第三話 マーリィの小屋

 内海を越えようという『ザッケウス海橋』の建造は、街の一大事業となった。財が動き、大きな雇用を生み、地形が変わり、地図を書き換え、労働者のために物資が流れ、小さいながら市を立たせた。

 街の人々は、それを不安の眼差しで見守る。いかにマーリィが富豪で鳴らしているとはいえ、これほどの規模の事業をするのは目に見えて無謀であると思われていた。それに、つぎ込まれる財はもともと、街の人々から絞り上げて築き上げられたものだ。その意識が、老人と事業への不満も生む。

 建造現場の傍らには、一軒の粗末な小屋が建てられた。マーリィは自ら現場におもむいて、事業の指揮を執り、細かく指示を与えてまわる。そして時折、彼は小屋の中へと姿を隠す。

 その小屋に、ある時、不満を溜め込んだ住人たちが詰めかけた。

「街を食い潰す気か!」

 語気荒く叫ぶのは、内海の船乗り、港湾労働者、入り江での漁業を糧とする者たち。いずれもがっしりとして肉付きの良い、荒々しさにかけて引けを取らぬ、海の男たちである。

「出てこい、マーリィ!」

 気性も激しい若者たちが結託し、小屋の入り口から押し入ろうとする。それを必死に押しとどめるのは、まだ幼い少年、ティムだ。

「待ってよ。おじいさんは、今……」

 マーリィは今、小屋の中に居る。少年の様子からそれを確信した彼らは、にやりと笑ってうなずき合う。

「どけ!」

 なおも抵抗する少年を抱えるようにして、小屋の木戸を押し開ける。中には小さな机と粗末なベッドだけがあり、そこに老いたマーリィが伏せっていた。

「おじいさんは、今……」

 騒ぎを聞いていたのだろう、マーリィは震えながら、ゆっくりと身を起こす。そして木箱であつらえたベッドに腰掛けると、べそをかいているティムの頭にそっと手をのせた。

「いいんだよ」

 その声の、あまりの優しさ。そして、すぐさま若者立ちと向き合った老人の、鈍くも強く輝く眼差しに、おもわず先頭にいた男たちがひるむ。

「言いたい事があるのだろう?」

 マーリィが、老いた身体に鞭打っているのは見えている。詰めかけた人々は、老人と少年を取り囲み、抱えている不満をぶちまけた。

「渡し船が仕事を失う」

「大きな船が、内海を行き来できない」

「海が汚れて、魚が捕れなくなる」

 合間合間にマーリィへの罵詈雑言、恨みや妬み、根も葉もありはしない言いがかりまで、口々にまくし立てる。しかし、どんな激しい言葉をぶつけようとも、強く声を荒らげようとも、マーリィは眉尻ひとつ動かす事なく、じっと聴き入る。

 やがて用意してきた言葉たちも尽きたのだろう、怒声が勢いを失い、途切れたところで……マーリィは顔を上げ、静かに、しかし誰よりも強く、口を開いた。

「よくわかった」

 そして大きくうなずき、また人々を見据える。その眼光は、海で千年鍛え、山で千年研ぎ上げた、鋭い切っ先。政財界の数多あまたの難物、手練れを葬ってきたひと刺しで、胆力も腕っ節も自慢にしていた若者たちが、水を打ったように静まりかえった。

「君たちは、この街の行く末、皆の暮らしの事を、心から考えてくれている。……そうだね?」

 当然だ、との声が、後ろから、ためらいがちにあがる。マーリィは、その声が鎮まるのを待ってから、おごそかに告げた。

「わしは……君たちが来るのを待っていた」

 馬鹿にしているのか、それとも老いぼれたのか。先頭の男が向けた疑いの目が、老人の視線とかち合った。

 二人の意識が、宙で切り結ぶ。しかし、両者の間には歴然たる覚悟の差があった。そのほんの一合いちごうのうちに、老人は男をねじ伏せ、自身の言葉が心の底から出てきたものであることを認めさせた。

「……どういう、ことだ?」

 あくまで言葉を促すために、おずおずと訊ねる。

「よく聴いてほしい」

 居住まいを正す。人の波が、老人の顔をのぞき込む。しばしの間を置いて、マーリィは打ち明けた。

「……この橋は、向こうの岸までは届かない」

 ざわめきが起こる。事業の計画主が、自ら頓挫を明かしたのだ。どよめく群衆から、怒りの声が湧き起こりだす。

「無駄な仕事をさせているのか!」

「無駄ではない!」

 即座の一喝が、それを打ち破った。机の上に置かれた紙を静かに手に取り、マーリィは人々に、ことの真相を告げはじめる。

「あとには、作りかけの橋が出来上がる。それは商売の神に寄進され、橋の上は寺院の領地となる」

 ……そこに、いちを立てるのだ。

 確かに告げられた言葉に、男たちは思わず、唾を飲んだ。

 商売の神の領地で行われる、帝国の法にも税にも縛られぬ、自由な市。それこそが、この橋を造る目的なのだ。

「……できるものか」

 思わず太い腕を伸ばして、老人のシャツの襟もとを力任せに掴み上げる。マーリィは抵抗しない。しかし、怯えも戸惑いもせず、首を上げ、目を見開いたまま見上げ返してくる。迷いのない、真っ直ぐな、澄んだ瞳。

 その時、痩せこけた老人のシャツの隙間から、胸元に大きな腫瘍しゅようが鎮座しているのが見えた。男の手がゆるみ、ためらいだす。

「やめて、やめてよ! おじいさんの病気は……!」

 必死に取りすがる少年に応えるように、男はそっとマーリィをベッドの上に降ろした。そして強く震える手で、足下に落ちたマーリィの計画書を拾い上げた。

 橋の上に造られるであろう、市の想像図。若者はその紙片の中から、生まれてこのかた聞いた事もない『賑わい』というものを耳にした。

 マーリィは何度か咳き込んだ後、ベッドに横向きに寝そべった。すえた香りが、既にベッドに染みついている。この様子では、冬を越す事はできないかもしれない。

「わしの持てる、全てをす。最期の吐息、最後の一文いちもんまで」

 もはや、演技を疑う余地すらありはしない。今、こうして背を折って苦しい息をしている瞬間でさえ、相当な苦痛を耐えているに違いない。

 ティムが、必死にその背中をさする。マーリィは小さく感謝を告げると、もう一度上半身をもたげ、人々と向き合った。

「迷惑は、かけない。それを最小限にする手を、丁寧に打って回っている。どうか……生涯にひとつきりの為事しごとを、見届けてはくれまいか」

 言って、首を縦に深く折り曲げる。目を引き閉じながらのそれが、頭を垂れる仕草であることに、人々は間を置いてからようやく気が付いた。傲慢さと尊大さにかけても、誰にも劣る事のなかったこの男が、人にはじめて見せた姿であった。


 マーリィは全ての財産を黙々と処分していった。そしてほどなくして、夢見ていた活気を目にすることなく、あの小屋の中でひっそりと息を引き取った。

 橋は結局、両脇の岬よりもずっと手前までしか伸びる事はなかった。それはちょうど、賢者が建白書の設計図を折りたたんだ地点であった。

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