都市を嗅ぐ犬
デッドコピーたこはち
第1話 脳を奪われた男
「自分の脳を取り戻して欲しいとは……どういうことです?」
「盗られたんだよ。
映話の相手が言った。
モニターに映る男の頭部を見ると、主脳座がチューリップのように開いたままになっており、男の言う通り主脳ユニットが失われていることが分かった。この男はヘンリー・スティーヴンソンと言い、ハリス=スティーヴンソン・ソフトウェアの社長だという。
「1時間前の事だ。信用していた
スティーヴンソンは顔をうつむかせた。
「警察にも連絡したが、話を信じて貰えなくてね。そこで
「誘拐犯の追跡という事であれば問題ありません。しかし、脳を取り戻すとなると私の専門からは外れます」
「それでも君に頼みたいのだよ。他のものでは誘拐犯に辿り着くことさえできないだろう。しかも、君はかつて『
「高く評価いただけるのはありがたいのですが、あなたは――」
実のところ問題はもう一つある。金だ。この依頼において、戦闘というリスクを犯すだけの報酬が約束されるのか、そしてこの副脳からの依頼を達成したとして、約束された報酬が正しく支払われるかが問題だった。
仮に誘拐犯を見つけ出し、本人の脳を助け出したとしよう。そこで本人が「副脳が勝手に依頼しただけだ。私は探してくれとは言っていない」などと主張すれば、報酬の支払いについて揉める事は確実だろう。副脳と交わした契約書を元に法廷で争うにしても、それだけで手間だ。それに人格の
「料金のことかね?それなら……」
「前金でこれだけ払おう。成功報酬として同額をさらに支払う。……正直に言って、もう君しか頼れる人が居ないんだ。今ここであの技師を逃したら、私は何をされるか分からない。頼む。この依頼を受けてくれないか。」
提示された報酬は破格で、万年金欠の私立探偵には目眩いがするほどだった。これなら支払いが遅延し続けている
しばし
「……分かりました。お受けします。まず、契約書の内容をよく確認して署名を。あと現場の住所と今から言う資料をいただけますか?」
「ありがとう。」
スティーヴンソンは頭を下げた。
「よし」
「坊主、仕事かい?」
「ああ、久し振りのデカい仕事だ。」
「あら珍しい、悪い仕事じゃないだろうね」
マーガレット老はイヒヒと笑った。
「お前さんはな、間違った事ができない性分なんだよ。悪ぶっても上手く行かない……変えられない
マーガレット老は未だに古い神を信仰しており、度々こうして
「今日のは人助けだよ、婆さん。それに金を稼がなきゃ生活できないだろ。」
犬面の眼前に屋上駐車場の
中空に
その男の名はロバート・ハリス。資料によるとヘンリー・スティーヴンソンと共にハリス=スティーヴンソン・ソフトウェアを立ち上げた男。
ハリスは会社の規模が大きくなると、スティーヴンソンに会社の権利を全て譲り渡して退職。その退職金で新しい会社――ハリス工務店――を立ち上げ、自ら
ハリスは車のトランクからメンテナンス機器が満載された小型の
ハリスが玄関から出てきた時、
ハリスが
また、ハリスは主脳を収める箱――恐らく生命維持装置が組み込まれたパッケージ――を前もって用意していた。衝動的ではない計画的犯行だ。
だが、動機が分からない。ハリスは表向き辞職した事になっているが、実際には会社を追い出されていて、その恨みかとも考えたが、スティーブンソンがその後も拡張体の
恨みではないとすると金か……ハリス工務店が資金周りに困っているそぶりもなく、ハリス自身も金の為に誘拐をやらかすタイプとは思えない。
後はハリスが何者かに脅され、スティーブンソン誘拐に加担させられている可能性ぐらいか。となると、黒幕との対決が予想される訳だが……厄介な事になりそうだ。
背後に大企業やヤクザが居ることも考えられる、仮に実働部隊を何とかした所で、相手は目標を達成するまで諦めないだろう。その時は――
心構えをするのは良いが必要以上に
前回の
追跡については、監視カメラの映像とこの「鼻」があれば問題ない。誘拐犯を追い詰めた後はある程度出たとこ勝負になってしまうが......そもそも荒事は探偵本来の仕事から外れるのだから致し方ないとはいえ、こういった仕事も受けざるを得ない現状、根本的な対策が必要だろう。この仕事が終わり次第手を打つとしよう。
