第七章
第七章
ところが翌日の明け方、空が朱くなってきて、そろそろ、新しい太陽が上ってきたかなと思われる頃のころであった。
由紀子たちは、製鉄所の空き部屋に泊めて貰っていた。幸い製鉄所は、いくつか空き部屋があって、そこを宿泊室にすれば良かった。
由紀子が何となくのどが渇いて、食堂の冷蔵庫を開けて、お茶を一杯のみ、起きる時間までもうちょっとあるので、もうひと眠りするか、なんて考えていた時の事である。
何となく、遠くの方から、咳き込んでいる音がした。何だろうと思って、急いでそれがする方へ行ってみる。それは、四畳半の方から聞こえてくる音で、由紀子はピンときた。
すぐに、顔色を変えて、四畳半のふすまを開けると、咳き込んでいるのは、やっぱり水穂で、それは、前日に目撃したのと同じ光景であった。電気をつけてみると、咳き込むのと同時に朱色の吐瀉物もでて、布団の上に敷いたバスタオルが、また朱くなっているのがわかった。
「しっかりして、水穂さん。」
由紀子は急いで水穂を抱え起こし、背中をなでたりさすったりしてやりながら、口元にタオルをあてがってやった。本来、咳き込んで内容物を出すだけ出してしまえば、ストップしてくれる筈なのだが、今回は、いつまでも止まらず、声をかけても反応はしない。
「しっかりして、がんばって吐き出して。お願いだから。」
声をかけても無駄だと思うのだが、そういってしまうのだった。
其れでも止まらない。何だか内容物を出したくて、一生懸命咳き込んでいるのだが、それを喀出するだけの体力がないという事かもしれなかった。
「由紀子さん、またですか。」
いつの間にかジョチもやってきていて、水穂のその有様を冷静に観察していた。
「ええ、昼間とおなじような。」
とりあえず、由紀子もそれだけいう。
「とりあえず、薬飲ませて、様子を見ましょうか。」
ジョチにそういわれて、由紀子は枕元にあった吸い飲みを取った。それを水穂さんの口元へ持っていく。いつもなら吸いついてくれる筈であるが、今日はそれにも反応はしないで咳き込んだままである。
「飲んで、、、。」
由紀子が声をかけても反応はなかった。引き続き、咳き込んだままである。
「水穂さんお願い、飲んで!」
これではまるで、由紀子の方が、懇願して言っているようにみえてしまった。
「もしかすると、今度は本当にだめかもしれませんよ。」
ジョチの言葉を聞いて、由紀子はぎょっとする。
「とにかく何とかしなければだめですね。もうこれでは病院に連れて行った方が、いいかもしれませんな。」
「やめてください!お願い!そんなことをしたら水穂さんが。」
「わかってますよ!でも、僕たちにはどうしようもないでしょう!」
そんな事を二人が言っている間にも、咳き込む音はさらにおおきく強くなる。
「じゃあ、イチかバチかで、ちょっとスリッパでたたいてみますか。」
それもどうかと思うのだが、もうそうやって処置をするしか方法も無いのだった。由紀子がお願いしますと言って、水穂さんから少し離れると、ジョチはスリッパを脱いで、水穂の背をバシバシバシと三度たたいた。由紀子がしっかり!と声をかけると、水穂は激しく咳き込んで、これまで以上に朱い吐瀉物をだした。
「よし、うまくいきましたね。とりあえず薬を飲んで、様子を見ましょうか。」
「はい、わかりました。」
由紀子は、今こそチャンスだと思って、水穂の口元に再度吸い飲みを持って行ったのだが、もう、口で受け取ろうとはせず、代わりにふらふらと後ろに倒れ、ジョチに捕まえて貰わなかったら、布団にあたまをうつところだった。
「水穂さん、水穂さんわかりますか?」
声をかけても反応はない。
「水穂さん、聞こえるようでしたら、手をあげてくれませんか。」
そういわれて、あ、ああと声を出すようであるが、手をあげようとはしなかった。
「水穂さん、もう之じゃあ、僕たち手の施しようがないので、病院まで行っても構わないでしょうか?」
今度ばかりは由紀子もそうしなければならないな、と思った。
「じゃあ、そうしましょう。僕、小園さんに連絡しますから、由紀子さんは水穂さんの様子を観察してください。」
「でも、ジョチさんの車はクラウンでしょ。どうやって乗せるんですか。あたしは、軽自動車だし。」
確かにセダンは、こういう寝たきりの患者を運ぶのには、適していないように思われた。
「じゃあ、ワゴン車を早急にどこかから借りてきましょうか。」
となると、そうするしかなかった。
「でも、レンタカーのお店はこんな時間には営業していませんよ。タクシーを呼ぶと、早朝割増で、値段が高くなるし。」
「そんなこと言ってられませんよ、由紀子さん。仕方ありませんね。多少高額になってもいいから、タクシー会社に電話して、ワゴン車持ってきて貰いましょうか。」
