第三章 忘れたくない⑤

「えー!? 風邪!?」

 次の日の朝、いつもの時間に起きてこない僕を母さんが起こしに来た。

「具合悪い。たぶん風邪。学校休む」そんな風に言葉を並べると、母さんがすぐに部屋の中へ入ってきた。

 こんな風に、母さんにおでこに手を当てられるなんて、いつ以来だろう。

「熱はないみたいだけど……でも昨日までテストだったもんね。それで疲れが出たのかも」

「学校には連絡しておくから、今日一日ゆっくり休んでなさい」そう言って、部屋を出て行こうとしていた母さんを、呼び止めた。

「あのさ、母さん」

 振り向いた母さんが「なに?」と首を傾げる。僕はしばらくの間、次の言葉を口にできなかった。

「どうしたの? お母さん仕事行かなきゃなんだけど」

「あ、えっと、あのさ……」

 そう言って、下を向いた。ふと自分の着ているスウェットが、随分シワシワでくたびれていることに気がついた。そろそろ買い替え時だなと思う。

 そんな事を考えるくらいに、僕は次の一言を発するのをためらった。聞きにくいことだってことは、自分が一番よくわかっていたからだ。

 だけど、意を決して聞いた。

「あの……もし僕が死んだら、どうする?」

 それは、ずっと気になっていたことだった。僕が死んだあと、母さんはどう思ったのか、どう思うのか、純粋に知りたかった。

 このままだったら、僕は確実に死ぬ。それなら、その後のことを少しだけ知りたいと思ったんだ。

 下を向いていたはずだったのに、強制的に上を向かされる。それが、母さんに胸ぐらを掴まれたからだとわかった瞬間――パン、というきれいな音と共に、左頬にビリビリとした痛みが走った。

 生まれて初めて母さんにひっぱたかれた。

「ちょ、痛った! なにすんだよ、仮にも病人なのに――」

「うっさい! こんのバカ息子が!」

 目の前の母さんは般若のような形相でこちらを見る。僕は恐怖で、それ以上何も言えなかった。母さんが胸ぐらを掴む手に力を入れる。

 自分も前に、健ちゃんに同じようなことをしたことがあるから、今ならその苦しさがわかるような気がした。

 母さんがジッと僕を睨みつける。

「こっちはねぇ! あんたの成長しか考えてないの、今とこれからのことしか考えてないの! それなのに、死んだら? ふざけんじゃないわよ。冗談でも親にそんなこと聞いてんじゃないよ!」

 怒っているはずなのに、母さんは泣きそうになっていた。胸ぐらを掴む手が震えていて、申し訳ない気持ちが込み上げる。込み上げるのに、「ごめん」と口にできなかった。

 パッと胸ぐらが解放される。部屋のドアに手を掛けたところで、母さんが再び振り返って言った。

「二度とそんなこと聞かないで。もし聞いたら」

 そう言って母さんが親指で自分の首を切るような動きをする。

「あんた、殺すよ」

 バン、と勢いよくドアが閉められた。

 僕の質問が質問だったとはいえ、息子に向かって母親が「殺す」というのはいかがなものだろう。というか、「死んだらどうする?」と聞いた後にすぐ殺されるのだから、どのみち死ぬことになるじゃないか。

