都市を嗅ぐ犬

デッドコピーたこはち

第1話 脳を奪われた男

 犬面ドッグフェイスの私立探偵人生の中でも、それは余りにも奇妙な依頼だった。脳を奪われた男から自分の脳を取り戻して欲しいと依頼があったのだ。


「自分の脳を取り戻して欲しいとは……どういうことです?」

 犬面ドッグフェイスは率直に尋ねた。

「盗られたんだよ。拡張体サイバネ分解点検オーバーホール中にね。今の私は副脳に保存された人格の一時的転写キャッシュに過ぎない。」

 映話の相手が言った。

 モニターに映る男の頭部を見ると、主脳座がチューリップのように開いたままになっており、男の言う通り主脳ユニットが失われていることが分かった。この男はヘンリー・スティーヴンソンと言い、ハリス=スティーヴンソン・ソフトウェアの社長だという。

「1時間前の事だ。信用していた技師エンジニアだったんだが。古い友人でね......」

 スティーヴンソンは顔をうつむかせた。

「警察にも連絡したが、話を信じて貰えなくてね。そこで猟犬ハウンドドッグとして、名を馳せている君に連絡した次第だ。」

「誘拐犯の追跡という事であれば問題ありません。しかし、脳を取り戻すとなると私の専門からは外れます」

 犬面ドッグフェイスは人探しが専門の私立探偵である。人物の追跡においては相当の実績があった。しかし、戦闘となれば話は別だ。犬面ドッグフェイス拡張体サイバネ追跡専門チェイサーのものであり、ほぼ全身に及ぶ機械置換によって生身の人間以上の身体能力を持ってはいても、戦闘特化型には遠く及ばない。

「それでも君に頼みたいのだよ。他のものでは誘拐犯に辿り着くことさえできないだろう。しかも、君はかつて『磁気嵐兄弟マグネティックストーム・ブラザーズ』や『珊瑚色霧犬コーラルピンク・ヴェイパードッグ』ともやりあったそうじゃないか。勇敢で有能な男だ。信頼できる。」

「高く評価いただけるのはありがたいのですが、あなたは――」

 犬面ドッグフェイスは言い淀んだ。

 実のところ問題はもう一つある。金だ。この依頼において、戦闘というリスクを犯すだけの報酬が約束されるのか、そしてこの副脳からの依頼を達成したとして、約束された報酬が正しく支払われるかが問題だった。

 仮に誘拐犯を見つけ出し、本人の脳を助け出したとしよう。そこで本人が「副脳が勝手に依頼しただけだ。私は探してくれとは言っていない」などと主張すれば、報酬の支払いについて揉める事は確実だろう。副脳と交わした契約書を元に法廷で争うにしても、それだけで手間だ。それに人格の一時的複製キャッシュによる責任能力の法的解釈など聞いたこともない。ざっと判例を検索したところ類似した事例すら皆無だった。

「料金のことかね?それなら……」

 犬面ドッグフェイスのモニターの右下に、犬面ドッグフェイスの公開口座へとハリス=スティーヴンソン・ソフトウェアから電子署名付きの送金がされたという通知が映し出された。

「前金でこれだけ払おう。成功報酬として同額をさらに支払う。……正直に言って、もう君しか頼れる人が居ないんだ。今ここであの技師を逃したら、私は何をされるか分からない。頼む。この依頼を受けてくれないか。」

 提示された報酬は破格で、万年金欠の私立探偵には目眩いがするほどだった。これなら支払いが遅延し続けている方々ほうぼうへのツケを返した上で、1年は遊んで暮らせるだろう。

 しばし犬面ドッグフェイスは葛藤した。

「……分かりました。お受けします。まず、契約書の内容をよく確認して署名を。あと現場の住所と今から言う資料をいただけますか?」

 犬面ドッグフェイスはその呼び名の由来でもある、自らの犬の如き鼻口部マズルを撫でながらいった。

「ありがとう。」

スティーヴンソンは頭を下げた。


 犬面ドッグフェイスは武装を済ませた後、玄関のハンガーラックからカーキ色の防弾トレンチコートを取って羽織り、同色のハンチング帽を彼の縦に長い二等辺三角形型の両耳――これまた犬の耳のような――の間に収めた。

「よし」

 犬面ドッグフェイスはどこまでも探偵然とした自分の姿を玄関横の姿見で確かめ、事務所兼住居である自らの高層集合住宅コナプトの居住区画を出て屋上駐車場へ向かった。


「坊主、仕事かい?」犬面ドッグフェイスが屋上駐車場に着くと、ちょうど浮遊自動車ホバー・カーから降りてきた老婆が言った。隣の居住区に1人で住むマーガレット老だ。おそらくは医者に行ってきた帰りだろう。

「ああ、久し振りのデカい仕事だ。」

 犬面ドッグフェイスは答えた。

「あら珍しい、悪い仕事じゃないだろうね」

 マーガレット老はイヒヒと笑った。

「お前さんはな、間違った事ができない性分なんだよ。悪ぶっても上手く行かない……変えられないサガってヤツさ。金儲けに精を出すなんて向いてないんだよ。いい加減認めて正しい道を行きな」

