two,three NO four
下車を促すアナウンスが流れる。じりじりとノイズの混じったそれに頷いて一人の男が立ち上がった。
学生の頃から履いているスニーカーで、コンクリートのホームへと降り立つ。ボストンバックの紐が肩に強く食い込む。そこまで重さのあるものは入れた覚えはないのだが、と男が小さく首を傾げた。
水が動く音がした。頭の極近くで、まるで小さな筒の中に入れられているような音だった。
視線をぐるりと動かしながら考える。
水音が耳の管の中でしていた。
電車の発車を継げるアナウンスが流れて、押し出されるようにして電車が動き出す。
耳の内側で殷々と鈍く響いていく音が、男の懐かしい記憶を引っ張り出す。
ああ、水から上がった後みたいなんだ、と男が小さく一人ごちた。
学生の頃に、プールで泳いだ後耳に水が入っていたことに気が付いたような、そんな感覚だった。
男から水とも汗ともわからない水滴がしたたり落ちて、ホームのコンクリートを濡らす。
電車を見送るように背筋を伸ばすと、背中に張り付いたワイシャツが、ぱりぱりと肌を引っ張りながら剥がれていった。皮をはがしていくようなその感覚に、男が小さく身震いをする。
ホームの上をすべるように風が吹いて、男の背中とシャツの間に潜り込んだ。
海の風だ。
しっとりとした肌に刺さる湿度が、男の肌をなめてから溶け消えていった。
その風だけで、海の近さを知る。冷えた体が温かさを取り戻したような気がしていた。
男が無人の改札を通り抜けて、木造の待合室のような場所に出る。木造の建屋には白いペンキが塗られていた。海の風に浸食された釘が赤さび色に涙を流している。
ペンキのぽろぽろ禿げたベンチにボストンバックをを下ろすと、男がふう、とため息をついた。
異様に重いそれから解放されて、腕に血液がぐんと回る。痺れるような解放感に、男が再び身震いをした。凝り固まった肩をほぐす。
寒いわけではない。むしろ、周りは暖かいほどで。夏にはまだ程遠いが、今の自分にもっとふさわしい服装がある気がしてならなかったのだ。ボストンバックの中に、ふさわしい服装があるともわからなかったが、それでもなにか、着替えたい気分になったのだ。
旅に出た時くらい、自分の好きにふるまったって誰も文句はないわないだろう。好きな服を着て、好きなものを食べ、好きな歌を歌いたい。だから、今日は履き古したスニーカーに足を通しているのだ。
男が一人で納得したようにうなずいていた。
とりあえず、自分の持っている服を見てみようと、男がボストンバックの口を開いていく。ジワリとしみだした水が男の手やズボンまで濡らした。
濡れた手を見て、男が手を振って水を切る。乾きはしないが、滴るほどではないので、まあいいだろうと自分を納得させた。
なぜだか、カバンの中身は海水浴でもしたのかと思うほどにびしょびしょになっていて、男が首を傾げる。自分が歩いてきた道を振り返ってみれば、ホームから自分の足元まで水滴の道ができあがっていた。
よく見てみれば、ベンチの下には水たまりになっている。
男が自分の体をぐるりと見回してから、「濡れてないのになぁ……」と呟きながら首を傾げた。駅の構内に駆け抜けていく風が、強い潮の匂いを運んできていた。
海の詰まったボストンバックを閉じて、駅の構内を見回す。正方形にくりぬかれた建物内には人影は見当たらない。
改札に駅員もいないので、男が逡巡してからポケットから切符を取り出して、改札の窓口に一枚置いた。ポケットの中にはもう切符はない。
男がボストンバックを肩にかけ直した。肩ひもが食い込み、シャツにしわを作る。
「ああ、重いな」
と、吐息交じりに呟いた。
歩くたびに、ボストンバックから海が零れ落ちていく。男がもう一度息を吐くと、駅の外においてあるベンチの上にそれを置いた。ペンキで書かれた広告がはがれて、木目がぎょろりと覗いている。
ボストンバックの海を置いて、男がもう一度駅の方を振り返る。もう切符はない。帰る列車の音もなかった。風の音に交じって、高い音が聞こえてくる。
子供の泣き声に聞こえて、男がどきりと心臓を鳴らした。
駅の対面にあるシャッターのしまったタバコ屋の店先で公衆電話が鳴いている。ピンク色の丸いフォルムに懐かしさを感じる。ここ最近は見なくなったと思っていたが、まだ生きていたらしかった。懐かしい再会である。何かに似ているなと考えてみれば、ピンク色の角の生えているウミウシという水生生物に似ているのだと気が付いた。
そんな可愛らしい体が出している音が男の恐怖をあおるとは思いもしなかっただろう。
電話の音が鼓膜を振るわせると、腹の底から恐ろしいものがべたりと這い出して来る。追い詰められたように心臓がどきりと鳴っていた。