「
玄関の扉が電子音と共に開いた。
「待っていたよ。入ってくれ。」
主脳座がチューリップのように開いたままになっているスティーブンソンが犬面を迎えた。
「……その状態でも歩けたのですね」
犬面は室内に入りながらいった。
「確かに奇妙な話ではあるが、主脳が無くても活動に支障はないようだ」
スティーブンソンは自嘲的に笑った。
スティーブンソンの居住区の内部はシンプルなモノトーンインテリアで統一されていた。
「私が
スティーブンソンは犬面を奥のメンテナンス部屋へと案内した。
メンテナンス部屋では、中央に置かれた
「この部屋に監視カメラはないのですか?」
「ない。私の
「部屋の空調の設定は変えていませんか?」
「ああ」
「なるほど、では早速取り掛かりましょう。」
生体はもちろん、機械であっても、常に少量の揮発物質を大気に放出し続けている。工場から出荷されたばかりの量産品でも無い限り、それぞれのモノ固有の臭気パターンという物があるのだ。
この犬面の「鼻」はその固有臭気パターンを分析、特定する
また、新鮮で強い臭気ならば、
「技師と盗まれた主脳の匂いを登録しました。これでまず逃すことはないでしょう。追跡を開始します」
「助かる。吉報を待っているよ」
「それでは失礼」
赤い靄は監視カメラの映像で、屋上駐車場の
「
かなり拡散してしまっているが、それでも緑色の飛行機雲のように中空に続く臭気を 犬面が追って行くと、やがて寂びれた工業団地の一角にある小工場の敷地に
誘拐犯の捕捉を確信した
「今日も頼むぞ」
中はまさしく工作場と言った趣きで、旋盤や溶接機などの工作機械があり、机や棚にはよくわからないガラクタが積まれていた。
「クソッ、やはりオフィスまで行かないとダメか」
防犯カメラに映っていたままの作業着姿で、ハリスは
「床に伏せて手を頭の後ろに回せ!」
「まずい!」
ハリスが箱を掴んで逃げようとした。
「床に伏せろ!」
「分かった!撃たないでくれ……」
ハリスは箱を持ったまま両手を挙げた。
「そのままゆっくり箱を床に置いて、伏せろ。手を頭の後ろに回せ。」
「分かった。言う通りにする。」
ハリスは箱を床に下ろして腹這いになり、頭の後ろに手を回した。
「拘束させてもらう」
「アンタ、警察か?」
「私立探偵だ。見て分からんか?」
「ロバート・ハリスだな」
「そうだ」
ハリスは答えた。
「ヤツに雇われて来たのか?副脳の……」
「雇い主については教えられない」
「なぜヘンリー・スティーヴンソンを誘拐した?誰かの依頼なのか?」
「なあアンタ、なにか勘違いしてるぞ。俺の話を……いや、俺の友達の話を聞いてくれないか」
「友達......?」
「ヘンリー・スティーヴンソン。オリジナルの」
ハリスは床に置かれた箱を顎で指した。
「ロバートは俺をクソッタレの副脳から助けてくれたのさ」
『箱』が声を発した。
「どういうことだ......」
「副脳に入れてた仕事の
「待て、要点を言え」
「つまり副脳のヤツは、ヘンリー・スティーヴンソンの予期せぬ
「なるほど。クソッ」
「妙な依頼を受けるんじゃなかった」
「物理オフィスまで行って、脳波パターンを照会すれば副脳の持ってる権限を取り戻せるはずなんだ。」
「なぁアンタ手伝ってくれないか。金ならヘンリーが出す」
地面にうつ伏せになったままのハリスがいった
「……そんな義理は無い。このまま主脳を副脳に差し出せば苦労せずに大金が手に入る」
「副脳の所に戻るのは絶対に嫌だ!そうするぐらいなら殺してくれ!自分が自分じゃ無いものに操られるのを見ているだけなんてもう耐えられない」
『箱』が大音量で叫んだ。
「副脳は元々アンタに嘘をついていた。金をそのまま渡すとは限らんぞ」
「契約書がある」
「副脳が真実を知ったヤツを生かしておくとは思えない」
契約書には虚偽の報告があった場合、一方的に契約を破棄できる旨の免責事項が書いてある。副脳との契約を破棄して、主脳のスティーブンソンと再契約しても法的には問題はない。しかし、そうすれば副脳とやり合わなければならないだろう。
企業のトップと敵対するのは、かなりのリスクだ。
ハリスは首を回して、犬面と目を合わせた。
