第五章

第五章

「一体何をしているんだろうな、蘭のやつ。」

製鉄所では、杉三たちがそんな話をしていた。杉三は、縁側で、枕カバーをたらいに入れて、洗濯をしている所だった。

「いくら電話してもつながらないよ。」

「全く困るわね。」

隣にいた由紀子が、大きなため息をついて、スマートフォンの電話を切るしぐさをした。

「アリスさんにもお電話したけど、知り合いの所に会いに行くと言っただけで、それ以外何も聞いてないんですって。行き先も、どの電車に乗るのかも知らないそうよ。沼津駅から、小金井まで直通する電車があるということは教えたみたいだけど、何処のホテルに泊ったとかは、全く知らないって。」

せめてホテルの番号を聞けば、呼び出して貰うことも出来るが、それも知らないのであれば、手も足もでないのだ。

「あーあ。どうしたら蘭に知らせてやれるだろうかな。もうこのまま終わっちゃったら、蘭、大声を出して泣くぜ。」

「それで何で知らせてくれなかった!とか言って、大騒ぎするに決まってるわ!」

「うん、想像できるよ。その有様。」

二人がそんなことを言っていると、ふすまの向こうから、咳き込む音が聞こえてきた。

「杉ちゃん、ついでに之もあらってくれませんかね。」

と、ふすまを開けてジョチが言った。彼が差し出したバスタオルは、朱い液体がべったりとついている。

「何だ、又やったのか。どれだけ洗濯物を増やしたら、気が済むんかいな。」

とりあえずバスタオルを受け取って、たらいに突っ込む杉三だったが、由紀子はより深刻な顔をした。

「若しかしたら、今日で本当にだめなのかもしれないわ。」

「そんな事いいなさんな。こういう時は出来るだけ明るくふるまおう。」

と言って、口笛を吹きながら、洗濯を続ける杉三なのであった。

「もうなあ、洗濯機何て、役には立たんよ。こういう時は、人間があらった方がいいのさ、洗濯機に突っ込んでいたら、洗濯機が絶えず動き続けなければならなくなって、壊れちゃう。」

そんな事を言いながら、洗濯を続けている杉三に、由紀子は一寸恨めしい感じを覚えてしまうのであった。確かにいい声であるが、しあわせは、歩いてこない、だから歩いて行くんだね、何て歌っている声が、無理やりロックンロールを歌わされている、クラシックの歌手にみえた。

「それにしても、蘭さんにはどうやって知らせたらいいのかしら。スマートフォンに電話しても出ないし、奥さんも行先を知らないから、どうしようもないし。」

由紀子は、こんな明るい歌なんか歌っている杉三が、何だか羨ましかった。

一方な所、蘭は、勝代とその夫の正祐に言われて、一生懸命勝代の作品を審査していた。その間に何回もスマートフォンがなった。一応マナーモードになっていたから、勝代たちに聞こえてくる筈は無いのだが、蘭はうるさくてたまらない。かといって電源を切るわけにも行かず、蘭は、スマートフォンを音のでない状態にした。

「どうですかねえ、蘭さん、うちの勝代の作品。」

ふいに正祐がそういうことを言った。なので蘭は生半可な審査は出来ないなと、さらに勝代の作品を拝見し続けるのであった。

「蘭さんの刺青に比べたら、私の何か比べ物にならないわよ。この人は、タトゥーコンペティションにもでて、優勝したこともあるんだから。」

勝代はそういうが、そんな事、遠い遠いむかしだ。もう、蘭は過去に葬り去ってしまっている。

「そんな事、関係ありません。僕のより、色の使いかたがずっと綺麗です。」

「まあ、お世辞言って。」

勝代は、そんなことを言うが、その顔はとても嬉しそうだった。何だか、妻のアリスより、勝代のほうが、自分のことをより必要としてくれていると思った。

「やっぱり女性らしいですね。絵の描き方が繊細で、優しい感じだ。この観音様のお顔など、まるで優しいお母さんって感じですね。人間もこういう穏やかな顔で、毎日過ごすことが出来ればいいのになあ。」

どう見ても、それは不可能だ。でも、理想として、こういう穏やかな顔をして居られたら、それで一番いいのだろう。だから、あこがれの顔というのを、刺青として、体に入れておくというのは、誰かに守って貰っているという、安心感が得られるのだ。

「そういう顔が描けるんですから、勝代さんは本当は、」

蘭はそこまで言いかけて、へっくしょい、と大きなくしゃみをした。あら、風邪ですかと勝代に聞かれると、なんでもないと答えて、チリ紙を出すために、鞄の中に手を入れた。

すると、スマートフォンが凄く熱くなっているのが見える。あれと思って取り出してみると、着信が10件も入っていて、差出人はすべて影山杉三である。

「杉ちゃん。こんな時になんで電話何かするかな。」

おおきくため息をついて、取り出したスマートフォンを、もとに戻そうとすると、又電話の着信が入った。また、相手は影山杉三だ。なんでこんなタイミングの悪いときにかけて来るかなあと、蘭は嫌な顔をするが、