受話器から布一枚かませたような、人の話し声が聞こえてきているような気がする。その怒号が、男を苦しめていた。
ジリリ、と音が鳴るたびに、心臓がぎゅっと掴まれた。しばらくそれを見つめていたが、どうやら電話を取ると姉の声だった。
「あの子がいないのよ!」
そう叫ぶ割れたような声が、数年前に亡くなった母親の声によく似ていて、あの世と繋がったような錯覚さえ覚えてしまって、男の足元がぐらりと揺れた。
そんなわけはない、と自分に言い聞かせて深呼吸をする。
何とか、話の内容を自分の中に落とし込んで、乾いた口で返事をした。
声は震えていた。
「あの子って?」
「あの子よ!」
切羽詰まった声が鼓膜を振るわせて、そこまで来てからようやく男は事の次第を理解した。冷たい汗が、すっと背中を流れ落ちていく。受話器から聞こえるざざという音は、ノイズか、波の引く音か。姉が取り乱すほど心配するような人など、姪しかいない。男が頭の回転の遅い自分への憎しみを募らせていた。
海の風がべったりと吹いた。タバコ屋の屋根に括りつけられた錆びの浮いた風見鶏が嗤うようにカラカラと回る。
風にあおられてタバコ屋のシャッターがきぃきぃとなっていた。子供の声のようにも聞こえて、男が顔をしかめる。塩害で白っぽくなったガラスに男の顔が映っていた。死人のように白い。あるいは、笑い方を忘れたせいかもしれない。
姪はよく笑う子供だった。忙しい姉に変わって預かることが時折あって、そのたびに海に連れて行けとせがまれた。海に連れて行けば、はしゃぎまわって、砂だらけになって笑うのだ。そうして、疲れ果てて帰りの車では死んだのではないかと思うほどに眠る。あまりにも子供らしい子供だったから、これが姉から生まれてきたのかと思うと感慨深かったのを男は覚えていた。
喘ぐように唾を飲み込み、何とか自分の気持ちを口にした。
「海が好きだから、見に来てしまったのかもしれない。僕が探しておくよ」
「ああ、そんな」
その間は、きっと息を呑んだからだろう。受話器越しに聞こえる何とか吐き出された声には、憐憫や自嘲が含まれているようにも思えた。波のように次々やってくるその感情を男の姉はどうやり過ごしたのだろうか。
焦燥の隠せていないその息遣いに、男の方が逆に冷静になる。彼女の反応は当たり前の物だ。人間として、人の親として、家族として、いなくなった者を心配してやることは何も可笑しなことではない。
「心配しないで」
と男は返事をしておいたが、すでに電話は切れていた。『ああ、そんな』と姉が息を呑んだ音が耳にこびりついている。
男はいなくなったという姪ではなく、姉を心配していた。
受話器を元の位置に戻して、男が駅から続く通りに目を向けた。
せめて、最期に自分の言ったことくらいは守らなければ筋が通らない。
坂道をあがれば海の全貌が見えてくる。人のようなものはあまりいなかった。海の両端から夜の色で、だんだんと朝の透明な色に澄んでいく。坂道からまっすぐと見える海は白く濁っているようにも見えた。波間に時折人の顔のようなものが見えた気もしたが、きっと男の気のせいだろう。左右を伺ってみるが、人影のようなものはない。坂道のてっぺんでは、陽炎がゆらゆらと手招きしていた。
坂道を降りて行って、シャッター街に差し掛かる。鈍色のシャッターの凹凸の上に赤い錆がちらちらと舌を垂らしている。
坂道を登っていく塩臭い風が、男の濡れた髪の毛を揺らした。
からから、と何かが揺れる音が聞こえて、男がそちらにふと視線をやる。
くたびれた鳥居が一人ぽつんと立っていた。境内に人影はなく、あたりを囲う木々が刺さるような陽の光を遮っていた。そこだけが黒くぽっかりと開いている。風が凪いだ瞬間に、殷々と響く静寂。男が目を凝らした瞬間にまた風が吹いて、僅かに扉の開いていた社殿の中で風車がカタカタなっていた。
吸い込まれそうな気分になって、男がようやく目を反らす。目の端で、狐が躍ったように見えた。その場で初めて見る生き物の形だった。
しばらく歩くと、波の際が見え始め、潮の香りがさらに強く香った。生臭いような、乾いたようなにおいだ。風はべったりと男の肌を撫でていく。
砂浜の方には海の家の屋根が見えている。相変わらず人影はなかった。
坂道の途中から、男が転がり落ちるように走り出した。その視線は一転に注がれている。
薄汚れたスニーカーが地面をしっかりと蹴った。走るのは久方ぶりだったが、それでも走り方は体がしっかりと覚えていた。不格好かもしれなかったが、歩くよりもずっと早く、男を目的の場所に連れて行ってくれた。
心臓が躍り出しそうなくらいにはねる。これもきっと人生最後のことに違いない。今後彼には急ぐような場所などなかったからだ。