マーガレット老は未だに古い神を信仰しており、度々こうして犬面ドッグフェイスにも道を説くのであった。

「今日のは人助けだよ、婆さん。それに金を稼がなきゃ生活できないだろ。」

 犬面ドッグフェイスは身体に気をつけてなと言い残し、自分の浮遊自動車ホバー・カーに乗り込んだ。犬面ドッグフェイスが行先を指示すると、浮遊自動車はゆっくりと浮かび上がり、高層集合住宅コナプト群の谷間を飛んで行った。


 浮遊自動車ホバー・カーでの移動中、犬面ドッグフェイスはスティーブンソンより受け取った資料の中から屋上駐車場の監視カメラの映像を選び、浮遊自動車ホバー・カーに据え付けられている立体映像投影装置ホログラム・プロジェクターに再生を開始させた。

 犬面の眼前に屋上駐車場の小型模型ミニチュアが出現した。スティーブンソンが分解点検オーバーホールを受ける直前を再現した屋上駐車場の立体映像ホログラムだ。

 中空に苔色モスグリーン浮遊自動車ホバー・カー一台が描画され、屋上駐車場に着地した。その浮遊自動車ホバー・カーの中から作業着姿の筋肉質な男が1人現れた。

 その男の名はロバート・ハリス。資料によるとヘンリー・スティーヴンソンと共にハリス=スティーヴンソン・ソフトウェアを立ち上げた男。

 ハリスは会社の規模が大きくなると、スティーヴンソンに会社の権利を全て譲り渡して退職。その退職金で新しい会社――ハリス工務店――を立ち上げ、自ら技師エンジニアとして拡張体サイバネを修理して生活しているらしい。相当な変人だ。

 ハリスは車のトランクからメンテナンス機器が満載された小型の自律荷馬パックホースを下すと、玄関まで引き連れて行った。玄関のドアが開きハリスが室内へ消えた。

 犬面ドッグフェイス小型模型ミニチュアを撫でるように右へ手を動かし、ハリスが玄関から出てくるところまで立体映像ホログラムを早送りした。

 ハリスが玄関から出てきた時、自律荷馬パックホースは連れておらず、30cm四方の箱のような物を抱えているだけであった。ハリスは急いだ様子で苔色モスグリーン浮遊自動車ホバー・カーへ乗り込むと、浮遊自動車ホバー・カーが姿を消した。

光学迷彩オプティカル・カモフラージュだ。

 犬面ドッグフェイス小型模型ミニチュアを撫でるように今度は左へ手を動かし、ハリスがトランクから自律荷馬パックホースを下すところまで立体映像ホログラムを巻き戻した。

 犬面ドッグフェイス自律荷馬パックホースにハリスが抱えていた箱が乗っている事を確認し、立体映像ホログラムの再生を終了した。


 犬面ドッグフェイスは目を閉じ、腕を組んだ。

 ハリスが光学迷彩オプト・カモを使用して逃走を図ったとなると、監視カメラの映像での追跡は困難だ。不可能ではないが、画像の解析にかなりの時間を要する。スティーブンソンが他のものでは追跡すらできないと言った理由はこれなのだろう。しかし、「鼻」があれば寧ろそちらの方が好都合だ。

 また、ハリスは主脳を収める箱――恐らく生命維持装置が組み込まれたパッケージ――を前もって用意していた。衝動的ではない計画的犯行だ。

 だが、動機が分からない。ハリスは表向き辞職した事になっているが、実際には会社を追い出されていて、その恨みかとも考えたが、スティーブンソンがその後も拡張体の点検メンテナンスを度々依頼していることから喧嘩別れではなかったのだろう。

 恨みではないとすると金か……ハリス工務店が資金周りに困っているそぶりもなく、ハリス自身も金の為に誘拐をやらかすタイプとは思えない。

 後はハリスが何者かに脅され、スティーブンソン誘拐に加担させられている可能性ぐらいか。となると、黒幕との対決が予想される訳だが……厄介な事になりそうだ。

 背後に大企業やヤクザが居ることも考えられる、仮に実働部隊を何とかした所で、相手は目標を達成するまで諦めないだろう。その時は――


 犬面ドッグフェイスは首を横に振った。

 心構えをするのは良いが必要以上に神経質ナーバスになるのも良くない。

 前回の人工頭脳学サイバネティクス奇術師協会から受けた行方不明の仲介人を探すとかいう仕事も確かに怪しかったが、上手くいった。今度の仕事も上手くやれるはずだ。

 追跡については、監視カメラの映像とこの「鼻」があれば問題ない。誘拐犯を追い詰めた後はある程度出たとこ勝負になってしまうが......そもそも荒事は探偵本来の仕事から外れるのだから致し方ないとはいえ、こういった仕事も受けざるを得ない現状、根本的な対策が必要だろう。この仕事が終わり次第手を打つとしよう。


 犬面ドッグフェイスの思考が脱線し、相棒サイドキックの雇用条件と人件費について考えをまとめた頃、浮遊自動車ホバー・カーがスティーブンソンの住居に到着した。スティーブンソンの住居は最高級クラスの高層集合住宅コナプトの最上フロア全面であった。