 たぶん、母さんはわかっているんだと思う。こう言っておけば、僕が二度とそんなことを口にしないって、ちゃんとわかっているんだろうな。

 でも、母さんのあの瞳孔が開ききっている真っ黒な目はマジだった。

 うん、もう二度と言わないようにしよう。

 そう思って、(仮)病人らしくベッドに寝転んだ。


 次に目を覚ました時、時計はちょうど短針も長針も真上を向いていて、お昼になっていた。リビングに行くと、テーブルの上に母さんの書き置きがあった。

 どうやら、うどんをつくって行ってくれたらしい。冷蔵庫を確認すると、切られたネギやかまぼこがあって、これをトッピングにすることにした。

 温め終えたうどんの入ったどんぶりを目の前に、ふと、携帯を開いた。

 ぎょっとする。

『着信 三十七件』

 全て健ちゃんからで、きっと心配で連絡してきたのだろうと思い、僕は折り返した。一回のコールの後で、健ちゃんが出る。

「もしも――」

「なんでガッコ休んでんの!?」

 予想以上に大きな声に、思わず耳から携帯電話を離す。

「なんでって、風邪で休むって連絡いってるでしょ?」

「どうせウソだろ。わかってんだよそんなの」

 ――無駄なところで健ちゃんはちょっと鋭い。ほんと、無駄なところで、だ。

「はるちゃんとなんかあったんだろ?」

「なんで?」

「はるちゃんも今日休んでんの! こんなん二人の間でなんかあったとしか思えねーじゃん」

 そのあとで、インターフォンが鳴る。

 健ちゃんに「ちょっと待って」と伝えて、携帯を握ったまま、のぞき窓を見て目を見開いた。扉を開けて、言う。

「なにしてんの……健ちゃん」

 いつかのように肩で息をする健ちゃんがそこにいた。そばに自転車があったから、今日は学校からそれを飛ばしてここまで来たのだろう。

 彼の着ている制服のシャツは、汗で少し濡れていた。

「迎えに来た」

「迎えにって、どういうこと? てか学校は――」

「細かいことはいいから。早く、乗れ」

 そう言って、半ば強制的に自転車に乗せられる。自然と二ケツの形になり、漕ぎ役である健ちゃんが勢いよくペダルを踏んだ。

 自然と健ちゃんの肩に手を置く。今日も当たり前のように暑かったから、健ちゃんの肩は汗で湿っていた。

 自転車がシャーと音をたてて、熱いコンクリートの坂道を下っていく。流れていく景色も、いつもなら煩わしく感じる生暖かい風も、今はそれほど嫌ではなかった。

「健ちゃん、どこ行くの」

 迷いなくべダルをこぐ健ちゃんに聞くけど、返答はない。その代りに、彼は全く別の質問を僕に投げかけてきた。

「わたるっち、昨日、はるちゃんと何があったんだよ」

 そう言われたから、僕は昨日のことを全部話すことにした。


「記憶が消えるって……なんだソレ」

「ファンタジー?」と首を傾げる健ちゃんに、「違うよ」と言う。

「てか、幸せな記憶と楽しい記憶だけって、またピンポイントだな」

 健ちゃんがブツブツ言いながら自転車を走らせる。流れていく景色の中で、誰かが庭に水まきをしているのを見た。熱いコンクリートに打ちつけられた水が蒸発してする時の独特の匂いが、僕はけっこう好きだったりする。夏だなって感じるし、その何とも言えない香ばしい匂いが、なぜか少し切なさを帯びている気がするからだ。その切なさと夏の明るいイメージとのコントラストが、たまらない。

「健ちゃんが疑問に思ってた幸楽日記のバツ印は、記憶が無くなったって意味だったんだ」

「なるほどなー……でもなんか、そうとわかると、切ないな。今まで幸せな時もほんの一瞬悲しそうな顔をしてたのは、いつかそれが消えるって考えてたからなのかもな」

 長い下り坂に差しかかる。

 健ちゃんが「つれー!」と叫びながら、両足を広げた。

 ほんと、辛いと思う。

 頬に風を感じながら、青空を見上げた。

 大垣は、誰よりも楽しいことが好きで、誰よりも敏感に幸せを感じることができる人だ。本当は純粋にものごとを楽しみたいだろうに、消えてしまうという現実が、彼女のその気持ちに歯止めをかける。それが、健ちゃんの言う、悲しい表情に繋がる。

