第三章 忘れたくない④
「あれ? 今日は大垣さまとのデートの予定のはずでは?」
家に帰って部屋に入ると、フローリングの床にセンドさんが座っていた。
こんな風に最初からセンドさんがいるのは初めてで、この前のことを気にしているのかと思ったけど、今はそれを深く考えるほど、僕の頭に余裕はない。
大垣との話をしたくなくて、僕はセンドさんの質問を聞かなかったことにした。そもそも何も言ってないのに、どうしてセンドさんは僕が大垣と会っていたことを知っているんだ。
「無視するなんて感じ悪いですね」
と、センドさんが言う。いつもなら言い返すところだけど、僕はそれでさえスルーした。
制服からスウェットに着替える。僕の背後に座るセンドさんは、なにをするわけでもないのに、帰る気配もない。
今は一人になりたくて、センドさんに言った。
「今日はどうしたんですか? なにか用でもあるんですか?」
「ない訳ないじゃないですか」
さも当然のようにそう言ったけど、センドさんが現れる時は用がない場合がほとんどだ。
「というか、自分は無視しておいて、都合いいですね」
チクリと僕の矛盾を攻撃して、センドさんが前のように自分のまとっている白い布からモニターを出す。その画面には、当然のように幸福度数が書かれていた。
見たくないのに、自然と目がその名前を捉えてしまう。捉えてまた、傷ついた。
『十一パーセント』
大垣の幸せ度数が、増えるどころか減っている。
「以前これをお見せした際、わたくしは、時間はまだありますと言いました。ですが、もう七月です。あと二週間もすれば、夏休みがきます。それは、貴方が死んでしまった日が近づいているということでもあります。貴方は今、生き続けられるかどうかの瀬戸際にいるのです」
センドさんが熱く、強く僕に語りかける。
でも、今の僕には全然響かない。
そんな僕の様子がわかってか、センドさんが僕の両肩に手を置いた。
「大垣さまを本気で幸せにしないと貴方はまた死んでしまうんですよ!? わかってますか!?」
目を覚ませ、といわんばかりに身体を揺さぶられる。
「もっと本気になって取り組まないと貴方は――」
「あーもううるさいんですよ!」
気づいたら、センドさんの腕を振り払っていた。自分でも驚くほどの大声だった。
さっきまでセンドさんの手が乗っていた肩が、荒い息遣いのせいで激しく上下している。
「大垣を幸せにしなくちゃいけないことも、このままじゃ自分が死ぬことも全部全部わかってるんですよ! 自分なりに考えて良かれと思って行動して、だけどうまくいかなくて……」
今日だってそうだ。
大垣も僕も、今日を楽しみにしていて、両想いだと思って告白しようとも考えていた。映画の後にちょっとおしゃれなカフェにでも寄って、そこで想いを告げたらいい思い出になるんじゃないかって思っていた。
でも現実は、そんな漫画みたいにうまくはいかない。
『わたし、楽しい記憶とか幸せな記憶が毎日一つずつ消えちゃうの』
それどころか、自分じゃとても手に負えないような問題を突きつけられて、僕はもういっぱいいっぱいだった。
「そもそも生き返りの条件だって、もとはといえば、あんたが勝手に決めただけじゃないですか。周りの人を幸せにって、こんな風に幸せ度数を見せられてもどうしたらいいかなんてわかるわけない。条件にするくらいなら、どうしたら大垣を幸せにできるか、具体的に教えてくださいよ。そんな説教みたいに言うなら、教えてくれたっていいじゃないですか。そしたらあんただって、僕に怒りの言葉を浴びせるみたいな、そんな無駄な労力使わなくたってよくなるでしょ」
目の前のセンドさんは何も言わない。だから僕は、わがままに自分の思っていることをぶつけた。
「ほんとは最初から生き返らせる気なんてないんでしょう? だからこんな実現不可能な条件にしたんですよね?」
「ちが――」
「もういいですから!」
そう言って、強く遮った。
「別にもういいですから。僕の命は一度消えたものだったし、また死んでも平気ですから。だからもうほっといてくださいよ。僕、しばらくはセンドさんの顔見たくないです」
そう言った時、僕はセンドさんの顔を見られなかった。自分の今の言動は八つ当たりだってわかっていたからだ。
しばらく沈黙が続いた。いつかのように、ゴーというクーラーの音が聞こえる。僕はできるだけ早くこの時間が過ぎてくれればいいと思った。
僕の言葉で、さっさとセンドさんが消えてくれればいいと思った。
「そうですか」
頭の上から降ってきたその声は、とても冷たかった。
「貴方がそう言うなら、わたくしはもう、なにも言いません。貴方の前にも現れません」
そう言って、センドさんが立ち上がる。僕はまだ、彼の顔を見ることができない。
「たしかに生き返らせたのはわたくしですし、それは貴方の意思ではなかったのかもしれません。でも、わたくしは知っています。わたくしが生き返らせることができると言ったとき、貴方はたしかに嬉しそうな顔をしました」
ドキッとした。
生き返りを提案された時、自分がどんな顔をしていたかは覚えていないけど、センドさんが嘘をつくとは思えない。
あのとき僕は、たぶん、生き返るのが嬉しいと思ったんだと思う。
「貴方は本当に、自分が生き続けるための努力をしましたか? 本気になって、大垣さまの事を考えましたか? 貴方は今、頭の整理ができていないだけで、勢いのみで感情をぶつけていませんか?」
――図星で、何も言えない。
きっとセンドさんは、僕のことが全部わかっているからそう言ったのだ。
「生き返る前、天国へ続く扉にご案内しているときも思いましたが、貴方には少々投げやりな部分があります。全力でやる前にあきらめたり、自分にとって不都合なことがあるとすぐに逃げようとしたりする――それが貴方の悪いところです。変えなければならない部分です」
