに前時代的すぎる。今は令和だぞ」
「令和に新風を吹かせたいだけなんだよなぁ~」
「羽もないのに?」
「俺、心は正真正銘鳥だから」
「正真正銘は頭の方だろ」
「ああいえばこういう……」
「座右の銘か?」
と返してやればようやく小気味よい応酬が止まった。
弟は「うう……」とか「口だけはいっちょまえだから」とか遠吠えているので、ぐうの音が出ないとはいかないらしかった。
そもそも、泥棒の来訪を渇望するとは何事かと思う。そう言えば、先々月に尋ねた時は幽霊がやってくるのを待っていたので、定期的な発作だと言い張られてしまったらもう連れて行くところは心のお医者さんしかない。
況や竹刀を相棒のように携えているのだからたちが悪かった。
タイミングが悪ければ先ほどの入室のタイミングで自分がしばかれていたかもしれないのだ。もちろん心のハンムラビ法典に則りしばき返していたろうが。
「そもそも泥棒は玄関から入って来るのか?」
「だから、あの張り紙なんだって!」
玄関扉に貼られたでかでかとした「非常識な泥棒の方」というフレーズにようやくぴんと来て、深いため息が出る。
馬鹿だ。
バカだった。
莫迦なのだ。
これが夏の暑さのせいであるならまだ救いはあったが、この馬鹿は年中無休なので溜息も出ない。出るのは手足だった。
あるいは、春は花粉でばかになり、夏は暑さで馬鹿になり、秋は読書で莫迦になって、冬は風邪でバカになるのかもしれなかったが。
弟の説明で理由を把握することはできたが、理解することは無理そうだなと諦める。
おそらく同じレベルにまで落ちないことには理解できないのだろう。
あるいは、同じレベルになってもわからないかもしれないかった。世の中にはわかり合えない人種がいる。タケノコか、キノコか、というのと同じだ。
「窓からの侵入は泥棒の中では常識じゃん?」
「なんでお前が泥棒の常識をしってるんだよ」
「ルパン三世で観た」
「そりゃ大泥棒だな」
呆れて物も言えないなどと言うが、ありがたいことに呆れを通り越して諦念だったので何とでも言えた。口から出るのは罵倒だったが。
「バカだバカだと思っていたが、ここまで馬鹿だとは思っていなかった」
「バカって言った方がバカなんだけど」
「非常識を求めるお前に常識を説かれてもな」
「た、確かに……」
言い募ってみれば意外と素直に頷くので拍子抜けしてしまう。
もっと抵抗するのかと思ったが、竹刀を握ったまま座り込んで間抜けな顔をしているだけだった。
「ところで、今は俺といたほうが泥棒に出会えるぞ」
と告げて財布の中身をべらりと見せてやる。
突然の行動に怪訝な顔をしながら、財布の中を覗き込んだ目が大きく見開かれる。
「え~っ!? その金どうしたの?」
「臨時収入」
答えを聞いて弟は「ま、まさか……」と呟いて見る見るうちに青くなり出す。
どんな虚構に行きついたのか、大げさな手ぶりをつけながら激しく首を横に振る。
「さ、さすがに汚れた金は……」
「ばっか! 先月繁盛期だったからインセンティブだよ」
ちょうどいい高さにあった頭を軽くはたいて今日の用件をようやく告げる。
「焼肉行くぞ」
「わーい! 行く行く! おにーサマだーい好き」
と、竹刀をほっぽり出して弟がいそいそと部屋から出てくる。そのまま流れるような動作で部屋の鍵をかけたので、どこか呆れたような気持ちになった。
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