 冷静にそう考えて、自分はなんてちっぽけなんだろうと思った。

「あのさ、健ちゃん」

「ん?」

「僕、悲しかったんだ」

「なにが?」

「大垣の記憶から、僕とのことが無くなっているのが、悲しかったんだ」

 僕は、自分だけが覚えているという事実に悲しみを抱いた。あの楽しかった記憶を僕しか覚えていないということが、すごく悔しかった。

 でも、大垣だってきっと覚えていたかったはずで、それが叶わない方が悲しい。

「人間、小さいよね」

「そんなことないんじゃね? 好きなら仕方ないだろ。同じ立場だったらオレだって最初はそう思うよ。でも、わたるっちは今、ちゃんとはるちゃんの気持ち考えられてるだろ?」

「うん」

「それでいいんじゃね。他人のこと考えられるやつは、ちっちゃくなんかねーよ」

 顔は見えないけど、たぶん、健ちゃんが笑っている。いつもみたいに八重歯を見せて、目を細めている。

「結局さ、わたるっちはこれからどうしたいの」

 キキッと自転車が止まる。身体が飛ばされそうになって、健ちゃんの肩を強く掴んだ。

 僕はどうしたいんだろう。――なんて、考えなくてもわかっている。

「僕は、話がしたい。大垣と昨日の話をして、僕の考えていることを言って……ちゃんと、告白したい」

 健ちゃんが振り向く。やっぱり彼は、笑っていた。

「そう言うと思った」

 信号が青に変わる。健ちゃんはさっきよりも速いスピードで自転車を走らせた。街の色がどんどん変わっていく。速度を上げた自転車は、いつの間にか隣町にまで来ていた。

 そのうち自転車が、『ガーデンシティ広瀬』という看板が掲げられたオシャレな住宅街へと入って行く。そして健ちゃんが、とある二階建ての家の前で自転車を止めた。クリーム色の外観で、玄関の周りには名前もわからないような植物がたくさん並べられている。屋根には色の異なる瓦が乗せられていて。まるで絵画みたいだった。

 インターフォンの隣にある表札には、『大垣』と書かれている。

「話したいなら、ちゃんと話してこい。はるちゃんの部屋、二階のあのベランダのとこだから」

 上を見ると、ベランダの柵にピンクの花が吊るされた部屋があった。

「なんで健ちゃんそんなことまで知ってるの。てか、別に今すぐじゃなくても……まだ何を話すかまとまってないし、それに僕、こんな格好だし」

 着替える暇もないまま健ちゃんに連れられてきたから、家にいる時の格好のままだ。真面目な話をしようとしているのに、くたびれたスウェットなんて、あまりにもちぐはぐでかっこ悪い。

 そんな僕に、健ちゃんが呆れたように大きな溜息をつく。

「姿を見られたくないなら電話でもいいだろ。てか、今すぐじゃないとダメなんだよ。人間、思った時に行動しないと、時間が空けば空くほど余計なこと考えて、行動できなくなるんだよ。せっかくの決意が考えすぎのせいでがんじがらめになんの! 動けなくなんの」

 「だから、つべこべ言わず、今! ほら、レッツゴー!」そう言って、健ちゃんに背中をトンと押される。

「言葉なんてうまくなくていいんだよ。大事なのは、自分の気持ちを自分の声に乗せることだから。――じゃあ、オレここの奥にある公園で待ってるな」

 それだけ言って、自転車に乗った健ちゃんが住宅街の奥に消えて行く。その後ろ姿がどんどん小さくなって、そのうち陽炎に溶けていった。

 夏の眩しい太陽の下、僕はひとり、大垣の家の前に残された。

 これからどうしよう。

 考えようとして、やめた。

 ポケットから携帯を取り出して、震える指で電話帳を開く。そして目的の人物に電話をかけた。

 たぶん僕は、健ちゃんの言うとおり、余計なことを考えて行動できなくなってしまう人間だ。

 耳に当てた携帯から呼び出し音が鳴る。一回、二回、と耳元の音がどんどん数を重ねていく。なかなか途切れないその音に、どんどん不安が募っていった。

 健ちゃんが教えてくれた大垣の部屋は、昼間なのにカーテンが閉められていた。外からは、彼女がそこにいるかはわからないけど、僕はとりあえず健ちゃんを信じて電話を鳴らし続けた。