 犬面ドッグフェイスは車から降りて屋上駐車場に面した玄関の前まで移動し、ハンチング帽を脱いで呼び鈴を鳴らした。

犬面ドッグフェイスです。スティーブンソンさんから依頼を受けて参りました。」

 玄関の扉が電子音と共に開いた。

「待っていたよ。入ってくれ。」

 主脳座がチューリップのように開いたままになっているスティーブンソンが犬面を迎えた。

「……その状態でも歩けたのですね」

 犬面は室内に入りながらいった。

「確かに奇妙な話ではあるが、主脳が無くても活動に支障はないようだ」

 スティーブンソンは自嘲的に笑った。

 スティーブンソンの居住区の内部はシンプルなモノトーンインテリアで統一されていた。

「私が分解点検オーバーホールを受けていたのはこちらの部屋だ。年に1度、ハリスを招いて拡張体サイバネ分解点検オーバーホールをするのが通例だった」

 スティーブンソンは犬面を奥のメンテナンス部屋へと案内した。

 メンテナンス部屋では、中央に置かれた点検メンテナンス台の周りには工具や、ハリスの自律荷馬パックホースが置き去りになったままだった。

「この部屋に監視カメラはないのですか?」

 犬面ドッグフェイスは部屋を見回した。

「ない。私の拡張体サイバネにはまだ市場に出ていないわが社の商品の試作品プロトタイプもあってね。映像の流出を恐れたんだ」

「部屋の空調の設定は変えていませんか?」

「ああ」

「なるほど、では早速取り掛かりましょう。」

 犬面ドッグフェイス鼻口部マズルの正面にある1対の主鼻孔と側面にある2対の副鼻孔を開き、臭いを嗅いだ。

 犬面ドッグフェイス電脳鼻口部サイバー・マズルに仕込まれた臭気分析装置アナライザーは単に臭気を解析するだけでなく、あらゆる揮発性物質の分解経路や、室内空調や気象条件など過去の環境データを参照する事によって、元の揮発性物質の組成とその組み合わせを再現できる。端的に言えば、「過去の臭い」すら嗅ぐことのできる優れものだ。

 生体はもちろん、機械であっても、常に少量の揮発物質を大気に放出し続けている。工場から出荷されたばかりの量産品でも無い限り、それぞれのモノ固有の臭気パターンという物があるのだ。

 この犬面の「鼻」はその固有臭気パターンを分析、特定する追跡専門チェイサー用の拡張体サイバネだった。

 また、新鮮で強い臭気ならば、カメラアイによる簡易的な光学分析とAR表示により臭いを「見る」ことすらでき、より容易な追跡を可能にしていた。

「技師と盗まれた主脳の匂いを登録しました。これでまず逃すことはないでしょう。追跡を開始します」

「助かる。吉報を待っているよ」

「それでは失礼」

 犬面ドッグフェイスはスティーブンソンに頭を下げ、部屋を出た。


 犬面ドッグフェイスには技師と盗まれた主脳の残していった臭気が赤い靄のように見えており、予想通りにメンテナンス室から玄関まで続いていた。

犬面ドッグフェイスはハンチング帽を被りなおし、屋上駐車場に通じる玄関を出た。

 赤い靄は監視カメラの映像で、屋上駐車場の苔色モスグリーン浮遊自動車ホバー・カーが停められていた場所まで延び、そこで途切れていた。

 犬面ドッグフェイスは再度臭いを嗅いだ。

 光学迷彩オプト・カモ使用時に発される再回帰性被覆材が加熱される匂いはかなり特徴的だ。犬面ドッグフェイスはこの匂いも登録、AR表示を緑に設定し、自分の浮遊自動車に乗り込んだ。

手動マニュアル運転。A操作」

 犬面ドッグフェイスは、手動運転中には保険が効かないという旨の警告を無視し、運転を続け、緑の靄を追った。


 かなり拡散してしまっているが、それでも緑色の飛行機雲のように中空に続く臭気を 犬面が追って行くと、やがて寂びれた工業団地の一角にある小工場の敷地に苔色モスグリーン浮遊自動車ホバー・カーが停められているのを発見した。

 犬面ドッグフェイスは自分の浮遊自動車ホバー・カー苔色モスグリーン浮遊自動車ホバー・カーの隣に停め、車から降りた。苔色モスグリーン浮遊自動車ホバー・カーから伸びる赤い靄は小工場の通用口へと続いていた

 誘拐犯の捕捉を確信した犬面ドッグフェイスは、だが気を引き締めた。ここからが勝負なのだ。

 犬面ドッグフェイスは通用口に張り付き、耳を澄ませた。金属がぶつかる音と衣擦れの音。

犬面ドッグフェイスはショルダーホルスターから大型回転式拳銃リボルバーを抜いて弾丸が装填されているかを確認した。この銃は装弾数は5発と少ないが、比較的コンパクトでアンチ重身体拡張者ヘビィサイボーグ弾を扱うことができる。犬面はこの堅牢なハイエントロピー合金製回転式拳銃リボルバーを心から信頼していた。

