一章 パンデミック襲来

一章 パンデミック襲来 1—1


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《夢 近未来1》



 藤村は島根県出雲地方の山奥にある。人口三百人ほどの小さな村だ。神話の里と呼ばれる出雲でも、ちょっとマニアックな伝説の残る村である。


 八つの頭と八つの尾を持つヤマタノオロチ。そのオロチをスサノオノミコトが退治する話は、出雲神話のなかでは有名だ。


 藤村の神話は、その後日談にあたる。


 退治されたオロチの肉を食って、不老不死になった男がいる——というのである。その男は古代から二千年たった今でも、村で生きているという。


 それが、村の神社に祀られている御子。


 そんな伝説は、蘭だって信じてなかった。初めて、この村をおとずれたときは。


 しかし、もはや信じるほかはない。あの未曾有のパンデミックを経験した今となっては。


「おーい、蘭! ここにいたのか」


 田のなかの、あぜ道をのんびり歩きながら、蘭は美しく風にゆれる穂波をながめていた。


 猛の声を聞いて、ふりかえる。少し、あせった顔で、猛は走ってくる。


「ダメだろ。一人で歩きまわるなって」


「心配ありませんよ。この村にいるかぎり、僕は安全ですから。村の人は、みんな親切で、やさしい」


「でも、まだ薬屋の残党が残ってるかもしれない。疫神とかさ。やつらが侵入してきたら、どうするんだ」


「そうはいうけど、最後に、やつらが偵察に来てから、何年もたつ。相討ちになったんじゃないですか? 予言どおり。予言の巫子の予知では、そろそろでしょ?」


「そうなんだけどな。断言はできないし」


 まったく、猛は心配性だ。何年たっても、そこは変わらない。


 まあ、出会った当初から、やたらとストーカーに追いまわされていた蘭だから、しかたないのかもしれないが。


「帰ろう。もう日が、かたむいてきたぞ」


「しかたないですね。この時間の景色が好きなんだけど」


 落日が山の端にかかり、いちめんの穂波が金色にそまる。この瞬間が好き。光の海をただよっているような気分になる。


 地下で、すごした期間が長いから、なおさら、そう思う。


 あのパンデミックのあと、世界は滅びた。


 たぶん、人口の九割は恐怖の病『ヘル』に倒れた。そのとき生きのびた、わずかな人々も、その後の争いで自滅した。


 二十年のうちに、いくつもの勢力が台頭した。最後に残ったのは、薬屋と疫神だ。


 薬屋は建前、製薬会社を名乗っている。ヘルのワクチンを完成させるため、各地から実験台をさらっている武力勢力だ。


 政府の人間がロケットで月に逃げたあと、まっさきに自衛隊の兵器や施設をうばい、勢力をのばした。


 そして、疫神。あの病の権化とも言える存在。


 その致死率と凶悪なまでの感染力から、いつしか『ヘル』と呼ばれるようになったウイルス。


 人間の遺伝子を突然変異させることで、人体を急激に変化させる。


 多くは、その過程で体が変化についていけず、生きながら壊死していく。


 全身の骨がゆがみ、皮膚がただれ、すっかり形状の変わった、人間の残骸とも言うべき、むくろをさらす。


 だが、その変化をのりきった者だけが、ヘル・ウイルスに免疫をもつ。以降は病に侵されなくなる。


 疫神は、変化の段階で、人間以上の筋力やESP能力を持つにいたった、特殊なキャリアだ。


 それはもう、まったく新しい種としか呼びようがない。


(そういう意味では、猛さんも疫神なんだけど……)


 夕日をあびる猛の背の黒い竜の翼を、蘭はながめる。


 もちろん、猛に生まれつき、そんなものがあったわけではない。


 今でも以前と同じ長身でハンサムな猛だが、背中の羽は、彼がヘル・ウイルスに感染したことを物語っている。


 もっとも、猛は事前に蘭の骨髄を移植されていたから、そのていどの変化ですんだのだが。


 今でも、ときどき思う。


 猛を自分のがわに引き止めたのは、蘭のワガママだった。そのことを猛は後悔していないのだろうかと。


 蘭たちは知っていた。


 あの幸福に暮らしていた京都のマンション。蘭がまだ、ただのミステリー作家にすぎなかったころ。猛たちが収入のとぼしい私立探偵だったころから。


 いつか、その日が来ることを。


 人類をほろぼす、ヘル・パンデミックが来ることを。


 水魚から前もって聞いていたからだ。


 初めて村をおとずれたとき、水魚と知りあった。


 水魚は不二神社の巫子であり、御子の血をひいている。そのため、百さいなのに、二十代にしか見えない。巫子は不死でこそないが、不老長寿なのだ。


「いいよ。蘭。今は行って。だが、君たちが、あの事件の第一報をニュースで聞いたら、すぐに、この村に帰ってくるんだ。恐怖の時代が始まる前に」


 水魚は別れるとき、そう告げた。


 だから、すぐにわかった。テレビで、そのニュースを見たとき。水魚の言っていたのは、このことだと。


 どちらかといえば、最初、それは地味なニュースでしかなかった。限定的な地域で、はやりだした、新種の風土病のように報じられた。


 患者の隔離は完全なので、日本へ入ってくることはないだろうと。


 昼ごはんを食べながら、テレビを見ていた蘭たちは、いっせいに叫んだ。


「来た! パンデミックだ」


「ほんとに水魚の言ったとおりになった」


「こうなってから、パンデミックが来るまでに、ほとんど日がないんだろ。急ごう」


 東堂兄弟は大急ぎで荷物をまとめ、ミャーコを移動用バスケットに入れる。


 蘭は二人を呼びとめた。


「待って。でも、父が——」


「そうか。蘭さんには家族がいるんだもんね」


 兄弟には、とっくに両親はない。夭折の運命のせいで、親類縁者は、ほぼ死にたえている。


「今すぐ、電話かけてみろよ。命が惜しければ、何も言わず、いっしょに来てくれって」


 長年、京都府庁に勤めていた元官僚の父も、今は退職し、所有するマンションからの収入で、悠々自適に暮らしている。


 祖父母は死去。


 母は蘭が中学のとき、睡眠薬を過剰摂取して事故死した。


 蘭の家族は父と、蘭をきらっている兄だけだ。


 兄は数年前に結婚し、子どもが二人いる。兄が蘭を実家に入れてくれないので、甥姪にも会ったことはないが。


 猛に言われ、電話をかける。すぐに父に連絡はついた。


「パパ。一生のおねがい。これから、僕といっしょに旅行に行こう。迎えに行くから、三十分後には出られるようにして」


「蘭か。どないしたんや? 急に」


「わけは聞かないで。どうしても、パパと旅行したいんだ」


「今夜は花桜たちと外食の約束しとるんやけどなあ」


 以前の父なら、蘭がさそえば、一も二もなく、かけつけてきた。


 でも、甥姪ができてからは、以前ほど蘭だけが優先されることはなくなった。とくに、母と同じ『桜』の名をもつ姪には甘い。


「花桜たちは、どこにいるの?」


「今は優那さんが買い物に、つれていった。友だちに会う言うとったなあ」


 それではダメだ。とても、つかまらない。


「ねえ、パパ。僕、こんなこと、今まで言ったことないよね。お願いだから、今回だけは僕のワガママ聞いて。僕といっしょに来てほしいんだ」


「蘭?」


「花桜と僕と、どっちが可愛いの? 僕のほうが大切なら、おねがい。僕と来て」


 電話の向こうで、とまどうような沈黙があった。


「……蘭、どないしたんや? なんや、ようす変やで」

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