第三章 忘れたくない⑥
家に帰ったあと、僕はいつものように自分の部屋のベッドに寝転んだ。
コーラに染まったスウェットはさすがに着替えて、中学の頃のジャージを着る。ウルトラマンとドラえもんを混ぜたようなデザインは、はっきり言ってダサいけど、他に着るものもないから致し方ない。
天井をジッと見つめながら、考えた。
もしかしたら、今まで大垣の幸せ度数が増えなかったのは、彼女の記憶が消えてしまうという特性のせいだったのかもしれない。彼女がいくら幸せを体験しても、消えてしまうと思ったら、せっかくの幸せは水の泡となる。
幸せ以上に消えてしまう悲しさの方が勝っていたと考えると、つじつまが合う。
そう考えると、もしかしたら今日で大垣の幸せ度数に変化が起きているかもしれない。僕の今日の言葉で、少しは大垣の不安を消せたと思うんだけど、幸せかどうかは目に見えないからわからない。
ため息をついて目を瞑る。
――センドさん、現れないかなあ……。
こんな風に思うなんて、都合がいいってわかっている。昨日センドさんに対して、しばらく顔を見たくないと言ったのは僕自身だ。
それなのに今、大垣が幸せを感じているかどうかを知りたくて、センドさんに現れてほしいと思うなんて、そんなの自分勝手すぎる。
自分が死ぬ(かもしれない)日まで、あと二週間。
このままセンドさんが現れなかったら、自分が死ぬのか、はたまた生き続けられるのかわからない。
でも、僕自身の気持ちは固まっている。
もう死んでも平気なんて思わない。
僕は死にたくない。
大垣と結ばれて、今は幸せの絶頂で……生き続けたい気持ちがさらに膨らんだ。
生き続けたいというか、僕は生き続けなければならないとも思う。大垣にあんなことを言っておいて、二週間後に死んでしまったら、申し訳ない。かなり傷つけてしまうと思う。
今日彼女を見て、より思ったことがある。
僕は彼女を悲しませたくない。彼女の涙を見たくない。大垣にはいつでも笑っていてほしい。
だからこそ僕は、死ぬわけにはいかないんだ。
「死にたくないな」
ポツリ天井に向かって呟いたけど、返答はない。
――と思った時だった。
「貴方は死にませんよ」
無言でベッドから起き上がる。
バッと後ろを見ると、さっきまで僕が寝転んでいたちょうど隣にセンドさんが寝ていて、いつの間にか添い寝のような形になっていた。
『なにしてんですかセンドさん』とか、『急に現れないでくださいよ』とは、もう言わない。
「死にませんよって――ほんと、ですか?」
自分の声色が、随分明るい気がした。
センドさんがベッドから身体を起こして、フローリングの床に座る。いつもの光景に、僕は少し安心した。
「本当です。今日で大垣さまの幸せ度数が跳ね上がったので、貴方が死ぬということはなくなりました。貴方はちゃんと周りの人を幸せにできたと思います。だからこのまま生き続けることができます」
おめでとうございます、とセンドさんが淡々と言う。
嬉しいは嬉しいけど、昨日のことを考えると胸が痛い。このままじゃ駄目だと思って、僕はベッドから降りてセンドさんの前に正座した。
「すいませんでした」
勢いよく頭を下げた。
「センドさんの言ったとおり、僕は昨日、勢いだけであなたに感情をぶつけていました。でも、今日大垣に会って、友達に言われたとおり、思ったままを言葉にしたら、自分の気持ちがちゃんと伝わって……がむしゃらになりふり構わず頑張ったら、僕が望んだ結果になりました」
たった一日でそんなに変わるか? と思われるだろうか。――いや、そんなこと気にしなくていい。
今もさっきと同じように、自分の思ったことだけを言えばいい。余計なことは考えなくていい。
「今日、大垣と話をして、改めて思ったんです」
そう言って、顔を上げた。バッチリとセンドさんと目が合う。彼は表情を変えなかった。
「死にたくないって、このまま生き続けたいって、心から思ったんです。また死んでも平気なんて……とんだ嘘だった。僕は今、本当に毎日が楽しいです」
照れくさくて目を逸らしそうになる。でも、次の言葉をちゃんと伝えたくて、ぐっと我慢した。
「センドさん、僕に生き返るチャンスをくれてありがとうございました。僕、生き返って本当に良かったです」
目の前のセンドさんが、何度も瞬きをする。
目を瞬かせる間で、その目からスッと涙が零れ落ちた。
「え、ちょ、センドさん、なんで泣くんですか!?」
そう言って急いでセンドさんにティッシュ箱を渡す。