「今日も頼むぞ」

 犬面ドッグフェイスは鼻孔を閉じ、拳銃を構え通用口から内部へと突入した。

 中はまさしく工作場と言った趣きで、旋盤や溶接機などの工作機械があり、机や棚にはよくわからないガラクタが積まれていた。

「クソッ、やはりオフィスまで行かないとダメか」

 防犯カメラに映っていたままの作業着姿で、ハリスは犬面ドッグフェイスに背を向け、机に置かれた箱を弄っていた。

「床に伏せて手を頭の後ろに回せ!」

 犬面ドッグフェイスがハリスに拳銃を向け、叫んだ。

「まずい!」

 ハリスが箱を掴んで逃げようとした。

 犬面ドッグフェイスは床に向かって威嚇射撃をした。銃声と衝撃が小工場内に響き、床のコンクリートが砕けてヒビが蜘蛛の巣状に大きく広がった。

「床に伏せろ!」

「分かった!撃たないでくれ……」

 ハリスは箱を持ったまま両手を挙げた。

「そのままゆっくり箱を床に置いて、伏せろ。手を頭の後ろに回せ。」

「分かった。言う通りにする。」

 ハリスは箱を床に下ろして腹這いになり、頭の後ろに手を回した。

「拘束させてもらう」

 犬面ドッグフェイスは銃をハリスに向けたまま、手首に炭化ケイ素被覆C/Cコンポジット製の黒い手錠をかけた。

「アンタ、警察か?」

「私立探偵だ。見て分からんか?」

 犬面ドッグフェイスはハリスのボディチェックをしながら答えた。

「ロバート・ハリスだな」

「そうだ」

 ハリスは答えた。

「ヤツに雇われて来たのか?副脳の……」

「雇い主については教えられない」

 犬面ドッグフェイスは断固とした口調で答えた。

「なぜヘンリー・スティーヴンソンを誘拐した?誰かの依頼なのか?」

「なあアンタ、なにか勘違いしてるぞ。俺の話を……いや、俺の友達の話を聞いてくれないか」

「友達......?」

 犬面ドッグフェイスは首を傾げた。

「ヘンリー・スティーヴンソン。オリジナルの」

 ハリスは床に置かれた箱を顎で指した。

「ロバートは俺をクソッタレの副脳から助けてくれたのさ」

 『箱』が声を発した。

 犬面ドッグフェイスは僅かに仰け反った。箱はスピーカーも備えていたらしい。

「どういうことだ......」

「副脳に入れてた仕事の自動化オートメーションプログラムの試作品プロトタイプに身体の制御を乗っ取られてたんだ。ロバートは先月のメンテナンスの時にそれに気づいて、今回の分解点検オーバーホールで俺と副脳を引き離してくれた。あれは本来、拡張体サイバネの副脳に情報処理に特化した人工的無意識を追加するプログラムだった。これによって、新しい仕事タスクであってもほぼ反復学習なしで無意識的に作業を行うことができるようになるし、意識的な作業においても人工的無意識が補助することで作業効率が劇的に向上させることが期待できた。ところが試作品プロトタイプは――」

「待て、要点を言え」

「つまり副脳のヤツは、ヘンリー・スティーヴンソンの予期せぬ模造品デッドコピーで、アンタはそいつに騙されてたってこと」ハリスが答えた。

 犬面ドッグフェイスは主鼻孔を開いてハリスの体臭を嗅ぎ、ハリスが嘘をついていない事を確認した。

「なるほど。クソッ」

 犬面ドッグフェイスは呻いた。

「妙な依頼を受けるんじゃなかった」

「物理オフィスまで行って、脳波パターンを照会すれば副脳の持ってる権限を取り戻せるはずなんだ。」

「なぁアンタ手伝ってくれないか。金ならヘンリーが出す」

 地面にうつ伏せになったままのハリスがいった

「……そんな義理は無い。このまま主脳を副脳に差し出せば苦労せずに大金が手に入る」

「副脳の所に戻るのは絶対に嫌だ!そうするぐらいなら殺してくれ!自分が自分じゃ無いものに操られるのを見ているだけなんてもう耐えられない」

 『箱』が大音量で叫んだ。

「副脳は元々アンタに嘘をついていた。金をそのまま渡すとは限らんぞ」

「契約書がある」

「副脳が真実を知ったヤツを生かしておくとは思えない」

 犬面ドッグフェイスは腕を組んだ。ハリスの言うことも一理ある。

 契約書には虚偽の報告があった場合、一方的に契約を破棄できる旨の免責事項が書いてある。副脳との契約を破棄して、主脳のスティーブンソンと再契約しても法的には問題はない。しかし、そうすれば副脳とやり合わなければならないだろう。

 企業のトップと敵対するのは、かなりのリスクだ。暗殺者アサシンを差し向けてくる可能性もある。

 ハリスは首を回して、犬面と目を合わせた。

「アンタは曲がった事が嫌いなタイプだろ。やり口を見たら分かる。頼むよ」

 ハリスは犬面の目を見ていった。

 犬面ドッグフェイスはまた呻いた。


 犬面ドッグフェイスたちが物理オフィスの住所へ浮遊自動車ホバー・カーを飛ばしている時に、スティーヴンソン――いや、スティーヴンソンと言うべきか――から映話がかかってきた。犬面ドッグフェイスは応答した。

