故郷からの旅立ち


 降りしきる雪が、ほんの少し途絶えた日の事だった。

 屋敷の正面玄関の前に立つ月影は、旅装姿で晴れた空を見上げる。それは、冬は辺り一面銀世界に包まれる白西州の空が見せた、束の間の晴れ間であった。

 それをひとしきり眺めた後。月影は、見納めとばかりにもう一度蒼天を仰ぎ、その眩しさに目を細めると。旅装の外套がいとう(コートのようなもの)の裾を翻し、屋敷の外へ、一歩を踏み出した。


 

――――敬徳二十年杏月【旧暦の如月(二月)のこと。花国では、閏月以外の十二の月に、ひとつひとつ花の名前が付けられている】三日。

 四斎家が一つ、珀本家当主の跡取り夫妻の次男坊である珀月影は、勅命による招集に応じ、白・珀両一族の代表者として、正式に生まれ育った屋敷から離れることとなった。

 珀本家の屋敷の正門前には、小さな軒車が用意されており、月影の旅の供をする数人の従者たちが、慌しく荷物を馬の背に載せている。

 そんな状態の中、月影の家族である珀本家の人々と、彼らに仕える二十人ほどの使用人たちは、彼との最後の別れの挨拶をするために、正門前の道にずらりと並んでいた。

 月影は、まず使用人の一人一人と言葉を交わした。

 月影にとって、彼らは家族同然といえる存在だった。たとえ主家の坊ちゃんと使用人という主従関係はあったとしても。

 特に、月影を生まれた頃からずっと珀本家に仕えてきた古参の侍僕や侍女たちは、目を潤ませながら彼との別れを惜しむ。あんなにお小さかった月影坊ちゃまが、こんなにも大きくなられて……。そんな風に彼らは、月影の成長ぶりを、感慨深く覚えていた。

 使用人たちと一通り話を終えると。月影は、家族の前に立って、別れの挨拶をするために、彼らの前に立った。

 両手を胸の前で固く組み、深い揖礼を捧げる。こうして、白西州における立式の最敬礼を捧げた月影は、静かな声で、出立の挨拶を述べた。

「お祖父さま、父上、母上、竣影、そして月華。今まで、大変お世話になりました。特にお祖父さま、父上、母上に置かれましては、御三方の多大なる厚恩を受けましたことに、心より感謝申し上げます。この月影、決して忘れたりは致しません。皆さまのもとへ、正式に帰参できるのはいつかわかりませんが、必ずやまた、相見えとうございます」

 ここまで言い切ると、月影は顔を上げた。固く組んでいた両手を組み直し、拱手を捧げる。

 彼は真っ直ぐに前を向き、自分の大切な家族に、はっきりとした声で告げた。

「珀氏月影、行って参ります」

「月影…………。くれぐれも、無理をしないでくださいね」

 月影の母である次期当主の妻が、彼に優しく声をかける。すでに、一人目の息子をまだ幼いころに手放す決断をせざるを得なかった次期当主の妻とって、月影は一際手塩に掛けて育てた息子であった。

 そんな子を、一時的とはいえ遠くの地に遣らねばならないことを、彼女はとても残念に思っていたのである。

 彼女は、目元に袖口を当て、今にもこぼれそうな涙を、必死に我慢していた。

「気をつけなさい、月影。僕は、君の帰りを待っているよ」

 月影の父である次期当主は、大切な妻の肩を抱き、労わりながらも、穏やかに微笑んだ。

「母上……父上…………ありがとう、ございます」

 月影は、両親の姿に何だか泣きたくなった。これが、今生の別れでもないというのに。

「ああ…………。気をつけての」

「お祖父さままで…………。本当に、ありがとうございます」

 いつもは厳しい祖父にも、自分の身を案ずる言葉をもらった月影は、万巻の思いで、深く頭を下げた。

「ほら、あまり従者たちを待たせてはならない。行きなさい。月影」

 あまり、名残惜しくなると、よくないからの。そう心の中で呟いた珀本家当主は、月影にもう行くように促した。

「はい…………。わかりました」

 月影は、もう一度両親の顔を見ると、静かにその場を離れた。用意された軒車に乗り込む。

 それまで、おとなしく大人たちの見送りの言葉を聞いていた竣影と月華が、兄の乗る軒車に近づいた。

「…………兄上」

 竣影は、なおも不安そうな顔をして、兄を見つめる。

「頼んだよ。竣影」

 月影は、彼の意思の強さを感じさせる声で、静かに言った。

 その真剣な面持ちを見た竣影は、数日前に兄から託された言葉を思い出す。

 “できる、ではない。やりなさい。やる前からそんなことを考えていたら、何も成し遂げられないよ”

 そう、珍しく力強い口調で言い切った兄。

 “僕の代わりを、やってくれるね。竣影”

 大切なものを、自分に託してくれた兄。

 “忘れないで。なんでも一人でやろうと、しないこと。人ひとりの力なんて大したものではないんだ、困ったときは、周りの信頼できる人の力を、借りること。決して、意地や虚勢を張って、差し伸べてくれる手を、拒んだりしないこと。自分がということを、見失わないこと。約束してくれるね、竣影?”

 特権貴族である斎家の子息として――生まれながらにして力を持つ者として決して忘れてはいけないことを、精一杯伝えてくれた兄。

 そんな、兄がくれた言葉を、両手いっぱいに抱きしめて。

 竣影は、静かに言っていた。

「…………わかりました。兄上。あとは、すべて僕にお任せください」

 のちにこのときのことを振り返った竣影は、この兄の言葉は一生忘れなかったし、斎家の跡取り候補としての強い覚悟が自分の中にできた、と語っている。

 竣影の覚悟の気持ちが籠った言葉に、月影はうん、とうなずいた。

 軒車が、ゆっくりと動き始める。

 少しずつ自分たちから遠ざかり始めた軒車の後を、竣影と月華は走って追いかけた。

「兄上――――っ!! 兄上のお言葉は、絶対に忘れたりしません。また兄上がお戻りになられる日を、僕は…………僕は、待っています」

 竣影は、夢中で言っていた。

「月影—―兄—―さま――っ!! 必ず戻って来てね――――っ! 約束だよ――――!」

 月華も、兄に負けじと声を張り上げる。

 気が付くと月影は、軒車の窓から身を乗り出し、大きく手を振っていた。

「ありがとう――――っ! 竣影、月華、元気でね――――!!」

 月影は、高ぶる気持ちのままに、大きな声で叫ぶ。上を向いていないと、涙がこぼれそうだった。

 月影は、彼らが見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも、手を振り続けたのである。




 こうして、月影は生まれ育った珀本家の屋敷を離れ。琥連城にある白宗家の本屋敷で四月ほど、厳しい指南役から宮中に上がるために必要なことを、何度も根を上げそうになるくらいみっちりと、教え込まれたのである。

 季節は、確実に移り変わろうとしていた。


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