一枚だけ取ったティッシュを目の端に当てて、センドさんが声を震わせながら言った。
「よかったです……貴方にそう言ってもらえて」
オッサンが泣くところを初めて見たから、なんかちょっと複雑な気分になったけど、センドさんの涙は綺麗だった。
「あの、ひとつ、聞いてもいいですか」
僕の言葉にセンドさんが首を傾げる。
「なんで僕に生き返りのチャンスをくれたんですか?」
ずっと気になっていて、でもそんなに重要でもないだろうからと聞いていなかったことだ。
涙を拭いて、センドさんが微笑む。
「腹立たしかったんです、貴方のことが」
笑ったまま、センドさんがゆっくりと話し始めた。
「以前もお話しましたが、わたくしは十五の時、病により命を落としました。病自体は平気だったんです。生き続けるためならどんな治療にも耐えてやろうと思っていましたし、自分は絶対に治ると信じていました」
「でも、世の中気持ちだけじゃどうしようもないこともありまして」と、センドさんが眉を下げる。
「どんなに頑張っても駄目で……わたくしは医師の余命宣告のとおり、高校生になる前に死んでしまいました。病だけは、本当、気持ちや努力では、どうにもなりませんでした」
「当然ですよね」とセンドさんが笑う。
天国に行って神様に天の使いに任命されてからは、淡々とその仕事をこなした、とセンドさんは言った。驚いたのは、死んでからもちゃんと歳を取るということだったそうだ。
歳を取って、そこでの寿命を全うして、それで初めて生まれ変われるのだという。
「まあ……天の使いはまた違うんですけど」
「え?」
センドさんの声が小さくて、聞き返したけど、センドさんはそれを再び口にすることはなかった。
「話がそれましたね。わたくしは天の使いとして、亡くなった人から生前のお話を聞くのが大好きでした」
自分が初めてセンドさんに会った時のことを思い出す。
『どうでしたか、人生は』
天国へ続く道を歩き始めた時、そういえばセンドさんは僕にこう言ってきた。僕は、友達がひとりもいないということが恥ずかしくて、詮索されるのが嫌で、自分の人生を語ることをしなかったんだ。
「わたくしは、自分の人生を語れない人が嫌いです。亡くなってわたくしの元に来る人には、どんな話でもいいから自分の人生を語ってほしいのです。わたくし自身の人生が短かった分、自分よりも長く生きた人には色々な経験をしてほしいのです。こうして貴方に話していて気づいたんですけど、わたくしはきっと……他の人の人生を聞くことによって、自分が生きられなかった未来を想像していたんでしょうね」
寂しそうなその笑みに、胸が痛くなる。
あの何もない真っ白の空間で死者の話を聞いて、自分の未来を想像する――。その行為は、自ら孤独を加速させそうな気がする。十五歳に亡くなって、それからオッサンになるまで数十年……その間、センドさんは、そんな寂しそうなことを繰り返していた。
絶対に来ない自分の未来を数十年の間に何通りも想像したのだろう。
それは、自分には想像できないほど苦しかった。
「自分勝手かもしれないですけど、そのせいでわたくしは貴方にとても腹が立ちました。現世に未練のない貴方の態度がすごく嫌でした。自分よりも長く生きたくせに、どうして何もないのだろうって……よく考えると、一年ほどしか変わらないのですけど」
センドさんが笑う。なんか、生き返る前に無駄な毎日を過ごしていた自分が、申し訳なかった。
「なんか、すいません」
「謝らないでください。わたくしは貴方を生き返らせて良かったと心から思います。高校生も経験できましたしね」
「え?」
意味がわからず聞き返すと、センドさんは曖昧な笑みを浮かべた。
「さて、そろそろお暇しましょうか」
センドさんが立ち上がる。なんか、急に名残惜しくなってきた。
きっと、もう会えないんだろう。
死なない限りは、もう二度と会えない。
いや、会えない方がいいってことはわかってるけど、やっぱり寂しい。
「わたくしが消えたら、程なくして貴方は強い眠気に襲われるでしょう。その後、目が覚めたら、貴方は死んだ時の記憶も、重複して過ごした以前の三か月間の記憶も無くなります」
センドさんが淡々と言葉を並べる。
「もちろん、わたくしの記憶も無くなります。必要ありませんからね」
そっか……やっぱり無くなってしまうのか。
センドさんを迷惑に感じたことも、ぶつかったことも、もらった言葉も……すべて忘れてしまう。生き続ける代償は、少し大きい気がした。
