第1話。きのう

「愛しい妹。いい?その短剣で王子の心臓を刺すのよ!そうすれば、あなたは泡にならずにすむわ!」


 深夜……

 姉姫達の声が、泣き疲れてうつ伏せた人魚姫の耳に残っている。


 泣き叫びたくても声を失った身にはそれさえ出来なかった。

 ただ胸の中には、

 "どうして?どうして?"という想いばかりがある。


『王子様を嵐の海から助けたのは、わたしだった』

『恋焦がれて、海の自由で楽しい生活も捨てて、足を得るために美しい尾鰭おびれを捨てて、声すら海の魔女に差し出して』

『それほどまでして、やっと人間になってお側に来れたのに』


『きっと、あの方は、わかってくださると、わたしを愛してくださると信じていたのに』


『どうして?』

『どうして?』

『どうして?』


 行き場のない想いと底知れぬ絶望感に、暗い海底に何処までも沈みながらはかない泡になっていく自分の姿が浮かぶ。


『嫌よ……そんなのは嫌……』

『わたしは貴方の為に何もかもを捧げたのに……』


 人魚姫の胸の中にくらいものが芽生えてくる。

 それは無邪気だった人魚姫が初めて知る嫉妬や憎しみという感情だったかもしれない。


『何故、彼女隣国の姫なの?彼女は王子様をたまたま見つけて介抱しただけじゃない!』

『なのに王子様は何もかも捨ててまで側へと来たわたしでなく彼女隣国の姫を選んだ……』

『あんなに、可愛い娘よ、と微笑みかけてくれたのに……』


『叶わぬ想いだというなら、いっそこの短剣で……』


『そうすればわたしはまた、あの懐かしい海に戻れる……』


 いつの間にか側に放り出されていた短剣を握りしめる。


『言葉を話せなくても、わたしの気持ちはわかっていると信じていたのに……』


 ………………。


 ………………。


 ふと、


『本当に……そうだったのだろうか』


 憧れて、恋をして…。


『わたしは自分の意志で尾鰭と声を海の魔女に差し出して、人間の足を手に入れて、王子様の側に来たのではなかったの?』


 わたしが、そうしたかったから。


『そして声は失ったけれど、わたしは王子様の側で幸せだった』


『話せなくても伝わると信じて……』

 でも

『わたしは伝えるための努力をしただろうか』


 彼女隣国の姫が王子様に寄り添って、王子としての重圧や悩みを話すのに黙って耳を傾けていた時にも、初めから声を失くした自分には出来ないことと諦めていたのではなかったか。


『勝手に恋して、此処に来たのはわたし』

『王子様に嵐の海で助けたのはわたしだったと打ち明ける術は本当に言葉しかなかったの?』


 怖かった。

 人魚姫としての自分を拒絶されることが。


 だから


 声を失くしていることを言い訳にして逃げていた。


 王子様がわたしでなく隣国の姫を選んだのは誰のせいでもない運命。


 ひとの気持ち、想いだけは、片方だけではどうにもならないものだということを


 人魚姫は知ったのだった。



 そうして、結婚式の日がきた。

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