第六章
第六章
「それではどうしたら。」
蘭は、そういって頭を垂れた。
確かに、自分の車いすでは、電話ボックスにはいるのは正直無理だ。それでは、どうしたらいいのか。蘭は、もうだめかと思って、がっくりと落ち込む。結局、勝代の事は、アリスにも杉ちゃんにもばれてしまうのではないか。というかすでに、杉ちゃんにはばれているだろう。きっと帰ったら大いに笑いものになるだろうが、それよりも大好きな水穂が、手の届かない人になってしまうほうがもっと怖かったから。やっぱり、帰った方がいいのだった。
「だから言ったじゃありませんか。このスマートフォンお貸ししますから、これで今から帰るとお電話をして、」
と、正祐は言っている。そのあと、どんな言葉がでてくるか、蘭は予測できた。でも、そのことをアリスに頼むのは、ちょっとしたくないなと思っていたのだった。
「蘭さん、蘭さんにはそうするしか方法もないでしょうに。一人でご自宅へ帰るなんて、駅から近くであればいいですけど、そうでなければ迎えに来てもらわないとダメでしょう。」
「いえ、タクシー拾います。」
蘭は、きっぱりと言った。
「幸い富士には、みんなのタクシーという物がありますから、路上で拾って、それで帰ります。東京には余り知られていない事ですが、富士は、それがあります。」
むきになって蘭は、そういったが、二人は心配そうな様子だった。
「必要なモノと言えば、ここから小宮駅まで向かうためのタクシーでしょうか。それだけはお願いしたいので、どこか公衆電話でも貸していただきたいのですが。」
「そんなものないわよ。みんなスマートフォン持っているんだから、そんな公衆電話なんて、コロコロある時代じゃないわ。」
と、勝代が言った。
「じゃあどうしたらいいんです!どうやって、帰ればいいんですか。お二人は、そうやって僕が帰るのを邪魔しているつもりなんですか!」
蘭は、どうしてなのか、勝代たちに対してむきになっているのだった。なぜか、そうなってしまっているのだった。
「蘭さん、電車なんてね、ここでは一時間に一本しか走っていないんです。八王子駅に行けばあるかもしれないけど、そこへありつく前に、蘭さんは駅員と交渉して、何とかしてもらわなければならないでしょう。そうなったら、莫大な時間がかかってしまうじゃないですか。それでお目当ての東海道線に乗るにしても、それでは、さらに時間がかかって、到着時刻は夜を過ぎてしまいますよ。」
確かに、冷静に考えれば正祐のいうとおりだった。八高線にしろ、中央線にしろ、東海道線にしろ、どれにも乗るのは駅員と交渉して乗せてもらうことが必要だ。それは、健康な人に比べたら確かに無駄な時間になるのかも知れなかった。
そうなると、自分が歩けないのが、本当に悔しかった。自分の障害のせいで、随分無駄な時間を作らなければならないのが、どうしようもないやるせなさだった。
「とにかく、僕たちの指示に従ってください。いちいち駅員に力を借りなくてもいいように、僕たちで何とかします。蘭さん、先ずですね、一番早く帰る方法は、この小宮から、四十八キロある、東京駅へ車を飛ばしていくことです。中央道と首都高速四号新宿線を使ってね。電車ですと、少なくとも二時間はかかってしまいますが、そうすれば、一時間程度で着けます。」
「僕はどうしろっていうんだ。」
正祐の説明に蘭は思わず言った。
「勿論、タクシーも呼べますが、それでは莫大にお金がかかってしまう。僕は、この体なので運転は出来ませんので、、、。」
そうなると、勝代はぎょっとした目で正祐を見た。
「この勝代に車を出させますから、勝代に東京駅まで乗せてもらってください。」
と、正祐はそんなことをいった。それを見て蘭は、やっぱりこの人は、自分に好意を持っているわけではなく、そうではなくて、自分が苦悩する様子を、楽しんでいるだけなんだということを感じ取った。多分、これが自分と勝代の最後の逢瀬になることを知っていて、それをせいぜい思いっきり楽しみなとからかっているんだろう。
蘭は、確かに正祐は、勝代をしあわせにすることは失敗したかもしれないが、それ以外の面では、かなり頭の切れる男ではないのかと、推量した。きっと、こうして頭のはたらく男なら、何とか、勝代とやり直すことも出来るのではないか。蘭は、そっちの方に頭を持って行ってほしかった。
「わかりました。今回は、正祐さんの御好意に従います。そして、もう勝代さんの前には現れませんから、出来る事なら、どうぞお二人でやり直してください!」
蘭は、頭を下げて、それだけをお願いし、
「じゃあ、僕は、勝代さんの車で、東京駅へ帰ります。」
と言った。勝代もある程度理解は出来たらしい。わかりましたと言って、車を出しに、外へ出て行った。
「正祐さん、本当に有難うございました。僕は、何とかして富士に帰りまして、二度と勝代さんの前には参りません。だから、勝代さんと一緒に最初からやり直してください。それくらいきっと出来るはずですよ。」
正祐はそういう蘭をしずかに見つめたまま、何も言わなかった。蘭は、もう一回頭を下げて、すみませんでしたと一度だけ言う。
「蘭さん、車持って来たわ。乗って。」
