第四章

第四章

「今にわかるって、何がです?」

蘭はおもわず面食らって、そんなことを言ったのであるが、もう一度カウベルがカランカランとなって、ぎいいと入り口の戸が音を立ててなった。

「今にわかるって、まさか、」

勝代は、申し訳なさそうな顔をしている。

蘭は、その入り口から誰が入ってくるのかわからなかったが、勝代の顔は、真っ暗な顔をしていた。

「勝代さん、、、?」

戸の入り口から入ってきた人物は、しずかに蘭と勝代を見つめていた。どこか水穂によく似た面持ちのある、甘い雰囲気のある男性で、やっぱりげっそりと痩せていた。でも、少なくとも水穂のように、世のなかに対して完全に諦めているという雰囲気ではなかった。

「あなた、たしか伊能蘭さんって、仰いましたよね。」

と、彼は言った。蘭はいきなり自分の名前を知らない人物に言われてしまって、ぎょっとする。

「は、はい、僕は伊能蘭ですが、あの、どうして僕の名を知っているのですか?」

蘭は急いでそうこたえるが、

「ええ、此間、二人で口論になった時、勝代から、あなたの名を聞きました。」

と、彼が言うので、蘭は、また勝代の方を見た。勝代は、申し訳なさそうな顔で、そうなのよ、だけ言った。

「僕は、勝代の夫で、木田正祐と言います。」

と、彼は、一寸ばかりしわがれ声で言った。その痩せた体となんとも合わない声色で、蘭はおもわず気持ち悪いなあと思ってしまったほどだった。

「最近は、名前さえ調べれば、インターネットでなんでも調べられる時代になりました。勝代からお名前を伺ってから、SNSを使ったりして、こっそり調べましたよ。そうしたら、何と、静岡の富士という所では、かなり有名な大金持ちで、しかも海外の有名な大学院まで出ているほどの、優等生であるとわかりました。そういう訳ですから、勝代が、夢中になるのも当たり前なのかなあと思いました。僕は地元の高校しかでていない、しがない会社員ですから、比べ物になりません。ましてや、一年前から勝代の収入だけで生活しているものですからね。勝代には逆らわないようにしてきましたけれど、いくら何でも勝代が僕に愛想をつかしてしまったとは、思いませんでしたよ。」

「だって、あなたには、出来やしないじゃないの。そういう事。」

勝代はぼそりと言った。つまり、勝代が蘭に好意を持ったのは、そういう事だったのか。でも、あの時の、そして今でも、勝代はそれだけが目的ではないような気がしたのだった。

「僕はですね、確かに学歴もないし、会社内でも対して大きなポジションについているわけではありませんが、でも、勝代のために、自分に出来る事を一生懸命やってきた。大して出世した訳ではないけれど、言われたことは一生懸命やってきましたし、辛い中でも一生懸命耐えて、はたらいてきたんです。勝代も、そんな僕を見て嫌そうな顔は少しもしていませんでしたので、僕は、てっきり、勝代も僕を信じて、つましいけれど、二人で二人三脚でやってきたとずっと思っていました。いや、思わされていました。それが、僕がはたらけなくなってから、ガラッと勝代が変わってしまった。今まで、一生懸命やってきたというのはどこ吹く風で、勝代は、あなたに持っていかれてしまったんですからね。あなた、どうやってうちの勝代をむしり取ることに成功したんですか?もし、出来れば、男として、僕も勉強してみたいものですな。」

正祐の話は、見かけに合わずしっかりしていて、蘭は、一生懸命反論を考えていたが、何も思いつかなかった。

「僕も、あなたのテクニックと言いますか、それを真似してみたいものですね。僕は、男として、全部敗けてしまったんですから。」

それは若しかして、蘭が歩けないという事を気にしているのだろうか。歩けない奴に敗北したのはそんなに悔しいのか?と蘭は怒りのようなモノが生じて、

「違います、僕は勝代さんを盗んだわけではありません。」

とだけ言った。

「だったら何なんですか。勝代は、僕の妻です。それなのに、勝代があなたにありのままを見てほしいと要求する所から見て、あなたは単なるただの刺青師同士の付き合いという訳ではないでしょう?そのようなせりふ、思い出せば勝代が要求したことは一度もありませんでしたよ。今日だって、評論家の方が後援になってくれたからここで展示会をするんだと言っていましたが、本当はそれだけではない筈だ。偉い人の評価よりも、あなたに会う事のほうが目的だったのではないですか?勝代は何も言っていなかったけれど、僕も其れくらいわかりましたよ。それくらいわからないほどの、馬鹿な男ではありませんから。」

