一章 パンデミック襲来 2—2


「よかった。通じたか。蘭、今、どこにおるんや?」


「パパ?」


「おまえ……無事なんか?」


父の声は、かすれて、ときどき苦しげな息がまざる。父が『無事』でないことは察しがついた。


「うん。僕は安全な場所にいるから」


「そうか……それなら、ええ。すまんかったな。蘭。信じてやれへんで」


「いいよ。そんなこと。パパ、大丈夫なの?」


父は電話口で、かわいた声をたてた。笑ってみせたらしかった。しかし、それは、あえぎ声にしか聞こえなかった。


この電話の向こうで、今まさに、父はヘルに侵されている。


「おまえに言っとかなあかんことあってな。蘭。この前、答えてへんかったやろ」


「何を?」


「おまえと花桜の、どっちが大事か」


あんなのはパパをつれだすための口実だよと、蘭が言う前に、父の声がした。


「決まっとるやないか。お父さんが一番大事なんは、蘭。おまえや。おまえのことが、世界で一番、可愛い」


「パパ……」


「蘭。元気で……長生きするんやで」


父は最期の力をふりしぼり、この電話をかけてきたのだ。


あとはもう、言葉にもならない、いくつかの単語が、わずかに聞きとれた。苦痛の声をあげまいと、必死に耐えている息遣い。


蘭に心配かけまいとしている。


「蘭……声を……おまえの……」


父はもう自分で話すこともできない。けんめいに、蘭は励ました。


今すぐ迎えに行くから、しっかりして、パパ。大好きだよ。


ずっと言えなかったけど、いつも迷惑ばかりかけて、ごめんなさい。お母さんを死なせてしまって、ごめんなさい。


こんな僕を愛してくれて、ありがとうーー


言い続けたが、やがて、手の内の機械から、父の息遣いは聞こえなくなった。静寂が痛いほど、耳につく。


「お父さん? お父さん……」


冷たく沈黙する機械を、蘭は、にぎりしめた。


でも、父からは別れの言葉が聞けた。死にぎわの精いっぱいの愛情を受けとった。


兄たちは、その後、どうなったのかさえ知らない。おそらく生きてはいないだろう。きっと、自宅にこもって、家族いっしょに死んだのだろう。


義姉や子どもたちと手をとりあって死んだのだろうか。


それとも、最期は一人ずつだったのだろうか。


希望は前者だが、生きながら溶けていくのだ。周囲をいたわるゆとりなんてなかったかもしれない。


父も兄も普通の人間だった。


二人とも府庁に勤務するエリート官僚で、先祖は公家。先祖伝来の土地にマンションを建て、世間一般よりは、だいぶ裕福ではあった。


が、それでも、この病の前には、ただの無力な人間でしかなかった。


この時期、こういう普通の暮らしをしていた人たちが、世界中で死んでいった。家族や恋人とともに。家族のない人は一人で。


まるで殺虫剤をかけられた虫のように、あっけなく死んだ。


父の死をとおして、その事実を蘭は、まざまざと感じた。


いったい、誰が悪かったのだろう?


水魚? それとも、水魚をそこまで追いつめた研究員たち? 変異細胞を持ち逃げした博士か?


誰が悪かったにしろ、世界は、こわれてしまった。いまさら、もとどおりにはできない。


その直後、藤村は封鎖された。


村の親類縁者や、各地に技術習得に行っていた者たちは、この日が来ることを告げられていた。


滅亡の予兆を感じたら、村に帰れと。


数日のあいだ、かれらを受け入れた。


そのあと、村は外界への道をとざした。


二カ所あるトンネルのうち、一方は大岩で完全にふさがれた。


反対側にある、もう一方のトンネルは前後に鉄扉をつけた。銃を持つ見張りが、このトビラを守った。


村人は以前どおり、農業に従事して暮らした。が、ときに、その生活をおびやかす侵入者に対しては、武器を持って戦った。


日本中に、生き残りの人々が集まり、コミューンが乱立した。それらの多くは自然消滅した。


なにしろ、この病は女の死亡率が百パーセントなのだ。


たとえ、どんなに強い男がいても、コミューンにウィルスが侵入したが最後。新生児が誕生しなくなり、人口は減少する一方だ。


この藤村をのぞいては。


世界中で唯一、この村でだけは、滅びの前の景色が保たれている。


村人はヘルに免疫があるので、女も死なない。新たな子どもも生まれる。稲穂は実り、平穏に日々はすぎる。


山奥のそのまた奥に、山脈と岩壁にかこまれ、封印された、この世で最後のユートピア。


時の止まったかのような幸福の里。


おそらく、外の世界で生きのびた人たちは、誰も思いもしないだろう。こんな場所が、まだ残されているのだと。


村は古くからの本当の名に戻した。二つとない不死の村。すなわち、不二村と。不老不死の秘密を守るために、藤の字をあてていたのは、平安時代以降だ。


しかし、やっかいごとがないわけではなかった。


薬屋と疫神教団だ。


疫神は常人ばなれした跳躍力や、変形後に得た翼で、不二村の天然の砦を越えてくることがある。


薬屋は自衛隊から、かっぱらった軍用ヘリを所持している。


大量のガソリンを確保しているらしく、パンデミックから二十年たった今でも、ときおりヘリが飛んでいるのを見ることがあった。


そんなときには、不二村の各戸にそなえつけた有線放送が、緊急警報を告げる。


村人たちは、いっせいに研究所に逃げこむ。


研究所には空から見つかりにくいよう、屋上に野草を生やしている。外壁はペンキで迷彩色にぬりつぶし、まわりを背の高い木で、かこっていた。


肉眼では背後の山と一体化して、見分けがつかない。


だが、その内部は水道、電気の通った快適な要塞だ。


水は山からの湧水。電気はその水流を利用した水力発電だ。村中の用水路のあちこちに発電機が設置してある。裏山には風力発電の風車もある。


研究所のみならず、村全体の電力をおぎなうに充分だ。


不二村はパンデミックが起こる二十年も前から、こうした準備が進められていた。外界と遮断されても、村人が自活していけるように。


設備も八頭家を中心に、大金を投資して、ととのえられた。


地下シェルターには多くの備蓄品が用意された。


食糧や薬品。日用品。とくに山中では手に入らない大量の塩。衣類や工具。ガソリン。各種金属。自給自足に必須の多彩な野菜の種子など。


それに、なんといっても武器だ。


銃や弾薬。刀剣類。手榴弾にダイナマイト。爆弾製造に欠かせないニトログリセリン。


それらの物資を有効活用できる人材も育ててある。村人たちを都会へ送りこみ、専門知識をおぼえさせた。


大工やエンジニア。医師、看護師、薬剤師。美容師や仕立て屋。鍛冶屋。水道局や電力会社で働いていた者もいる。


自衛隊で兵器のあつかいを学んできた者。アメリカで兵器開発に、たずさわっていた者。最先端科学のオーソリティとして知られていた者。


一番、役に立たないのは、自分かなと、蘭は思う。


まあ、娯楽として、蘭の書くミステリーを楽しみにしてくれる人たちもいるから、今でも新作を書きはするのだが。


蘭にとって、もっとも重要な仕事は、むしろ、生まれてきた子どもに『祝福』をあたえることだ。


子どものなかには、ヘルへの抵抗力が弱い者もいる。先祖の受けた御子の血が薄くなったのだ。


そういう子どもたちには、蘭から採取した血液成分を輸血する。つまり、血清だ。


こんなとき、蘭は思う。まるで、神になったようだと。

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