「嘘をついていたな」

 犬面ドッグフェイスはいった。

「そうだ」

 偽スティーヴンソンは答えた。

「あっさり認めるのか。契約は破棄だぞ」

「これから君たちを殺すからな」

 衝撃と共に浮遊自動車ホバー・カーが激しく揺れた。攻撃を受けているのだ。

「うわっ!」助手席のハリスが叫んだ。

「落ち着け。この浮遊自動車ホバー・カーは防弾仕様だ。しばらくは持つ」犬面ドッグフェイスはいった。

「君は何も考えず依頼を達成するだけで良かったのだ。好奇心は犬をも殺す。残念だよ、さようなら犬面ドッグフェイス」偽スティーヴンソンは映話を切った。

「あっちのスティーヴンソンが暗殺者アサシンを雇ったようだ」

 犬面ドッグフェイスは金と情に棹されてしまう自分のサガを呪った。

自動セルフ運転から手動マニュアル運転に移行。B操作」

 犬面ドッグフェイスの目の前に車輪型の操舵装置ハンドルがせり出して来た。

「妙な座席の配置だと思ったら、まさか手動運転するのか?!」

 ハリスが信じられないという顔で叫んだ。

「しっかり掴まってろ!舌をかむなよ」

 犬面ドッグフェイスがアクセルを全開にして、操舵装置ハンドルを捻り、大きく引いた。すると、浮遊自動車ホバー・カーは猛加速しつつ、180°回転して、高層集合住宅コナプトの谷間へとダイブした。

「おおっ!」

 ハリスは膝に抱えていた箱を強く抱きしめた。

 犬面ドッグフェイス浮遊自動車ホバー・カーを地面に衝突する寸前で引き起こした。犬面が後方モニターを確認すると、3台の浮遊二輪車ホバー・バイクが追ってくるのが見えた。浮遊二輪車ホバー・バイクたちは悠々と追従してくる。浮遊自動車ホバー・カーより小回りが利くのだ。

「ケツに付かれたぞ!」

 ハリスが叫んだ。

 犬面ドッグフェイス浮遊自動車ホバー・カー操舵装置ハンドルを引き、垂直に上昇させた。

 浮遊二輪車ホバー・バイクと距離が離れていく。浮遊自動車ホバー・カーの方が馬力は上だった。犬面ドッグフェイス操舵装置ハンドルを引き続けると、浮遊自動車ホバー・カーは反転した。

「何する気だ?」ハリスがいった。

「目に物見せてやるんだ」

 犬面ドッグフェイスはハンドル右にある赤いボタンを押した。

 浮遊自動車の下部から小型マイクロミサイルが3発飛び出し、それぞれ浮遊二輪車に向かって行った。避けきれなかった二台の浮遊二輪車は爆発し、破片が空中にばら撒かれた。

「良いぞ。もっとミサイルを撃て!」

「いや、もう撃たない」

「弾切れか?」

「違う」

「生きるか死ぬかだぞ。ケチってる場合か!」

「黙ってろ!ミサイル1発が俺の2ヶ月分の生活費に匹敵するんだぞ!」

 命懸けなのはカーチェイスや銃撃戦をしている時だけではない。生きている限り常に命懸けなのだ。万年金欠の私立探偵は特にそうだった。

 犬面ドッグフェイスは運転席の窓を全開にして身を乗り出し、残り一台の浮遊二輪車ホバー・バイクとのすれ違いざまに、回転式拳銃リボルバーを撃った。

 ハリスが振り返ると黒煙を上げて高度を下げていく浮遊二輪車ホバー・バイクが見えた。

「凄え!当てやがった。全滅させたぞ」

「きっと追加で暗殺者を雇ってくる」

犬面ドッグフェイスが窓を閉めた。

「急ぐぞ」


「ダメだ……社の防空システムがフル稼動してる」

 ハリスが頭を抱えながらいった。

 ハリス=スティーヴンソン・ソフトウェアの物理オフィスである全面鏡面仕上げ45階建て高層ビルの周囲には無人の軽飛マイクロフライトが飛び回り、地上の出入り口は封鎖されていた。

「無理に突入しようとすれば、木っ端微塵にされちまう」

「先を越されたか。他に方法は無いのか?」

「副脳を破壊するしかない」

 ハリスは顔をしかめながらいった。

「何故最初からその方法を取らなかった?機会はあった筈だ」

「副脳の人格もスティーブンソンの記憶を持ってる。模造品デッドコピーとはいえ、友人を殺したくは無かったんだ」

「ロバート……」

主脳の方のスティーブンソンがいった。

「スティーブンソンの住居に向かうぞ。高層集合住宅コナプトの防空システムならたかが知れてる。突破できるはずだ」

犬面ドッグフェイス浮遊自動車ホバー・カーの行先を変更した。


「こっちはこっちでか……」

 建造物からより高い高度で飛行している浮遊自動車ホバー・カーの車窓から、ハリスが見下ろすと、スティーブンソンの住居の周りには、金で雇われたと思しきゴロツキが跨った浮遊二輪車ホバー・バイクが周回しているのが見えた。

「逃げる気がないのはむしろありがたいな」

犬面ドッグフェイス操舵装置ハンドルを強く握った。

「雑魚は無視する。突っ込むぞ!」

 犬面ドッグフェイス操舵装置ハンドルを押し込み浮遊自動車ホバー・カーを急降下させ、浮遊二輪車ホバー・バイクが群がってきた所へ露払いとして小型マイクロミサイルを全弾撃ちこんだ。

「しっかり捕まってろ!」

 犬面ドッグフェイス浮遊二輪車ホバー・バイクが回避行動を取ることで生まれた間隙に浮遊自動車ホバー・カーをねじ込み、そのまま最上フロア、ガラス張りのリビングへ浮遊自動車ホバー・カーを突っ込ませた。


