第15話 8月12日に思うこと

※凄惨な事故の話を扱います。ご了承下さい。

不適切だと思われるような内容がありましたら、お教え下さい。書き換えか、本エピソード自体の削除を検討します。



毎年、8月12日になると、思うことがあります。

昭和60年8月12日。御巣鷹おすたかの尾根に日航機123便が墜落。死者520名。生存者4名。

元号が令和になったこんにちから見ましても、凄惨な事故であります。

有り体に申し上げますと、私はこの事故の“世代”ではありません。リアルタイムで事故のニュースを見たわけではなく、遺族やJALの関係者でもありません。

小学生のとき、授業で先生が話して下さったのが最初だったと思います。

その後、上野村に観光する機会があったり、遺体安置所のあったという場所の近くを通ったり、事故に関する本を読んだりして、知識をつぎはぎしました。

その中で、紺藤から皆様に発信したい内容があります。



事故後の医療機関の迅速な対応です。



飛行機の墜落現場が特定できたのは、事故から一夜明けた13日の早朝。

生存者が確認され救出作業が始まったのは、同日11時頃。

生存者はヘリコプターで搬送され、藤岡市の病院に運ばれました。

報道陣は、こぞって事故の情報を手に入れようとしました。遺体安置所の近くのNTTの鉄塔に上ったとか、混乱した状況の中で遺体安置所に立ち入り棺の中の写真を撮り、週刊誌にその写真が載ったのだとか。仕事とはいえ、行き過ぎでしょう。必死だったとも思いますが、やはりやってはならないことです。

病院にも、報道陣の手は伸びます。

記者が白衣を着て病院に潜入したり、生存者の写真を撮ろうとストレッチャーの布を外してカメラを構えたり。

海外からも注目され、病院の事務所には英語の電話もかかってきたそうです。

命の危機とメディアから生存者を守ったのは、医療機関の対応のお蔭だと思っております。



生存者を受け入れ治療に専念した病院は、今は別の場所に移転しました。

遺体安置所であった市民体育館や学校は一部を除き、今は市民ホール、大学のキャンパス、市庁舎などに変わり、面影は残っていません。

市民体育館の近くで、警察や医療関係者を迎えてくれたというラーメン屋さんは、駅の方に移転してしまい、その土地には住宅が建てられました。

市民ホールの隣の公民館に、事故の記録の碑が建っています。

上野村の慰霊碑まで脚を運ぶことが難しい私は、その記録碑を訪ねることがあります。事故を忘れないために。功績も忘れないために。



     ◇   ◆   ◇



事故に関する書籍として、飯塚諭『墜落遺体』(1998/6/24 講談社)などがあります。

生存者に関する内容は別の著者を参考にしましたが、書誌情報を控え忘れ、ここに明記することができません。大変申し訳ありません。

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