坂道を一気に駆け下りて、白っぽく削れたアスファルトの道路を横断する。車の影はなく、陽の光のせいで、反射が明るいほどだった。砂浜に降りるための階段が見える。
砂浜の一歩手前、風化していくコンクリートの階段の上に子供の姿があった。
「ちかこ!」
男の声が確かに姪の名を呼ぶ。
大きな声に驚いたのか、肩を震わせて、振り返ったその姿ははどこか所在なさげであった。
見知った男の顔を見て安心したようなその顔に、男は心底ほっとした。雀のように膨らんだその小さな頬も、大きな黒い目も今は幼い姉と重なる。
まだ三歳になったばかりの子供が、一人ぼっちで知らない場所にいたら不安になるのも通りである。男はちかこの母である姉の代わりにはならないかもしれないが、それでも、心配してやることくらいできた。
男も小さいころに海で迷子になったことがあった。海が好きだから、ぼーっと眺めているだけで楽しかったのだ。波の行き来を見て、砂が濡れるのを見て、塩で痛むあの風を浴びるのが好きだった。それだけで楽しかったはずだったのに。なぜか我慢できなくなって、男は今は濡れている。
逃げないように、と思いながらすがるようにして男がその小さな手を掴んだ。小さな手は案外しっかりと男の手を握り返してくる。子供の高い体温が、冷え切った男に対しては熱いほどに感じられた。
「ちかこ、ねぇさんが心配してたぞ」
「ママはおじさんのことも心配してたよ」
「どうして?」
記憶にあるよりもずっとしっかりとしたしゃべり方で、体の使い方もまるでいつもの彼女とは違った。三歳児がこんなにしゃべれるはずない、と分かっていながらも話を止められなかった。。
「家族がいなくなるのは嫌だって」
「じゃあ、ちかこが姉さんと一緒にいてあげて」
ちかこの黒目がちな目が男のことを見上げていた。本来ならば言葉もままならないほどに小さいのに、姉に似ているのが男は恐ろしかった。その顔を見ないようにと、 卑怯な考えをもって、彼女のことを抱き上げる。
「ともかく、こんな波の際まで来てはいけないよ。さらわれてしまうだろう。」
波の際まではまだ距離があったはずなのに、まるでそれが正しいことのように男がうそぶいて、所々欠けているコンクリートの階段を歩いて上がった。ちかこを歩道の上に降ろして、それからようやく彼女の異変に気が付くことができた。
「ちかこ、洋服どうしたんだ? 転んだのか?」
右半分、服の袖や裾がひどく汚れていたり破けていたり。まるで、何か大きな力に引っ張られたかのような。波にでも引っ張られたのかと心配で、腕にそっと触れたが、濡れたような感触はなかった。
ちかこが男を見上げて、もじもじとしてから口を開く。
「ぶつかられたの」
「そうか」
「でも、おじちゃんがいるから大丈夫だよ。ちかこは帰れるよ」
けがはないのかと、もう一度全身を見れば、右の靴の留め金が壊れていた。姉が買い与えたものなのか、エナメルの赤い靴。つるつるとしていて、小さな足を一生懸命に守っているようだった。
「靴が壊れちゃったの。歩けないの。負ぶっていって」
「おじさんの靴ひもをやろう。大事にするんだよ」
「おじさん、靴がなくなったら帰れないよ」
「海に入るのに、靴は必要ないだろう」
そう言って男が自分の靴から、真っ白な靴紐を抜き取った。ちかこの靴の紐の代わりに結んでやる。
「おじさん。ちょうちょにして」
「いいよ」
今の状況が分かっていないらしい。子供だから、きっと仕方がないことだ。
いつか大人になった時、この場面を覚えていたのなら、と不思議な望みが出てきてしまうが、もうその頃にはきっと男には関係のない事だった。それは、ちかこ自身が決めることであり、ちかこが覚えていない限り、何の影響もおよぼさないから。
靴が脱げてしまわないようにと、しっかりと足首に巻くようにしてちょうちょ結びにしてやる。足首をぐるりと巻いたので、靴紐は余らなかった。しばらく歩いてもこれなら取れる心配はないだろう。
きゅっと結ばれたその白い蝶々にちかこが嬉しそうに笑う。決して特別なことではない。時期にこの子は靴紐も結べるようになる。
ざらりざらりと海の音がしていた。ちかこの黒い目が見ている。目元が姉にそっくりなことに男がどこかほっとしていた。決して男には似ていない。それでよかったのだ。
男が海の方へ歩き出したのを、ちかこは止めなかった。
男が海の中に足を浸す。
不思議と冷たさは感じず、温く、緩いものが指の間を満たしていく。
「帰るとき、信号はちゃんと見てわたりなさい。青信号になってもね」
「うん、おじさん」
男が再びシャツを濡らした。
息が苦しかった。
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