一章 パンデミック襲来 1—3


「蘭さん。水魚を責めないでくれ。


 あいつは毎日、ふつうの人間なら死ぬようなめにあわされ続けてきた。手足を切断されたり。劇薬を飲まされたり。


 まともな思考ができなくなってた。


 それに、これは言いわけにすぎないけど。薬を飲んでできる酵素は、血液感染さえしなきゃ、人から人へ伝染するものじゃないんだ。


 爆発的に感染するようにしちまったのは、城之内って博士だよ。研究所のデータを持ち逃げして、どっかの国に亡命したらしい。


 そいつが酵素を、細菌に寄生するバクテリオファージ化、とかいうのに成功したんだ。


 おれも原理は、よくわからないんだが。それで空気感染とかもするようになったんだってさ。


 パンデミックが起こったのは、たぶん、その寄生細菌が、どっかで洩れちまったからだ」


 にわかに、蘭は心配になってきた。


「それで、今、水魚は、どこにいるんですか? さっき、自分の命をかけてと言いましたよね?」


 龍吾は、くちごもる。


「水魚は……もう何年も、この研究所の奥深くにつかまってる。研究所のやつら、それが水魚のつかませたニセモノとも知らず、御子をとらえた気でいた。

 巫子にすぎない水魚はいらないってんで……どんなめにあわされてたんだか。

 ただ、最後に、つれていかれる前に、水魚が言い残した。

 研究所に異変が起きたら、自分が内部で事を起こしたときだ。だから、ためらわず、研究所を占拠しろ、と」


 猛が言う。


「研究員たち、あきらかにニュースで言ってた症状だな。その寄生細菌を、水魚がバラまいたんじゃないか?」


 だとしたら、蘭たちも感染してしまう。が、龍吾は首をふった。


「それはない。寄生を成功させたのは、さっき言った城之内って博士だ。

 そいつが自分の研究データやサンプルを全部、持ち去ったって話だ。ここには、もう残ってない」


 蘭は疑問をなげかける。


「じゃあ、どうして、こんなことに? くりかえし飲めば、突然変異すると熟知してる研究員が、テロメア修復薬を乱用するとも思えないし。それも、全員いっせいに」


 すると、とつぜん、ろうかの向こうから声がした。


「全員じゃありませんよ」


 声とともに、数人の研究員があらわれた。白衣を着た彼らに、安藤や池野は銃をかまえる。


 ところが、顔を見て、龍吾は、かけよっていった。


「ひさしぶり。元気そうだな。博史。菊ちゃんも、あいかわらず美人じゃないか」


「龍ちゃんは変わったねえ。なに、その茶髪。似合っちょらんよ」


「きっついなあ。四十年ぶりに会う、幼なじみにさ」


 たがいに肩をたたきあっている。


 かれらも龍吾と同じ、巫子体質の藤村の村人なのだ。


「こいつら、年をごまかすために戸籍ねつ造して、よその土地に行ってた、おれの幼なじみ。数年前に戻って、研究員として潜入してたんだ」


「よろしく。森田博史です」

「中西菊子です」


 五、六人の潜入者と、蘭は一人ずつ握手した。蘭の手をにぎるとき、男女問わず、ほおを赤く染める。これは、まあ、よくあることだ。


 ただし、続いて言われた言葉は聞きなれない。


「このかた……ですね。ひとめで、わかった」

「なんて美しいかただ。このかたこそ、おれたちが待ちわびていた人」


 あまつさえ、

「おねがいです。水魚は死にかけています。どうか救ってください」と、こんがんされる。


「僕が水魚を? どうやって?」


「ともかく、来てください。水魚はもう歩くこともできませんから」


 菊子たちに手をひかれて、ろうかの奥へ向かう。


 猛や薫が追ってこようとする。菊子は、とどめた。


「お二人は村人ではないので、水魚に近づいてはいけません。万一、傷口などから感染したら、死にますよ」


 感染? 死ぬ?


 それは、もしかして、研究員たちの現状に関係しているのか?