センドさんの言うとおりだ。
僕は自分に不都合なことがあると、いつも『別に』という言葉を使って逃げていた。そうすれば、自分の痛いところをつつかれないから。自分を簡単に守ることができるから。
――そう考えていたけど、今はそれも通じない。
センドさんは、僕のそんな部分を変えなければって言ったけど、人間そんなに簡単に変われるものでもないと思う。
「もし変われないとすれば、それは貴方が本気で変わろうとしていないからです」
何も言っていないのに、心を読み取ったみたいにセンドさんが答える。
「人間、特別な力や能力を必要とするもの以外、できないことはないのです。やろうと思えば何でもできるのです。じゃあどうしてできないかといえば、それは本気じゃないからです。本気でやろう、絶対にできる、と思っていないからです」
さも当然のように、センドさんが真剣な声色で言う。
「人生は案外自分の思った通りに動いていきます。何かに挑戦するとき、どうせ自分には無理だろうからと思うことありますよね。その時点で、自分からマイナスをひきつけているのです。そう考えているから、中途半端な努力しかできないのです。中途半端な努力で満足して、それが報われないと、やっぱりと思ったり、逆にその程度のくせに、こんなに頑張ったのに、と思ったりするんです。貴方の場合は後者ですね、たちが悪い」
皮肉がズシリと重くのしかかる。
そんなこと言ったってしょうがないじゃないか、と心の中のえなりが言う。
だって、これ以上ないくらい全力で頑張って、それが報われなかったらと考えると、程よい努力で留めておいた方が安心するじゃないか。
「報われなかったら、そのときはそのときです。そのときに考えればいいのです。たとえ報われなくても、全力で頑張ったことは、後悔以上に大きな学びを与えてくれます。全力は、決して無駄にはならないのです」
アツい言葉が降りかけられる。
変だなと思う。前だったらこんな風に暑苦しい感じは苦手だったのに、今は胸が熱くなるほど心地いい。言葉が染みるということを、僕は今、全身で実感しているみたいだ。
「話を戻しますが、以前にも言ったとおり、どうしたら大垣さまを幸せにできるかは、わたくしにもわかりません。ただ、あきらめないでもう少し頑張ってみませんか? 再び亡くなっても後悔しないくらい、がむしゃらにぶつかってみませんか?」
センドさんの声が、いつものように心地いいものになる。なんでかわからないけど、目頭が熱くなった。
「時間はあとわずかです。脅しではなく、本当に今のままなら貴方は確実に以前と同じように死んでしまいます。それだけは、忘れないでください」
強い光に包まれて、センドさんが消える。
ベッドに寝転んだら、自然と涙が溢れ出た。涙の意味も解らずにベッドを殴ったけど、全然手ごたえはない。
それが悔しくて、自分の顔を手で覆った。声が抑えられないくらい泣いた。
どうしてこんなに涙が出るのだろう。
もちろんセンドさんの言葉が心に響いたってこともあるけど、それだけじゃないような気がした。
じゃあどうして? ――それは、なんとなくわかっていた。
悔しかったからだ。
大垣に対して、僕はどこかで『こうすれば幸せと感じてくれるだろう』と思っていた。無意識に期待していた。
それが今日、裏切られたような気がして、悔しかった。
『やっぱりわたしは、幸せとか楽しさとか、そういうのを求めちゃいけなかったんだ。こうなっちゃうなら……やっぱり一人でおとなしく毎日を過ごすようにしてればよかった』
こう言った大垣を追いかけられなかった。
「そんなことないよ」って、そんな気の利いた言葉も言えなかった。そして、センドさんに当たった。
そんな、どこまでも自分中心にしか見られない自分が、最高にかっこ悪くて悔しかったんだ。
でも、今更どうしたらいいのかわからない。大垣にもセンドさんにも、何も言えない。
僕はまた、何もできないまま死んでいくのかもしれない。
今度死んだら、僕はどうなるのだろう。センドさんは、再び僕を天国まで案内してくれるだろうか。その前に、センドさんと会える保証はあるのだろうか。
天国に行ける保証は? 誰にも出会わず、一人でどこかわからない場所をさまようことになったら? ――そんな風に考え始めたら、もう止まらなかった。
ベッドから身体を起こすと、自分の心臓が随分早く動いていることに気づいた。
また死んでも平気、なんてそんなの嘘だ。死ぬとわかっているうえでその日を迎えるというのは、たまらなく怖い。
生き返ってからの毎日は本当に楽しかった。
死ぬ前はずっと一人だったから余計にそう感じるのかもしれないけど、学校で誰かと会話ができるのが嬉しくて、本当に毎日が新鮮だった。
今まで縁のなかった恋をして、勝手に家に上がり込むちょっと迷惑な友達もいて、まるで自分の人生じゃないみたいだった。学校に行って、僕の周りに当たり前のように人が集まることが、不思議だったけど嬉しかった。
大垣はアホだけど一緒にいると楽しいし、健ちゃんはプライバシーが皆無だけど、いざという時に僕がいちばん欲しい言葉をくれる。
大垣とも、健ちゃんとも、離れたくない。もちろん、父さんと母さんとも、みんなと一緒にいたい。
本当は、僕だって死にたくない。このままずっと生きていたい。
今度死んだら、僕はどうなるのだろう。――二度目の疑問は、この世に対してのものだった。
僕がいなくなったら、父さんは、母さんは、大垣は、健ちゃんは、どうなるのだろう。どう思うのだろう。
誰ひとり悲しませたくないな、と思った。
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