ジョチがそんなことを言っている間に、由紀子はあることを思いついた。急いでスマートフォンを自室から持ってきて、ある場所へダイヤルする。
「もしもし?」
電話の相手は誰かと思ったら、
「はい、何ですか、こんな朝早く。」
と聞こえてきたのは蘭の声であったため、ジョチも一寸おどろいてしまったのである。
「蘭さん、あの、お願いがあるんです。お宅にワゴン車ありましたよね。それを貸していただけないでしょうか。水穂さんがたいへんなの、救急搬送したらいけないってことくらい蘭さんも知っているでしょう?だからお願いします!ワゴン車貸してください!」
蘭はいっぺんに眠気が冷めて、
「わかりました!沼袋にワゴン車をもっていかせます!それまで持ちそうですか?」
とでかい声で怒鳴った。
「ええ、だから持たせるために早く!」
「わかりました!」
由紀子はそういって電話を切った。意外な人物に頼んでくれたなと、ジョチは苦笑いして、一つため息をつく。
数分後、
「水穂さん、大丈夫でしょうか。お約束通り、ワゴン車持ってきましたよ!」
と、ガラッと玄関の戸が開いて、沼袋さんが入ってきた。そして水穂をヨイショと持ち上げて、玄関前に止めてあったワゴン車に乗せた。
「あの、沖田先生の所でいいんですね。」
今一度確認を取る沼袋さんに、
「ええ、お願いします。」
とだけ、ジョチはいった。
「わかりました。」
沼袋さんは、雄弁にそういって、ワゴン車を病院まで走らせていく。何だかまるで、戦場で戦車舞台に突撃していく歩兵の様だった。
暫くして、太陽が昇ってくるのが確認できた。周りも少しづつ明るくなっていく。周りの建物からも、人がでてくるだろう。そうすれば、また新しい一日が始まっていく事だろう。
「それでは、僕たちも小園さんに連絡をしますから、病院に行きましょうか。急いで朝食を取って、着替えていきましょう。」
「はい。」
そういわれて由紀子は部屋を出る。とりあえず、宅配弁当で確保しておいた弁当を朝食に食べるが、とにかく弁当はまずかった。部屋に戻って、急いで着替えるのであるが、おしゃれをしようという気にはなれなかった。
「行きますよ、由紀子さん。」
と、着物に着替えたジョチに声をかけられ、由紀子は、玄関前に待機していた小園さんの古いクラウンに乗り込んだ。お願いします、隣に乗り込んで来たジョチに言われて、小園さんのクラウンは、エンジンをかけて、動き出す。
「今日もいい天気だなあ。」
運転士ながら小園さんがぼそっと言ったのであるが、二人はその問いかけにこたえることは出来なかった。確かにいい天気ではあるのだけれど、それを祝福しようといいう気にはなれない。
「もうちょっとですからね。」
小園さんは、道路を走りながらそういった。いつも無口な筈の小園さんが、こうやっておしゃべりをするなんて、あり得ない話しだ。
「この時刻で良かったですなあ。もし、もうちょっと遅い時間だったら、この道路、車が一杯になって、大渋滞になるところでした。」
「そうですね。幹線道路ですから、確かに朝のラッシュ時間になると、ものすごい渋滞になるのは、僕も知っています。」
「ええ、今でこそ、15分もかからないでいけるけど、あと一時間遅かったら、少なくともその三倍近くかかってしまいそうでした。」
そういう小園さんとジョチさんは、あたしのことを慰めてくれているのかなと由紀子は思った。それを敷いてもらっているおかげで、由紀子は、病院へ行く勇気が出た。
一方、そのころ、蘭は。
「何を見てるのよ、そこでぼっとしているんだったら、電話が出来なくなるでしょう?ほら、どいて。」
アリスがそういうほど、固定電話の前にかじりついていた。
「ほらあ、どいて。今からあさ子さんの所に電話かけるんだからあ。」
「おい。今日は一日固定電話を使わないでいてくれないか。もしかしたら、由紀子さんから電話がかかってくるかもしれないから。」
蘭は、アリスにそういったが、
「何馬鹿なこと言ってるの。そんなことしたら、あたしがほかの人に電話がかけられなくなるでしょう。ほら、あさ子さんに電話するから、どいて。」
と、アリスに、車いすをどけられてしまった。蘭は自分の意思で動けない足に、この野郎と文句をいいたくなってきた。
「もしもし、あさ子さん。あの、伊能です。あれからどう?あ、そう、だいぶ落ち着いてきたの?それなら良かったわね。もう予定日も近いんだから、水巻なんかしないで、安静にしてて頂戴よ。え?ほかにやる人がいないの?それなら、誰かに頼めないの?赤ちゃんが生まれるってことは、水巻をするよりもっと重大なんだけどなあ。」
明るい声でそういうアリスに、蘭は、何だかそういうことが言えて羨ましいなと思うのであった。
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