 ビル風に耐えるための強化ガラスをぶち破り、天井と床に車体を激しく擦り付けながら、浮遊自動車ホバー・カーは停止した。

 広いリビングには、クロームの骨格とCNT筋繊維が剥き出しの強化義手や強化義足を付けた筋肉隆々の軽身体拡張者ライト・サイボーグが3人ほどソファに座ってくつろいでおり、突然の闖入者に唖然としていた。

 その内、額に刺青タトゥーのあるスキンヘッドの軽身体拡張者ライト・サイボーグが真っ先に気を取り直し、叫んだ。

「やつらだ!殺せ!」

 浮遊自動車ホバー・カーの一番近くに座っていた軽身体拡張者ライト・サイボーグが手元の戦術槌タクティカル・メイスを手に取り、運転席側の窓を打ち破ろうと振りかぶった。

 一瞬早く犬面ドッグフェイスは運転席扉を開けつつぶつけ、戦術槌タクティカル・メイス持ちの軽身体拡張者ライト・サイボーグを転倒させた。

 犬面ドッグフェイス浮遊自動車ホバー・カーから出て、転倒している軽身体拡張者ライト・サイボーグの股間を強く踏みつけた。

「死ねえ!」

 短機関銃サブマシンガンを持ったツーブロックの軽身体拡張者ライト・サイボーグ犬面ドッグフェイスへと射撃を開始した。

 犬面ドッグフェイスは開いたままの運転席扉を盾にしつつ、回転式拳銃リボルバーで撃ち返した。弾丸がツーブロックの右肩に命中すると、強化義手が千切れ飛び、クローム被覆されたチタン合金骨格とCNT筋繊維の破片をまき散らした。

 ツーブロックが苦痛に呻きながら後ろへと倒れこむのを見たスキンヘッドの軽身体拡張者ライト・サイボーグが、防盾付きの重機関銃ヘビィ・マシンガンを腰だめで構えた。

「許さねえ!」

 重機関銃ヘビィ・マシンガンの重みによって、CNT筋繊維の僧帽筋と三角筋、上腕二頭筋が大きく膨れ上がり、ハリスはスキンヘッドの軽身体拡張者ライト・サイボーグが一回り大きくなったように錯覚した。

「ぉぉおおおおおお!」

 スキンヘッドは叫びながら、犬面ドッグフェイスへと弾丸の雨を浴びせかけた。近距離からの重機関銃ヘビィ・マシンガンの連続射撃によって、運転席扉の窓が粉々に砕け、運転席扉自体にも大穴が開いた。

 犬面ドッグフェイスは自分が撃ち抜かれる前に運転席扉の影から飛び出し、転がりながらも銃撃を行った。犬面ドッグフェイスの放った弾丸は、22mmの炭素鋼製の防盾を貫通し、重機関銃ヘビィ・マシンガンの機関部を破壊した。

 機関部の破壊に伴う小爆発を手元で食らったスキンヘッドは、強化義手の手首から先が吹き飛び、ズタズタになった両手を見つめながら膝をつき崩れ落ちた。

「畜生!」

「アダマス合金製硬芯徹甲弾だ……鉄板程度じゃ防げないぜ」

スキンヘッドはスキンヘッドに近づきながらいった。

「俺たちは『磁気嵐兄弟マグネティックストーム・ブラザーズ』の第6軍だぞ!こんな……クソッタレ!」

 スキンヘッドは血混じりのつばを飛ばしながら叫んだ。

「そして、この距離なら10mmのチタン合金製人工頭蓋でも問題なく抜けちまう」

 スキンヘッドの額にある渦巻きを模した蓄光刺青タトゥー―――『磁気嵐兄弟マグネティックストーム・ブラザーズ』のエンブレム―――へ回転式拳銃リボルバーの銃口を突きつけた。

「副脳……じゃない。スティーブンソンはどこだ?」

「お前らにはたどり着けねえ!メンテナンス室まではあと20人は――」

「分かった。もういい」

 犬面ドッグフェイスは形の良いスキンヘッドの頭を掴み、思いきり膝蹴りを顔面に打ち込んだ。スキンヘッドは気絶し床へと倒れこんだ。


「銃は撃てるか」

 犬面ドッグフェイスはツーブロックの持っていた短機関銃サブマシンガンを、浮遊自動車ホバー・カーから出て来たハリスに差し出しながらいった。

「ああ、一応護身の心得はある。元副社長だからな」

 ハリスが短機関銃サブマシンガンを受け取った。

「こんだけ派手にやったのに奴らの援軍が来ないのはなぜだ?」

「守りを固めてるんだろう。副脳の奴、余裕ぶっているが臆病だ。俺には分かる」

 車内に備えられていたパラコードで、背負われるようにハリスの体に括り付けられている『箱』入りスティーブンソンがいった。

「メンテナンス室は隣の客間を挟んだ先隣だ」

 ハリスがリビングの出入り口から見て右側の壁を指さしながらいった。

「廊下に出れば奴らが待ち構えてるだろうな」

「いや……良い考えがある。」

 犬面ドッグフェイスはいった。


「うおおおっ」

「逃げろ!」

 浮遊自動車ホバー・カーが壁をぶち破り、轟音と共に客間へと突入すると、メンテナンス室を守る為に詰めていた『磁気嵐兄弟マグネティックストーム・ブラザーズ』の構成員たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。

