芋と影

 ドラッグストアで真剣に化粧品を眺めていた私の肩に、大きな手がぽんと乗っかった。

 知り合いかと思って顔を上げてみれば、後ろに立っていたのは見覚えのない中年の男性だった。

 小太りのちょっと戦線が後退した、よれたワイシャツに葬式のような黒いネクタイをつけた人だった。

 そんな彼がニコニコと笑いながら私に両手を差し出す。

 手には白い卵のような物が握られていた。

「あのぉ……」

 恐ろしいと思いながらもばっちり対峙してしまっている状況で無視することの方が怖い気がして、私は恐る恐る声をかけた。これで殴りかかられたりでもしたら、麦茶のペットボトルでフルスイング反撃してやろうとバスケットを強く握りしめた。

 身構える私とは対照的に、目の前のおじさんは相変わらずニコニコとしながら白い卵のような物を差し出す。

「これ、君の」

「は?」

「だから、これは君の」

 と、ぐいぐい近づいてくる卵が、その内よれよれのパーカーのポケットに押し込められた。

 事態が飲み込めないうちに男の方が満足げに頷いているのでなおのこと焦る。

 勝手に物事を進めないでほしかった。

 ともかくは、ポケットにねじ込まれた卵を突っ返さなければと、ポケットの中を探ってみると、不思議なことに卵は非常に手になじんだ。

 常日頃手放せないスマートフォンよりも手馴染みがよく、もしかすると昔からずっと一緒にいたのではとまで思ってしまってその思考を何とか追い払う。

 この卵は知らないおじさんにポケットにねじ込まれた得体のしれない卵だ。卵だったらまだいいが、下手をすると幸せになれる何某かもしれない。後で高額を請求されても困る。

「いりません、こんなの」

 と声を張り上げて自己主張する。すると、男が何でも分かっているとでも言いたそうにうなずいた。

「大丈夫だよ。マニュアルはちゃんとある。幼稚園生でもできるから」

「私保育園卒なんで」

「若いうちは何でも挑戦してみるもんだよ」

「大丈夫です。私こう見えて四億光年生きてます」

「じゃあ、卵を温めるのは初めて? 人生の刺激になるよ」

 これはだめだ。ああ言えばこう言う。何を言っても丸め込まれる気配がして、とうとう口をつぐんでしまった。すると、男の方がまたわかってるとでも言いたげに頷いた。

 私が卵を温めるのは彼の中では覆せない事実らしい。 

「これ、どうすればいいんですか?」

「お腹で温めるんだよ。僕もそうやって孵化させた」

「本当に孵るんですか」

「ちゃんと温めたらね」

「もう冷たいですよ」

 私が卵を手遊びしているのをちらりと見やって男は自分のポケットをまさぐり始めた。

「大丈夫だって」

 そんなことを嘯きながら手渡されたのはホッカイロだった。どうやら温め足りなければそれで温めろということらしい。

 戸惑っているのが伝わってしまったのか、男が心配ないと笑った。

「足りなかったらここで買っていけばいいよ」

 指さす方向にはホッカイロが箱に入れられて販売されている。

 そう言うことではないのだが、と思いもしたが、気が付けば男の背はもうはるかかなたにあった。走って追わなければ見失ってしまうが、この卵に衝撃を与えるのは良くない気もする。

 ともかく温めればいいのであれば、と私は卵をパーカーのポケットに戻してお腹に密着させるようにした。

 駄目押しとばかりに上からホッカイロも貼っておく。これで蒸し卵になったら笑い事だ。

 私は戦いの場を近くのカフェに移して、ホットコーヒーを二杯ほど嗜んだ。カフェは全面禁煙だ。世知辛い世の中である。

 その時、お腹に当たっている卵が小さく震えた気がした。

 初めての感触にこわごわとポケットから卵を取り出すと、湯気が出るのではと思うほどにほかほかになった卵が薄く紫色に色づいていた。

 今にも生まれそうだなと思いながら蛍光灯の光にかざしてみると、中に生命の片鱗を見る。

 卵の中に小さくまとまって、黄色いトカゲが眠っていた。

 私はもう一杯ホットコーヒーを注文することにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る