 もう少しで留守電になってしまうという時だった。呼び出し音が消えて、シャーという空気の音がする。

「……もしもし?」

 恐る恐る言葉を発する。数秒の沈黙のあとで、「もしもし」と小さな声が聞こえた。

 一瞬、耳を疑った。電話越しに流れてくる大垣の声が、僕の知っているものとはかけ離れていたからだ。彼女はいつもの元気な声じゃなくて、ついさっきまで泣いていたことがわかるほどの鼻声だった。

「えっと、大垣、元気?」

「元気だよ。航くんは?」

「僕も元気。学校は休んでるけど」

「あはは、わたしも。おんなじだね。今日生まれて初めて、お母さんに風邪って嘘ついちゃった」

「僕もだよ。まったく同じ理由でずる休みだ」

「お互い悪いヤツだね」

「そうだね……はは」

 普通の会話をしているはずなのに、電話を介すると、なんとなくぎこちないよう気がした。沈黙が怖くて、僕は急いで次の言葉を探す。

 でも、いつだって探し物はなかなか見つからない。

「航くん…………ごめんね」

 先にそう言ったのは、大垣だった。

「一緒にドーナツ食べに行ったこと、忘れててごめん。あと昨日、航くん残したまま帰っちゃってごめんね……」

 電話越しの大垣の声が震える。ここで泣かれても、僕はそばに行けない。

 でも、電話越しの息遣いは、たしかに泣きそうな人のそれに変わった。

「中学に上がった時にね、わたし、最初友達をつくらなかったの。新しく友達をつくって、楽しい思い出が増えて、それでもわたしはそのうち忘れていって……そのたびに辛い思いをするなら最初から友達なんて作らない方がいいって思ったの。わたしだけじゃない。そうすれば友達にも迷惑かからないからって」

 言葉の合間の沈黙で、携帯を当てていない方の耳に、セミの鳴き声が突き刺さる。ジワジワと鳴いて、すぐに力尽きたようにパタリと止む。そんな儚さが、今の状況に妙に合っている気がした。

「でもね……そんな毎日、全然楽しくなくて。教室で笑っている人を見ると、どうしても混ざりたいって、わたしもその輪に入りたいって思っちゃって。そのうち、人生一度きりなんだから、いつか消えてしまうとしても、今を楽しもうって思ったの」

 それから、友達をつくったという。もし、生活をしている中で消えてしまった記憶の中の話をされたら、幸楽日記を頼りに話を合わせたらしい。

 中学時代は、なんとかそれで乗り切れたという。

 大垣が「でも、やっぱりダメだね」と、あきらめたように笑う。

「昨日は航くんを傷つけちゃったし、やっぱりこれで誰かを傷つけるのは、わたしも辛い。だから航くん、お願いがあるの」

「お願い?」

 うん、という大垣の声が相変わらず震えている。その微妙なに、僕の心臓が敏感に反応する。本能的に次の言葉を聞きたくなかった。耳をふさいでしまおうかと思った。

 電話越しに、彼女が意を決したように、深く息を吸い込んだのがわかった。

「友達……やめよ」

 その言葉の後、彼女はしばらく何も言わなかった。そのが後悔なのか、なんなのか、僕にはわからない。

「誰かを傷つけるくらいなら、わたしは一人ぼっちでいい。楽しさなんていらない。幸せなんていらない。だって、どうせなくなっちゃうもん。いつか忘れてしまうなら、経験してもしなくてもおんなじでしょ?」