 犬面ドッグフェイスはさらにアクセルを踏み込み、メンテナンス室の壁に浮遊自動車ホバー・カーの前半分をめり込ませた。

 浮遊自動車ホバー・カーが壁をぶち破ってできた粉塵が晴れると、フロントガラス越しの正面に、偽スティーヴンソンが入口から死角となる様にメンテナンス台の陰に隠れており、3人の軽身体拡張者ライト・サイボーグたちを侍らせているのが見えた。

 犬面ドッグフェイスはかつて運転席扉の窓ガラスが嵌っていた部分から右腕を出し、回転式拳銃リボルバーを立て続けに撃った。2発の硬芯徹甲弾がそれぞれ別の軽身体拡張者ライト・サイボーグの強化義手を捉え、破壊した。

「「バラバラにしてやる!」」

 メンテナンス室の出入り口で待機していた瓜二つの超振動マチェーテ持ち軽身体拡張者ライト・サイボーグ2人が銃声を聞いて振り返り、駆け出そうとした。

 犬面ドッグフェイスは出入扉に手のひら大の球体を左手で投げつけた。球体は扉にぶつかり跳ね返ると、球体に封入されていた液体が発泡し、勢いよく噴出した。その泡は車一台分程の大きさに膨張、固化する事でクリーム色の簡易発泡バリケードを形成し、出入扉を封じた。泡の噴出に巻き込まれた超振動マチェーテを持った軽身体拡張者ライト・サイボーグたちは発泡バリケードに取り込まれ、身動きが取れなくなった。


「長くは持たん。始末をつけよう」

 犬面ドッグフェイス浮遊自動車ホバー・カーから出た。

 最後に残った半裸の軽身体拡張者ライト・サイボーグ犬面ドッグフェイスに立ちふさがった。

「俺は『磁気嵐兄弟マグネティックストーム・ブラザーズ』第6軍団長、パンプアップ・グレゴリーだ!来い!」

 グレゴリーはその3m近い身の丈でモスト・マスキュラーのポーズをとり、埋め込み式電脳サイバーゴーグルを輝かせた。

 犬面ドッグフェイスはグレゴリーの赤銅色に輝く胸板に2発の硬芯徹甲弾を打ち込んだ。

流体装甲リキッド・アーマーか」

 犬面ドッグフェイスは硬芯徹甲弾を食い止めて、波紋を広げ波打つグレゴリーの胸板を見ていった。

「鍛え上げた肉体ボディに筋肉追従式の透明な流体装甲リキッド・アーマーを纏わせる!これが俺の拡張体サイバネ、魂の表現型フェノタイプよ。お前の拡張体サイバネと勝負しようじゃねえか」

 グレゴリーがサイドチェストのポーズを取ると、流体装甲リキッド・アーマーから2発の硬芯徹甲弾が排出され、音を立てて床に転がった。

「あいにく俺の拡張体サイバネは非戦闘型でな。代わりにコイツで相手をしてやる」

 犬面ドッグフェイスは3つの球体を三又の紐の先端にそれぞれ1つずつ取り付けた道具を懐から取り出して左手に持った。電磁ボーラだ。

「そんな玩具パーティ・グッズで俺と戦うってのか?」

「行くぞ」

 犬面ドッグフェイスは電磁ボーラの球体1つを手に持ち頭上で振り回し、十分な勢いが付いたところで投げた。電磁ボーラは3つの球体が正三角形の頂点に位置するように広がり回転しながらグレゴリーの足元へと迫った。

 グレゴリーは強化された視力と神経によって、その様子をスローモーションの映像を確認するように捉えていた。

 見た目は玩具パーティ・グッズに過ぎないが、油断してはならない。いったんコイツを避けてから反撃に転じるとしよう――グレゴリーはそう考え、両足で踏切ってジャンプをした。

 電磁ボーラがグレゴリーの真下を通ろうとしたその時、犬面ドッグフェイス回転式拳銃リボルバーに残っていた最後の弾丸を発射した。弾丸は球体下部に僅かに接触し、電磁ボーラの軌道を変えた。

