春の種

 とある春。私の気に入りは消える。

 マグカップ。少し大きめのマグカップだ。なくても困らないが、ないと不便で。特に私はコーヒーを好んでいたから、ちょうどいい大きさのマグカップともなると、中々見当たらないものだ。

 ちょうどいい大きさの物を求めて、いくつものマグカップを買い集め、最終的には食器棚の一部を占領するほどの量になってしまった。その中の一つは、とある日の友人が使っていたが、それでもまだ残りは十個を少し超える。どれもこれも自分の出番を待っている。誰も呼び出し番号は持っていなかった。

 ある日の夕食後のことだった。その日は六連勤最終日で、ヘロヘロになりながらなんとか家にたどり着き、玄関から先は彼に文字通り引き摺られて部屋までたどり着き、面倒見のいい彼に部屋着に着替えさせられ、少し眠っている間においしいご飯が出て来た日だった。食事と少しの睡眠のおかげで動けるほどにまで回復した私は、さすがに洗い物を買って出たのだ。

 帰宅早々部屋まで運んでもらい、着替えから食事の準備、果ては片付けまでさせるのは流石に怠惰な私でも気が引けた。何なら風呂の準備までしてくれそうな勢いだったものだから、気持ちは赤ちゃんである。アラサーが頭をもたげ始めた年齢である。ベビーシッターのお任せフルコースは避けたかった。

 ということで、眠い目をこすり何とか洗い物を初めて、小物がすべて洗い終わるかという頃。私の手から、件のマグカップがつるりと滑り落ちてシンクの上に落ちたのだ。

 がちゃん、と大きな音を立てて、マグカップは分裂した。

 取っ手の取れてしまったそれを握りしめて、落ち込む私に向かって、前向きな彼はあっけらかんと

「買い替え時だったんだよ。」

 なんて笑ってくれたが、私はそれで納得できなかった。

 長年連れ添った仲なのだ。

 捨てるに捨てられず、数日間寝室の窓際に飾っていたのだが、ある天気のいい朝置物と化したマグカップは正体を失った。とうとう見かねた彼が捨ててしまったらしい。

 その頃には私の気持ちもだいぶ整理がついていたので、ああ、本当になくなってしまったのだなという感想しか浮かばず、今まで棚の奥底に陳列されていたマグカップに口をつけるほどになっていた。

 残念な気持ちはもちろんあったが、もう戻らないものをどうこうしたって仕方がないのだ。ましてや形あるものだ。いつかは消えてなくなってしまうのだから。

 そんな諸行無常を実感しながら窓を開ければ、春特有の土臭さが部屋の中に押し寄せてきた。少し湿っぽい人いきれの匂いを押しのけて、部屋中に手足を伸ばす春の匂い。

 雨の上がった後だからか、いつもよりずっと濃い。

 彼の選んだ萌黄色のカーテンと遊ぶそれの正体を見ながら、ふとベランダの方へ目を向ければ、彼が背を丸くしてしゃがんでいる。

 白いシャツが包む背中に、朝の黄色っぽい光が覆いかぶさっていた。


「おはよう」

「あー、おはよう」

「何してんの?」

「家庭菜園」

「えー、またマメなことを……」

「夏にはおいしいプチトマトができてる」

「随分かわいい野菜育てるんだね。君なら、ダイコンやらキャベツやら育てそうだけど」

「鉢植えが小さいんだから仕方がないでしょ」

「そんな小さいプランター買ってきたの?」

「まぁまぁ。こっち来てみてみなよ。可愛いもんだよ」


 と、彼が手招きするので、私も彼の横に座る。

 園芸用の土の袋を見て、ああ、春の匂いの原因はこれかと思った。案外近いところに転がっている物である。

 見慣れた器にコーヒーよろしく土が並々と盛られていた。ティースプーンの代わりにプチトマトの苗が太陽の方へと腕を伸ばしている。


「どう? いいリサイクル法でしょ? これなら君も少しは世話する気にもなるかもしれないし」

「あー、コーヒー飲みたい」

「準備するよ。座ってて」


 彼が笑って立ち上がった。

 夏にはきっと食べごろだ。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る