 その投げやりな言い方は、誰かに否定してほしいからなのだろうか。――いや、彼女は違う。きっと本心でこう言っている。

 でも、本当にそれでいいんだろうか。

 本当にここで投げ出していいんだろうか。

 そんな彼女をこのまま一人にしてしまっていいのだろうか。

 そんなの、ダメだ。

「……どうせ忘れるから、あきらめるって?」

「え?」

「どうせ忘れるくらいなら、最初からやらない方がいいって? 友達もいらないって?」

 大垣はなにも言わない。

「僕は、たとえ忘れるとしても、やったことがあるのとないのとでは、やっぱり違うと思うよ」

 思い出していた。

 初めて彼女とドーナツ屋に行った時、彼女は幸楽日記を書きながら、僕にちゃんと話してくれた。

「大垣は覚えていないかもしれないけど、ドーナツを食べに行った日、キミは僕に言ったんだ。文字にして残しておいたら、読み返したときにその日の気持ちとか、雰囲気とかはっきりと思い出せそうって。覚えてなくても、文字を見れば想像できるって、きっと、今までそうやってやってきたんでしょ? たとえ覚えてなくても、日記を読めば、過去の大垣はちゃんと楽しいことを経験して幸せを感じてるんだよ。それは、まぎれもない事実で、なんにも経験していないのとは全然違う」

 耳元で、鼻をすする音がする。僕は僕で、頬を滴る汗を拭った。

「大垣、ちょっと部屋のカーテンを開けてくれないか?」

「カーテン?」

 その声と共に、僕がずっと見つめていた部屋のカーテンが開いて、

「どうして……?」

 と、涙目の彼女と目が合った。

「この際――うん、大垣の気持ちはわかった。だから……大垣、僕たち友達やめよう」

 目を合わせたまま僕がそう言うと、大垣が傷ついたような顔をして「え」と呟いた。言いだしっぺがそんな風な顔をするなんてずるいと思う。

 でも、さっきの大垣の言葉が本心だけど本心じゃないとわかって少しだけ安心している自分がいた。

 彼女が精いっぱいの笑顔をつくろうとするけど、うまく笑えてない。

「友達解消……はいつから、かな」

「明日からかな」

「そっか……明日か」

 ポツリ、呟く彼女の声が悲しい。もちろん、その表情も、もう隠しきれないほど悲しいものだった。

「だからさ、友達やめて……明日から、僕の彼女になってほしい」

「えっ」

 イチかバチかの賭けだった。

 フラれたら、もちろん友達には戻れない。だけど、今想いを伝える方法はこれしかなかった。

 友達をやめて、大垣との関わりを無くす? ――僕にはそんなの無理に決まっていた。

「恋人になったら、僕がたくさん大垣を幸せにする。忘れるのが怖くないくらい、いつだってその日を人生でいちばん幸せな日にできるようにする。それでも大垣が忘れるのが怖いっていうなら、僕が代わりに全部覚えておく。どの場面も、どの一瞬も、どの感情も……大垣が失う分、僕が自分の中に残しておく。そしていつだって大垣に教える」

 窓越しに彼女が泣き崩れたのを見た。耳にはちゃんと、彼女の泣き声が聞こえている。

「でもやっぱり怖いよ……」

 大垣が涙声で言う。

「わたし、航くんのことが好きで……優しいとことか、健ちゃんに絡まれてる時に、ウザそうにするのにどこか嬉しそうなとことか、わたしのわがままに付き合ってくれるとことか、全部全部大好きで……ずっと苦しかった」

「うん」

「わたしは、幸せなこととか楽しいこととか忘れちゃうから、好きとかそういう気持ちはずっと諦めてたの。デートしてもいつか忘れるだろうし……今だってこうして告白されて、すごく嬉しくて、すごく幸せで……でもそう感じちゃうってことは、いつか絶対に忘れてしまうってことでしょ」

 大垣が「嫌だよ」と、駄々をこねるような声を出した。

「忘れたくないよ。怖いよ」

「忘れてもいいんだよ」

 僕の言葉に、大垣が首を傾げる。頭で考えないで、思ったままを口にした。

「忘れていい。怖がらなくていい。忘れたら、その日にまた僕が好きっていうから。その日を忘れたら、また何回も何回も好きっていう。忘れた日をまた記念日にしたらいい。また新しく始めたらいい。だから、なにも怖がることないよ。大垣は幸せを願っていいんだ。みんなと同じように、幸せになっていいんだよ」