「なんだとっ!」

 空中に居た為に、迫りくる電磁ボーラを避けられなかったグレゴリーは、電磁ボーラの高比強度金属紐に両足を絡め取られ、まともな着地ができずに床に転がった。

「こんなもの……」

 グレゴリーは手で両足に絡みついた電磁ボーラを引き千切ろうとした。

「ぐおおおっ」

 身体に走る電撃の痛みで、グレゴリーは絶叫した。

「その電磁ボーラはな、絡みついた相手が気絶するまで自動で電撃量を調整してくれるお利口さん……いや、もう聞こえてないか」

 犬面ドッグフェイスは完全にのびたグレゴリーを見ていった。


「役立たずのチンピラどもが!」

 偽スティーブンソンは護衛が全滅したのを見て、窓ガラスに向かって駆け出した。

「待て!」

 車内で待機していたハリスが車外に飛び出しながらいった。

「撃っちまえ。ロバート!」

 ハリスの背中に括り付けられた箱の方のスティーブンソンがいった。

 ハリスが短機関銃サブマシンガンを乱射すると、何発かの弾丸が偽スティーブンソンの背中や足に命中し、偽スティーブンソンは赤い人工血液をまき散らしながら倒れた。

「どうしてこんな……」

 偽スティーブンソンは床に這いずりながらいった。

「終わりだ。副脳」

「俺の身体ボディを好き勝手しやがって」

 ハリスは副脳の納められている頸椎辺りに短機関銃サブマシンガンの照準を合わせた。

「うっ、撃たないでくれ」

 偽スティーブンソンは両手を小さく挙げ、懇願した。

「こっちを殺そうとしてそれはないだろう!」

 箱の方のスティーブンソンがいった。

「許してくれ……羨ましかったんだ。『人生』ってやつが。死にたくない。私……私だってヘンリー・スティーブンソンだぞ。私はヘンリー・スティーブンソンだ!」

 副脳の方のスティーブンソンは血まみれで泣いていた。

「親友を撃つのか?ここ何年か……『私』とだって上手くやってきたじゃあないか。頼む、ロバート!」

「騙されるな!コイツは偽物だ。ロバート!」

 二人のスティーブンソンが叫んだ。

「……すまない、ヘンリー」

 ハリスは短機関銃サブマシンガンの引き金を引いた。


「坊主、仕事は終わったのかい?」

 犬面ドッグフェイス広告アドタクシーから降り、よろよろと屋上駐車場を歩いていると隣の居住区に1人で住むマーガレット老が話しかけてきた。これからどこかに出かけるところらしい。

「自分の車はどうしたんだい?」

 マーガレット老は怪訝な顔で尋ねた。

「廃車寸前、修理に出してる。フレームが歪んじまったもんでね。ビルに突っ込んだし、銃撃戦もしたし」

 犬面ドッグフェイスが思っていたより、愛車のダメージは大きかったのだ。

「あらまあ」

 マーガレット老は大きくあけた口を両手で隠した。

「結局、経費と修理費で今回の報酬はほとんどパアだ。骨折り損だよ」

 犬面ドッグフェイスは両手を広げ、肩をすくめた。

「それで、人助けは」

「それもトントンかな。一人助けて、一人殺した」

「なにも結果じゃないからね。良いことをしようって気持ちが重要なのさ。きっとそのうち巡り巡って良いことがあるよ」

 マーガレット老は眉をさげて犬面ドッグフェイスを慰めた。

「ありがとう。婆さん」

 犬面ドッグフェイスはマーガレット老に手を振り、自分の居住区画に戻っていった。


「ただいま」

 自室に戻った犬面ドッグフェイスは、玄関のハンガーラックへカーキ色の防弾トレンチコートと同色のハンチング帽を掛け、客間に置いてあるソファに座った。このソファは犬面ドッグフェイスの部屋の中にある家具の中で一番上等なものだった。

「くたびれたな」

 犬面ドッグフェイスは机に置いてあった合成ウイスキーの瓶の蓋を開けたところで、その中身はとうに飲み干されていたことを思い出し、元に戻した。天井を見上げるといつもと変わらない染みだらけの壁紙がそこにはあった。

 ハリスが副脳を完全に破壊した後、スティーブンソンはハリス=スティーヴンソン・ソフトウェアの社長としての権限を無事取り戻すことができた。副脳が指示した『磁気嵐兄弟マグネティックストーム・ブラザーズ』への依頼を取り消し、成功報酬と同額を支払うことで構成員たちを下がらせることができたのも幸運だった。

 もっともパンプアップ・グレゴリーの口添えも大きかっただろう。『磁気嵐兄弟マグネティックストーム・ブラザーズ』は純粋な「力」を信奉しており、軍団長となれば敗北を認め、勝者に敬意を払う度量があるのはあの集団とただの無法者との違いだった。

『アンタの機転と射撃の腕に負けた……次は負けねえ』

 パンプアップ・グレゴリーはそういって白い歯列を輝かせたが、犬面ドッグフェイスは二度と会いたくないと心の底から思った。


 結局のところ、副脳のスティーブンソンと主脳のスティーブンソンの命運を分けたのは、ハリスを味方につけることができたかどうかだった。ヘンリー・スティーブンソンを定義づけているのは、ロバート・ハリスだったのだ。ハリスがもし副脳の方を選んでいたら、副脳の方がそのまま本物のヘンリー・スティーブンソンとして振る舞い、主脳の方は他の誰からも気づかれずに一生自分の身体を他人に動かされる苦痛を味わっていただろう。そういう未来もあったはずだ。

「持つべきものは友……とは違うか」

 犬面ドッグフェイスはスティーブンソンから何か連絡が来ているかもしれないと思い立ち、携帯端末を確認した。すると1件のメールが届いていた。

「どれどれ……新しい依頼だと!?」

 こんなペースで依頼が届いたことは無い。本当に巡り巡って運が回ってきたのかもしれない。やや興奮しつつ、犬面ドッグフェイスはメールの文面を確認した。

「ふむ、旧友の捜索ね。任せとけ、得意中の得意さ。こういう依頼を待ってたんだよ」

 犬面ドッグフェイスはもっと詳しい情報を求める文面のメールを打ちつつ、この依頼をこなせばツケを返済して酒代くらいは賄えるかもしれないと早くも皮算用を始めた。

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