 まるで、水魚が病原のような言いかた。


 それに、東堂兄弟がダメなら、蘭だって、いけないんじゃないだろうか。


 すると、蘭の考えを読んだように、菊子が言った。


「あなたは大丈夫。もう免疫がある」


「免疫? なんの? まさか、ヘル・ウイルスの? そんなはずは……」


 いや、ほんとに、そうだったろうか。なんとなく、思いあたるふしが……。


 とにかく、今は水魚に会いたい。


 蘭は東堂兄弟と別れて、研究所の奥へ向かった。


 ろうかや研究室のあちこちに、研究員がたおれている。うめき声をあげ、もだえ苦しんでいる。


 すでに変形の始まっている者もあった。


 研究員への同情の念はなかった。かれらが水魚にしてきたことを思えば、かれらの苦痛は軽すぎるぐらいだ。水魚は、その数千倍も苦しんできた。


「みんな、血を吐いてるね」


「あれは必ずしも当人の血ではありません」


「じゃあ、誰の血?」


「水魚です」


 言われて、蘭は、さとった。


「水魚は、自分自身は奇形化に免疫がある。つまり、体内で変異酵素が発生しても、外見は変わらない。研究員にナイショでキャリアになれる」


 菊子は、つらそうに、くちびるをかんだ。


「そうです。水魚は自ら望んで、テロメア修復薬をあびるほど飲んだ。手渡したのは、わたしたちです。止めることはできなかった。水魚の意志は強固でした」


「つまり、水魚の血は、今、ヘル・ウイルスそのものってことだね」


「空気感染はしませんけどね。従来型ですから」


 つれられていったのは最上階だ。


 水魚は力つきるまで、それを続けたのだ。


 一歩も動けなくなるまで。


 自分の体を傷つけ、その血を研究員に浴びせ続けた。


 白い床に、たおれた水魚は、全身、血まみれ。


 まるで、赤い肌の人形のようだ。


 自ら食いちぎったのだろう。手指は、ほとんど残っていない。腕や足にも、数えきれないほど歯形が残っていた。


 そうやって自分を傷つけながら、研究員たちにヘルを感染させていったのだ。


 水魚は全身の血をながして、瀕死だった。


 春信の浮世絵から、ぬけだしてきたような美貌に、生気がない。


「みおっ!」


 蘭の声を聞いて、水魚は目をあけた。


「来てくれたんだね。蘭……君に会いたかった……」


「みお……なんで、こんな。君なら、治るんじゃないのか? こんなケガ」


 いつもの水魚なら、またたくまに傷がふさがる。失った指も生えてくる。


 水魚は悲しげに笑った。


「私は御子じゃないから……巫子の再生能力には限界がある。私は……実験に使われすぎた」


 もう再生する力を失ったというのか。


 それを承知で、水魚は、こんな暴挙に出たのか。


 以前、水魚は言っていた。自分は鬼神になるのだと。


 これは、まさに鬼神の所業だ。


 自分自身の体を武器に、水魚は一人で戦ったのだ。


「いやだ。水魚。兄になってくれると言ったじゃないか。逝ったら、いやだ。死なないで!」


 水魚にふれれば、蘭も感染するかもしれない。しかし、もう、そんなことも、どうでもよかった。


 蘭は水魚の血まみれの手をにぎった。蘭の両眼から涙が、こぼれおちる。指を失った水魚の手に、ふりかかる。


 蘭自身は気づいてなかった。


 その奇跡に。


 蘭の涙のかかった場所は、みるみる骨が伸び、筋肉がつき、血管や神経が構築され、再生していくことに。


 周囲で、ため息が起きたので、蘭は目をあけた。


 自分の起こした奇跡に、ぼうぜんとする。


 水魚の傷は急速にふさがり、ほおにも生気が、もどってくる。


「涙で傷をいやせる者は、これまでなかった。蘭、やはり君は『最後の完全な人』だ」


 そう言って、水魚は半身を起こした。さっきまで、死にかけていたのに、蘭を抱きしめる力は、しっかりしている。


「最後の……完全な人?」


「そうだよ。蘭。御子は君なんだ。御子は今、君のなかにいる」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る