正祐はしずかに言った。蘭はそういわれれば言われるほど、自分が歩けないということを責め立てられているようで、反省する気になれなかった。

「一寸待ってください。あなた、確かに一生懸命はたらいていたのかもしれないけれど、本当に勝代さんの事を見てやっていたのでしょうか?今はむかしとは違います。そりゃ、昭和の中ごろぐらいであれば、お金さえ入れていれば妻はついてくるという文句が、まだ通用したかもしれませんよ。でもですね。今は違うんです。愛情があるなら、具体的な態度で示さなければダメなんです。だから、あなたは、そのような体になられてから、勝代さんに愛想をつかされたのではありませんか?そうでしょう?少なくとも、僕とは違って、歩いていられる訳なんですから、僕に比べて何十倍も出来る事があるんじゃありませんか。もうちょっと、そこに手をかけていれば、こんなことにはならなかったかもしれませんね。」

蘭は、相手を馬鹿にしている訳では無いのだが、これまでの勝代の態度を見ると、今更何が出来るのかと思いながら言った。

すると、蘭がそういうことをいうと、正祐は先ほどの意気はどうしたのか、がっくりと頭を下げて言った。

「そうですね。確かに僕は、勝代に対してそういうことは出来ませんでした。仕事して、ついていくのに精一杯だったんです。家に帰っても仕事の事ばかり考えていて、勝代には見向きもしませんでした。それは事実です。それでは、蘭さんのような人のほうが、よほどいいと思うに決まっています。わかりました。僕は自身の誤算を認めましょう。その代わり、蘭さん。あなた、うちの勝代を、これまで以上にしあわせにしてやってください。」

そういわれると蘭は蘭で、自身にも妻がいることを発言することは出来なかった。若しかしたら、正祐は、蘭のことを独身男だと思っているかもしれない。

「どうかお願いします。勝代を、頼みます。この顔や手を見ていただければおわかりになりますように、僕もさほど長くは持ちませんので。でも、勝代はこれから先、生きていかなくちゃいけないんです。いくら世の中便利になったと言えども、人間、一人ではやっていけませんから。それではいけないでしょう。まあ、きっと、僕の代わりに勝代を守ってくれる人が現れたということで、僕ももうあの世へのカウントダウンに入ったんだなと解釈することにいたしましょう。」

そう頭を下げる正祐は、どこか水穂と似たような所があって、何だか水穂にそういわれているようで、蘭は、返答を返すことが出来なかった。

「そうですね。勝代は、僕のところから盗まれた訳では無いのですね。僕がもうこの世を去ることが近づいていることを、知らせてもらったんでしょう。そして、勝代は、新しく守ってくれる人が現れて、もう心配することもないと。そういう風に考えなくちゃ。」

「あなたがいつもいつもそういう風に考えるから、私は嫌だったのよ!」

勝代が、一寸語勢を強くして言った。

「そういうところが、いかにも貧乏人という気がして、私はいら立ってたわ。」

なるほど、この夫婦、どうやらうまくいっていない様だ。まあ勿論片方が不倫をするというのは、そういう理由があるんだろうけど。

「あなたが、上司に酷いこと言われても、わざわざ明るい方へ考えて、そのまま同じところではたらいているから悪いのよ。それが原因で病気にもなったんでしょう。自業自得だわ!そんなに会社って大事なところなの?悪い上司の下でたたかれ続けるのがたいへんなら、ほかの会社に行けばいいでしょう!そしてそれはあたしのせいだって言うんだから!それじゃあまるであたしが、あなたを会社に縛り付けている悪妻と言われているようなモノじゃない!」

どっちもどっちだ。二人がもう一回これに対してちゃんと話し合っていれば、こういうことは防げたはずである。

「まあ、そうかもしれないね。君に出来るだけ迷惑をかけないと思って、体調が悪いのを我慢して、会社ではたらき続けたのが間違いだった。まあ、そこだけではなくて、色々間違いがあったと思うけど。でもいいよ、勝代には、新しい人ができて、その人が、僕よりも、はるかに学歴があって、大金持ちであれば、きっと別なやりかたで、しあわせにしてくれるだろうからね。結局、僕みたいな平凡すぎる人間は、誰かを愛してもしあわせにしてあげることは出来ないんだな。」

まるで自分に言い聞かせるように、正祐はそういうのだった。若しかしたら、年代が別の人に評価させたら、そんなに妻のためにはたらき続けることが出来たなら、何て立派な亭主だろうとほめてくれる人もいるはずだ。でも、今の人には、とてもそうすることは出来ないだろう。勝代も、蘭も、本人さえも。

「蘭さん、勝代、しあわせにしてやってください。それでは、よろしくお願いします。」

丁重に頭を下げる木田正祐に、蘭は、水穂にはこんなお願いを絶対に口に出させてはならないと思った。少なくともあいつは、死んだ方が幸せになれるという、変な幸福感は持ってもらいたくない。

この二人のような失敗は、あいつにはさせない。そう思いながら、彼の顔を見ている蘭だった。

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