「アンタは曲がった事が嫌いなタイプだろ。やり口を見たら分かる。頼むよ」
ハリスは犬面の目を見ていった。
「嘘をついていたな」
「そうだ」
偽スティーヴンソンは答えた。
「あっさり認めるのか。契約は破棄だぞ」
「これから君たちを殺すからな」
衝撃と共に
「うわっ!」助手席のハリスが叫んだ。
「落ち着け。この
「君は何も考えず依頼を達成するだけで良かったのだ。好奇心は犬をも殺す。残念だよ、さようなら
「あっちのスティーヴンソンが
「
「妙な座席の配置だと思ったら、まさか手動運転するのか?!」
ハリスが信じられないという顔で叫んだ。
「しっかり掴まってろ!舌をかむなよ」
「おおっ!」
ハリスは膝に抱えていた箱を強く抱きしめた。
「ケツに付かれたぞ!」
ハリスが叫んだ。
「何する気だ?」ハリスがいった。
「目に物見せてやるんだ」
浮遊自動車の下部から
「良いぞ。もっとミサイルを撃て!」
「いや、もう撃たない」
「弾切れか?」
「違う」
「生きるか死ぬかだぞ。ケチってる場合か!」
「黙ってろ!ミサイル1発が俺の2ヶ月分の生活費に匹敵するんだぞ!」
命懸けなのはカーチェイスや銃撃戦をしている時だけではない。生きている限り常に命懸けなのだ。万年金欠の私立探偵は特にそうだった。
ハリスが振り返ると黒煙を上げて高度を下げていく
「凄え!当てやがった。全滅させたぞ」
「きっと追加で暗殺者を雇ってくる」
「急ぐぞ」
「ダメだ……社の防空システムがフル稼動してる」
ハリスが頭を抱えながらいった。
ハリス=スティーヴンソン・ソフトウェアの物理オフィスである全面鏡面仕上げ45階建て高層ビルの周囲には無人の
「無理に突入しようとすれば、木っ端微塵にされちまう」
「先を越されたか。他に方法は無いのか?」
「副脳を破壊するしかない」
ハリスは顔をしかめながらいった。
「何故最初からその方法を取らなかった?機会はあった筈だ」
「副脳の人格もスティーブンソンの記憶を持ってる。
「ロバート……」
主脳の方のスティーブンソンがいった。
「スティーブンソンの住居に向かうぞ。
「こっちはこっちでか……」
建造物からより高い高度で飛行している
「逃げる気がないのはむしろありがたいな」
「雑魚は無視する。突っ込むぞ!」
「しっかり捕まってろ!」
ビル風に耐えるための強化ガラスをぶち破り、天井と床に車体を激しく擦り付けながら、
広いリビングには、クロームの骨格とCNT筋繊維が剥き出しの強化義手や強化義足を付けた筋肉隆々の
その内、額に
「やつらだ!殺せ!」
一瞬早く
「死ねえ!」
ツーブロックが苦痛に呻きながら後ろへと倒れこむのを見たスキンヘッドの
「許さねえ!」
「ぉぉおおおおおお!」
スキンヘッドは叫びながら、
機関部の破壊に伴う小爆発を手元で食らったスキンヘッドは、強化義手の手首から先が吹き飛び、ズタズタになった両手を見つめながら膝をつき崩れ落ちた。
「畜生!」
「アダマス合金製硬芯徹甲弾だ……鉄板程度じゃ防げないぜ」
スキンヘッドはスキンヘッドに近づきながらいった。
「俺たちは『
スキンヘッドは血混じりのつばを飛ばしながら叫んだ。
「そして、この距離なら10mmのチタン合金製人工頭蓋でも問題なく抜けちまう」
スキンヘッドの額にある渦巻きを模した蓄光
「副脳……じゃない。スティーブンソンはどこだ?」
「お前らにはたどり着けねえ!メンテナンス室まではあと20人は――」
「分かった。もういい」
「銃は撃てるか」
「ああ、一応護身の心得はある。元副社長だからな」
ハリスが
「こんだけ派手にやったのに奴らの援軍が来ないのはなぜだ?」
「守りを固めてるんだろう。副脳の奴、余裕ぶっているが臆病だ。俺には分かる」
車内に備えられていたパラコードで、背負われるようにハリスの体に括り付けられている『箱』入りスティーブンソンがいった。
「メンテナンス室は隣の客間を挟んだ先隣だ」
ハリスがリビングの出入り口から見て右側の壁を指さしながらいった。
「廊下に出れば奴らが待ち構えてるだろうな」
「いや……良い考えがある。」
「うおおおっ」
「逃げろ!」
「「バラバラにしてやる!」」
メンテナンス室の出入り口で待機していた瓜二つの超振動マチェーテ持ち
