第11話 青と夏
この日、内勤だった藤間くんの方が少しだけ早く退勤した。私は海浜幕張で1本だけ入っていたイベントの取材、それからラジオ番組の生中継の立ち会いを終えて、オフィスに戻る途中、乗り込んだエレベーターの扉が閉まる瞬間、向かいのエレベーターから出てくる藤間くんを垣間見た。待ち合わせは六本木ヒルズの目の前、大きな蜘蛛のオブジェ。その長い脚と平行に立つ、藤間くんの後ろ姿。ついさっき見かけた白いTシャツはシンプルだけど、肩のシルエットに少し遊びがある。おしゃれさんだなあ…自分の差し障りない仕事着を省みるとますます正面から声をかけるには恥ずかしく、斜め後ろからそっと近づいた。
「お疲れさま、です。」
どんな風に声をかけようか考えすぎて、発した瞬間、声は自分でも驚くほど震えていた。振り返る彼の視線がこの上なく優しい。結論から言えば、匠さんと初めて会った日、会話に困った30分より遥かに長い時間を過ごさないといけないプレッシャーは待ち合わせ場所に向かうまでがピークだった。
「ドラえもん、これ毎年すごいですね」
六本木ヒルズの麓は夏になると、近隣にあるテレビ朝日とコラボしてか、さまざまな秘密道具を持ったドラえもんの大群オブジェが出現する。それは集まっていたり、1体だけだったり、配置のルールはわからないものの、何となくその年の劇場版ドラえもんによって、テーマ性はあるように思えた。とにかく夏休みの六本木ヒルズは普段と違って親子連れでごった返している。また1人、ドラえもんに駆け寄る子供の方を指して藤間くんは言う。
「毎年ドラえもんが並ぶと夏が来たなあって、思うんだよね。」
「それ、わかります。」
「あと、毎年暗記パンのドラえもん探しちゃう」
「暗記パン推しですか?」
「だってなんかパン持っててかわいいでしょ。なんか見ちゃうやつ、いない?」
「うーん…強いて言えば、今年はミニドラがいなくて寂しいです」
「ああ、わかる!」
快活な大学4年生の青年は9歳年上の三十路会社員の歩幅に合わせて歩き、共通の話題を引き出しから次々に投げ掛けた。
「バイト、誰と仲がいいですか?」
「仲…いい人はいないけれど、五十嵐くんと小川くんは現場かぶりがちかな。」
「あいつらシフトしっかり入れますからね」
「そうね、そういうの関係あるよね」
緊張がほぐれたような気がしたのもつかの間、日比谷線へ下るエスカレーターで藤間くんはさりげなく私を前へ促して背後に立った。背後から降ってくる声に、また少し緊張して、振り返ることも出来ずに、ただ下るエスカレーターに体を委ねた。
そう言えば現場で、藤間くんと会ったことはあっただろうか。正直、記憶がない。
六本木駅のホームから車両へそのまま進み、横並びのまま扉にもたれる。電車が動き出した揺れに堪えながら、さっきまでの会話の続きを思い出す。横に止まって並ぶと身長の高さをどうしても意識してしまった。少し拗ねたような横顔、口許が動き出す。
「そう言えば、」
「はい」
相槌のタイミングで絶妙に合わせてくる視線。逸らしても、見いっても負けだと思い、なんとか微笑み返す。
「初めて会った頃より痩せましたよね。」
「初めて会った頃…」
必死に巡らせる思考。この4年、毎日必死だったせいか、正直彼のことに限らず記憶が曖昧だった。特に転職してきたばかりの頃のことは殆ど覚えていない。
「うーん、そうかもね、忙しかったし。」
「今もそうですよ」
藤間くんは笑った。
「僕、殆ど内勤なんで、すごい人の仕草とか見ちゃって。業務も基本ルーティンみたいな感じになっちゃうんですけど、当たり前のこと…初めて会ったときにびっくりしたんですけど、郵便物配布するだけでも川瀬さん、忙しいときもちゃんと目で見てありがとうって、言ってくれるじゃないですか。僕、それ地味に好きで。」
意識するでもなく、「了解」の意味も込めて返していた言葉をこれほど留め置いてくれているとは思いもしなかった。背中に伝わる振動、褒められたという照れ臭さで、しばらく次にかける言葉が思い浮かばず、ひとつ小さく頷くだけで、わずか4駅の移動は終着を迎えた。
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