「それでは、さよならです」
いつものように、センドさんが強い光に包まれる。ありがとうの気持ちを込めて、光に向かって手を振ろうとした時だった。
まるでヒーローが変身するみたいに、光の中のセンドさんがどんどん姿を変えていく。その顔から髭もシワも無くなって、そのうち元から少なかった髪の毛もすべて無くなった。
綺麗だった歯並びから八重歯がこぼれたのを見て、僕は目を見開いた。
「健……ちゃん?」
光り輝くセンドさんが、なぜか坊主頭の健ちゃんに変わった。僕はなにが起こっているのか全然わからなかった。
「いつも監視してたんだ。この姿で」
高校の制服姿の健ちゃんが笑う。頭の中は、まだ混乱している。
「オレ、ただの監視のためにわたるっちの高校に潜りこんだのに、高校生活楽しくってさ。ほんと、自分勝手な理由でわたるっち生き返らせたけど、オレの方が楽しんじゃったよ」
「待って、どういうこと……? 健ちゃんがセンドさんで、センドさんが健ちゃん?」
頭の中の整理がつかない中でそう聞くと、目の前の健ちゃんが頷いた。
「わたくしの亡くなる前の姿がこれだったんです。身体は弱かったんですけど、これでも野球部だったんですよ」
と、健ちゃんがセンドさんの口調になって、自分の坊主頭を指さす。別に、僕は今そんなことが聞きたいわけじゃない。
目の前にいる健ちゃんと、僕が知っているセンドさんが似ても似つかなくて、現実を受け入れたくない。
「じゃあ、僕の中の健ちゃんの記憶も無くなっちゃうってこと?」
少し間があいた後、光り輝く健ちゃんがゆっくりと頷く。
「そんなの嫌だよ! だって、健ちゃんは僕にとって初めての男友達で……たくさん他愛もない会話をした。小さな言い合いもたくさんしたし、初めて家族以外の人で僕の部屋に入ったのも健ちゃんだったんだよ。健ちゃんは、プライバシーは皆無だけど、思ったことをはっきりと口にできて、僕が悩んでいる時にはさりげなく真っ直ぐな言葉をかけてくれた。今日だって、健ちゃんのおかげで大垣と話すことができて――」
――って、そっか。
今思えば、それは全てセンドさんだったのか。
僕が迷わないように、僕が生き続けられるように……いつだって言葉で道を示してくれたのは、健ちゃんであり、センドさんだったんだ。
「わたるっち、オレ本当に楽しかったよ。自分が生きてたらきっとこうなんだなーって、想像じゃなくて、初めて経験できて本当に良かった」
別れのあいさつみたいなのを聞きたくなくて、子どもみたいに首を横に振る。
わかってる。もうすぐ彼が消えるって、頭ではわかっているんだ。
でも、
嫌だ。
消えないで。
これからもずっと、僕の友達でいてよ。
こんな風にいくらでも出てくる自分の叶わないわがままをグッと堪えた。
その代わり、今伝えたいことをしっかりと言葉にしようと思う。
「健ちゃん、ありがとう。僕、健ちゃんに出会えてよかったよ」
「うん、オレも! わたるっちに出会えて本っ当によかった」
八重歯を見せた健ちゃんの姿が、徐々に薄くなっていく。
「僕、健ちゃんのこともセンドさんのことも、忘れないから! 絶対に忘れないから!」
大きな声でそう言ったけど、光の中の健ちゃんはもう何も言わなかった。頷きもしなかった。
彼を包み込む光がさらに強くなる。
自分の目はちゃんと開いているはずなのに、真っ白でもう何も見えなくなった。
そんな光の中で、僕は健ちゃんの声を聞いた。
「わたるっち、長生きしろよな」
視界が落ち着くと、自分の部屋にはもう誰もいなかった。
僕は急いで勉強机に向かい、その辺にあったルーズリーフを小さく破いた。筆箱から油性ペンを取り出して、文字を書き残す。
書き終わった瞬間だった。
強い睡魔に襲われて、僕はもう目を開けていられなくなった。
本能的に『眠らなければ』と思い、倒れるようにベッドに転がった。
このまま寝てしまったら、センドさんのことも健ちゃんのことも忘れてしまうってわかっているのに、強い眠気に抗えない。
嫌だ。
眠りたくない。
このまま一生、起きててやるんだ。
絶対に忘れてなんか――
そんな風に思っているうちに、重い瞼が視界を覆った。
僕はそのまま死んだように眠っていたらしく、朝になるまで目を覚まさなかった、と母さんが言っていた。
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