「長くは持たん。始末をつけよう」
最後に残った半裸の
「俺は『
グレゴリーはその3m近い身の丈でモスト・マスキュラーのポーズをとり、埋め込み式
「
「鍛え上げた
グレゴリーがサイドチェストのポーズを取ると、
「あいにく俺の
「そんな
「行くぞ」
グレゴリーは強化された視力と神経によって、その様子をスローモーションの映像を確認するように捉えていた。
見た目は
電磁ボーラがグレゴリーの真下を通ろうとしたその時、
「なんだとっ!」
空中に居た為に、迫りくる電磁ボーラを避けられなかったグレゴリーは、電磁ボーラの高比強度金属紐に両足を絡め取られ、まともな着地ができずに床に転がった。
「こんなもの……」
グレゴリーは手で両足に絡みついた電磁ボーラを引き千切ろうとした。
「ぐおおおっ」
身体に走る電撃の痛みで、グレゴリーは絶叫した。
「その電磁ボーラはな、絡みついた相手が気絶するまで自動で電撃量を調整してくれるお利口さん……いや、もう聞こえてないか」
「役立たずのチンピラどもが!」
偽スティーブンソンは護衛が全滅したのを見て、窓ガラスに向かって駆け出した。
「待て!」
車内で待機していたハリスが車外に飛び出しながらいった。
「撃っちまえ。ロバート!」
ハリスの背中に括り付けられた箱の方のスティーブンソンがいった。
ハリスが
「どうしてこんな……」
偽スティーブンソンは床に這いずりながらいった。
「終わりだ。副脳」
「俺の
ハリスは副脳の納められている頸椎辺りに
「うっ、撃たないでくれ」
偽スティーブンソンは両手を小さく挙げ、懇願した。
「こっちを殺そうとしてそれはないだろう!」
箱の方のスティーブンソンがいった。
「許してくれ……羨ましかったんだ。『人生』ってやつが。死にたくない。私……私だってヘンリー・スティーブンソンだぞ。私はヘンリー・スティーブンソンだ!」
副脳の方のスティーブンソンは血まみれで泣いていた。
「親友を撃つのか?ここ何年か……『私』とだって上手くやってきたじゃあないか。頼む、ロバート!」
「騙されるな!コイツは偽物だ。ロバート!」
二人のスティーブンソンが叫んだ。
「……すまない、ヘンリー」
ハリスは
「坊主、仕事は終わったのかい?」
「自分の車はどうしたんだい?」
マーガレット老は怪訝な顔で尋ねた。
「廃車寸前、修理に出してる。フレームが歪んじまったもんでね。ビルに突っ込んだし、銃撃戦もしたし」
「あらまあ」
マーガレット老は大きくあけた口を両手で隠した。
「結局、経費と修理費で今回の報酬はほとんどパアだ。骨折り損だよ」
「それで、人助けは」
「それもトントンかな。一人助けて、一人殺した」
「なにも結果じゃないからね。良いことをしようって気持ちが重要なのさ。きっとそのうち巡り巡って良いことがあるよ」
マーガレット老は眉をさげて
「ありがとう。婆さん」
「ただいま」
自室に戻った
「くたびれたな」
ハリスが副脳を完全に破壊した後、スティーブンソンはハリス=スティーヴンソン・ソフトウェアの社長としての権限を無事取り戻すことができた。副脳が指示した『
もっともパンプアップ・グレゴリーの口添えも大きかっただろう。『
『アンタの機転と射撃の腕に負けた……次は負けねえ』
パンプアップ・グレゴリーはそういって白い歯列を輝かせたが、
結局のところ、副脳のスティーブンソンと主脳のスティーブンソンの命運を分けたのは、ハリスを味方につけることができたかどうかだった。ヘンリー・スティーブンソンを定義づけているのは、ロバート・ハリスだったのだ。ハリスがもし副脳の方を選んでいたら、副脳の方がそのまま本物のヘンリー・スティーブンソンとして振る舞い、主脳の方は他の誰からも気づかれずに一生自分の身体を他人に動かされる苦痛を味わっていただろう。そういう未来もあったはずだ。
「持つべきものは友……とは違うか」
「どれどれ……新しい依頼だと!?」
こんなペースで依頼が届いたことは無い。本当に巡り巡って運が回ってきたのかもしれない。やや興奮しつつ、
「ふむ、旧友の捜索ね。任せとけ、得意中の得意さ。こういう依頼を待ってたんだよ」
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