勝代がもどってきてそういった。勝代もこれで最後になると、もうしっかり覚悟を決めているらしい。蘭は、それを十分に感じ取って、勝代に手伝って貰いながら、車に乗り込んだ。正祐は、蘭にさようならとも言わないで、それを黙って見送った。
「じゃあ、行きますか。」
勝代は、出来る限りの速さで車を飛ばしていく。蘭は、運転手に話しかけるのはまずいと何も声をかけることはしなかったが、勝代の目に涙が浮かんでいるのはすぐにわかった。
やがて、車は首都高速道路に差し掛かる。首都高は渋滞が非常に多い事で有名であるが、今日はなぜか渋滞していなかった。いつもなら、ほとんど動かなくなるほどの渋滞であるはずなのに、なぜ?と蘭は考えて、ある事実を思い出した。
「あ!」
おもわず口にしてしまう。
「今日は土曜日だ!」
「そうよ。」
勝代が、返事をした。
お医者さんはお休みだ。何処の病院に行っても同じだ。何処にも診てくれるお医者さんなんて、いないはずだ。それでは、杉ちゃんたちは、どうしているだろうか。誰かに助けてもらって、水穂を救命病院にでも連れて行っただろうか。でも、奴はそういう所に行くのは望まない筈だ。というか、そんな風に処置したら、看護師たちからずさんな扱いをされることは、確実に目に見えている。そのようなことは、杉ちゃんたちであれば絶対しないだろう。でも、何も治療しないで放っておけば、水穂は確実に遠くへ逝ってしまう、、、。
「よしてくれ!どうか、そんなことをするのはやめてくれ!頼むどうか、水穂!水穂!水穂!」
蘭はでかい声でおもわず叫んでしまった。
「蘭さんはやっぱり、水穂さんの事を心配しているのね。それじゃあ、愛人を作るなんて到底無理な話よ。」
勝代は、そんな風に叫ぶ蘭を、そういって笑った。
そうこうしているうちに、東京駅についた。勝代は、駅の乗降場に車を止め、蘭をそこへ降ろした。もう何も言わなかった。そう、さよならさえも。そして蘭も何もいわず後ろを振り向かずに、無我夢中で駅に突進していった。
東京駅からは新幹線だ。蘭は、駅員に懇願してすぐに走るこだま号に乗せてくれと頼む。幸いすぐに出るこだま号の車いす席は空席があったのが幸運だった。蘭は、駅員に事情を話すこともせず、切符を駅員に買ってもらい、とにかく、こだま号に乗せてくれとがなり立て、駅員に手伝って貰って、何とか乗せてもらった。
乗せてもらって数分後。新幹線は走り出した。駅員は、何だあの車いすのお客さんは、うるさいなあという顔つきで、彼を見送った。
一時間ほど経って、新幹線は新富士駅についた。新富士駅でも駅員が待機してくれたところが、嬉しい所だが、蘭はお礼をいう事もせず、新幹線を降りる。そして、駅舎の入り口に止まっていた、障碍者用のタクシーに乗り込んで、製鉄所に向かって走ってもらった。
製鉄所に着くと、蘭は、運転手に降ろしてもらって、急いで玄関扉を乱暴にたたきながら、
「おい、水穂!いるか!」
と、声を上げた。ガラッと玄関の戸が開いた。
「もう、大声を出さないでくれませんかね。そんなに一生懸命になって戸をたたいたら、戸が壊れますよ。」
応答したのは、ジョチだった。
「おい、水穂、水穂は!」
蘭は、全身汗びっしょりになりながら、そうがなり立てる。
「もう、そんなに慌てなくて大丈夫ですよ、幸い水穂さんなら、薬が回って寝てますよ。」
ジョチが極めて冷静に応答するが、蘭はその冷静さがかえって心配や不安を掻き立てるのであった。
「おまえ、まさか水穂になにかしたんじゃないだろうな。」
「いいえ、何もしていません、ただ、薬だけは何とか飲んでくれましたから、それでよかっただけの事です。それに、そうやって、都合のいい時だけこちらに来られるという、中途半端な対応はやめてもらえませんか。僕たちは、日頃の役割はすべて中止して、水穂さんの世話に当たっているのですから!」
ジョチの言い方は、何だか癪に障った。
「なんで波布のおまえがそんなことをいうんだよ!水穂の世話は誰がしているんだ!」
「当たり前でしょ。都合のいい時だけ来られて、ああだこうだという態度は一番困りますよ。水穂さんなら、杉ちゃんと由紀子さんが代わり番子に世話をしておられます。二人とも、わざわざ泊まり込んで、様子を見てくれるそうです。由紀子さんだって仕事を休んで、わざわざ来てくださってますよ。蘭さんも、それくらいの覚悟を持っていただきたいものですけど、出来るはずがないでしょう。そういうのなら、かえって来ないでいただきたいモノですね!」
蘭は、そういわれて、怒りというよりがっかりした。
「しかし、よく東京からこっちへ、今日中に帰って来られましたな。」
からかうようにそういわれて、蘭は、
「新幹線で急いできたんだ。危ないと杉ちゃんがいうから。」
と、だけ答えた。
「そうですか、今は便利な様ですが、かえって自分勝手も助長してしまいますな。では、ごめんあそばせ。」
ジョチは、そういって、玄関のドアをピシャンと閉めてしまう。今回波布とマングースのバトルは、波布の勝ちであり、マングースは完敗した。
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