 僕がそう言った瞬間、ブツと電話が切れた。

 窓越しに僕を見ていた彼女はもういなくて、伝わらなかったのかと思った瞬間、大垣の家の玄関の扉が勢いよく開いた。

「おおが――わっ!」

 名前を呼ぼうとしたら、彼女が僕に飛びついてきた。Tシャツにショートパンツ姿の彼女の体温が、重なった身体から伝わってくる。

「お、大垣…………僕、汗かいてる」

「大丈夫。わたしそういうの気にしないから」

 大垣が、僕の背中にまわした手にギュっと力が入れる。――僕が気にするんだけど、とは今回も言えなかった。

 僕の胸に顔をうずめる大垣が、ズッと鼻をすする。

「航くんありがとう……ありがとうっ」

 その言葉で、なんか身体の力が抜けた。きっと、その言葉には色々な意味が込められている気がする。

 夏の太陽の下、僕は彼女の頭に手を乗せた。

 ありがとう、と言いたいのは僕の方だった。


 大垣と別れた後、住宅街の奥へと進むと、右手側に小さな公園があった。ブランコと滑り台と砂場と――そんな最低限の遊具しかないような公園で、健ちゃんはひとり、ブランコに座っていた。

 ブランコは、近くにある大きな木のおかげで日影ができており、暑さはしのげているみたいだった。

「健ちゃん、おまたせ」

「おーわたるっち、意外と早かったな」

 健ちゃんの隣に座る。ブランコに乗るなんて小学生以来だ。高校生になってから乗ったブランコは、思った以上に小さく感じた。

「はいこれ」

 と、健ちゃんから赤い缶ジュースを渡される。汗をかいているけどしっかりと冷たいそれは、コーラだった。

「ちゃんと、話せたか」

「うん」

「そっか。よかったな」

 健ちゃんはそれ以上詮索せず、ただ優しく笑うだけだった。

 目の前には道路を挟んで四軒の家が並んでいる。この住宅街にある家は、どれも綺麗で立派なものばかりだ。

「健ちゃんありがとう。コーラも」

 そう言って、プルタブに手をかける。プシュっと音をたてたコーラは、噴水のごとく勢いよく噴き出した。

「うわっぶっ!」

 コーラが狙ったように僕の顔を汚す。ペッと唾を吐き出すと、隣の健ちゃんがケタケタと笑っていることに気づいた。

「いや~きっとわたるっち浮かれて帰ってくると思ったからさ、目冷ますために軽くふっといた」

 健ちゃんが「まさかここまで綺麗に噴き出すとはな」と、笑いながら言う。――前言撤回。さっきの感謝の言葉を返してほしい気分だ。

 しかもこの噴き出し具合から言うと、軽く振った、というレベルじゃない。

「さー! 帰るか!」

 そう言って、ブランコから離れて自転車に手をかける健ちゃんに向かって、

「つっめた!」

 缶に残っていたコーラをかけた。

 真っ白だった健ちゃんのワイシャツが茶色に染まる。デザインと誤魔化せないくらい、雑にかけてやった。

「なにすんだよバカ野郎!」

「そっちが先に仕掛けたんだろ、バカ野郎!」

「わたるっちはヨレヨレスウェットだからいいだろうけど、オレはワイシャツだぞ⁉ 少し考えろよ、バカもんが! うわ、まじベトベト。背中気持ち悪ぅ」

 健ちゃんが汚れたワイシャツを脱いで、Tシャツ一枚になる。自転車のカゴに脱いだワイシャツを突っ込んで、「はやく乗れよ」と僕にうながした。

 行きと同じように、健ちゃんの肩に手を乗せる。

 シャーと音をたてて自転車が走り出す。

 不思議だった。

 来る時と同じ道を走っているはずなのに、周りの景色は別物みたいに輝いていた。

 だからかな。

 そんな光景に背中を押されて、改めて言いたくなった。

「健ちゃん」

「ん?」

「今日、ほんとにありがとね」

 健ちゃんは返事をするかわりに、チリンチリン、と自転車のベルを二度鳴らした。

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