「ご家族からですか?」

と、正祐に言われた。

「いや、そういう訳ではなくて、、、。」

蘭は、口ごもりながら、返答をしたが、

「若しかしたら、蘭さんにお願いをするお客さんかも知れませんから、早くでたらどうですか?」

と、勝代に言われてしかたなく、電話の応答ボタンを押した。

「ああ、もしもし、杉ちゃん?」

とりあえず、蘭は、そう言ったのであるが、電話口から、でかい声で、こういっているのが聞こえてきた。

「おう、蘭か。やっとでてくれてありがとうなと言いたいところだが、今日は堅苦しい挨拶は抜きだよ。」

「杉ちゃん。人のスマートフォン十回も鳴らして、一体何の用だ?」

蘭は、自分が電話を十回も聞きそびれたのを忘れて、一寸声を上げた。

「もう、必要が無ければ十回も鳴らすわけないだろうが。」

「だから何なんだよ。いい加減に早く言え!暇つぶしの観光旅行に来ている訳ではないんだよ!」

「はあ、不倫旅行は、観光旅行とも言うんですかあ。」

杉三に馬鹿にされて、蘭は、またそういうことを言うが、いい加減に早く本題を言ってもらいたかったので、

「杉ちゃん、一体なんで電話をかけてきたんだ?」

と、もう一回言った。

「だからあ、水穂さん。」

それを聞いて蘭はハッとする。

「たまにしか会えない奴に、会いに行くのも大切だろうが、水穂さんのことも考えてやってくれ。」

「水穂がどうしたんだ!」

蘭は、周りに誰がいるのかも忘れて、すぐに声を上げた。

「おう。今朝からよ、すごく咳き込んでもう止まらんのよ。すでにタオルを何回も洗濯して、このままじゃタオルが、なくなってしまうぞ。」

それを聞いて蘭はハッとする。

「で、医者には見せたか?」

と、蘭はそう聞くが、

「それがね、今日は、」

と今度は杉三の方が、口ごもる。

「馬鹿!すぐに医者に見せに行くのが当たり前じゃないか!」

と、蘭は怒鳴った。すると、電話はぷつんと切れてしまった。バッテリーが切れたのである。その後いくら電源を入れてもバッテリーがないので、スマートフォンは起動せず、当然ながら電話をかけることは出来る筈もなかった。

蘭は、呆然として、持っていた鞄を落とした。

「蘭さん。」

ふいに正祐が蘭に声をかける。

「どうしたんですか。」

「水穂のやつ、もう危ないって、、、。」

やっと蘭は、ここまで言えた。勝代は、また蘭が遠くへいってしまうのかと、悲しそうな顔をしている。女ってそういうところが時に武器になる。しかし、蘭は、勝代のそういう誘惑に屈するどころか、それに気がつく余裕もないほど呆然としていた。

「蘭さん、帰った方がいいんじゃありませんか。水穂さんのことは勝代から聞きました。もう長くはないってことも聞きました。多分、今のはその電話でしょう。それなら、帰った方がいいですよ。」

正祐がその容姿に似合わずきっぱりと言った。でも、蘭は蘭で、折角勝代に会いに来たのだから、せめて一夜を過ごしたいと思っていた。それはもう正祐の出現で実現不可能になってしまったが、それでも、勝代さんと一緒に居たいという気持があったのだが、、、。勝代も勝代で、今蘭さんに帰ってほしくないという気持があるのが、今はじめてわかった。だから本当は、帰るなんてしたくないんだが、、、。

「蘭さん、本当にかえった方がいいですよ。何なら、僕のスマートフォンお貸ししましょうか。一応之、SIMフリーですから、別の人のSIMカードを入れても使えますよ。」

正祐は自分のスマートフォンを差し出して、器用にSIMカードを取り出した。

「蘭さんのSIMカード貸してもらえませんか。返却は、お宅に着いたら、宅急便かなんかで、名寄の僕たちの家に送ってくれればそれでいいですから。」

ところが蘭はそれは出来なかった。もし他人のスマートフォンを借りたら、自分と勝代との関係がばれてしまう。それでだけはどうしても避けたかったのである。

「ほら、貸してくださいよ。蘭さん、スマートフォンがないと、お宅へ連絡も出来ないでしょう。大丈夫ですよ。SIMカードを入れれば、相手の人の、画面には、あなたの番号が表示されますから、本体さえ見せなければ、ばれずに済むと思いますよ。」

そういわれても、蘭は、正祐からスマートフォンを受け取ることができなかった。そんななことをしたら、何だかこの二人に完敗してしまうような気がする。

「いえ、大丈夫です。なんとか小宮駅まで行って、そのまま家に帰ります。あの、一つだけ教えてほしいのですが、公衆電話は何処かにないでしょうか。それに電話帳があるでしょうから、そこで調べてタクシーを呼び出しますよ。」

「いいえ、無理よ。あなたは車いすでしょ。電話ボックスは小さすぎて入れないわよ。」

勝代がしずかに言った。

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