第9話 花瓶の花
東京タワーを見上げていた。
年下の男の子に誘われて舞い上がったとか、仕事が手につかなかったとか、職場でどんな顔をしたらいいかわからなくなっちゃうとか、そんな少女マンガみたいなイベントが発動されることはなく、誰にも悟られることはなかったものの、ただ動揺のようなものだけは胸につかえる程には大きく成長していた。だからという接続詞が正しく機能しているかはわからないけれど、他の人から見ればいつも通りにやるべきことをして、いつも通りに終電に駆け込もうとしたときに、やっぱりもう少しだけ歩きたくなって、私は駅から踵を返した。
東京タワーの真横、ガードレールに腰を下ろしてから、もうどれくらい時間が経っただろう。風はない。重力のままに湿度の高い空気が体にまとわりつき、じっとりと滲む汗がいつしかみぞおちをなぞる。公園からは煩いくらいのセミの声。8月の東京タワーは夏の色に輝いていた。その頂点を見つめるのは、ここを離れても大丈夫でいられるように、目の奥に光を焼き付ける自分のための儀式だった。
まだ何も起こってはいないのに、何かが起こりそうな予感がするのが怖かった。
「何してはるんですか?」
背後から声をかけられたような気がしたけれど、ナンパは反応してしまったら面倒くさい。断固無視と決め込んでいた。
「お嬢さーん、おひとりですか?」
声の主は、また声をかけてきた。だったらなんだと言うのだろう。そうだとしてもあなたには関係ないし、関係は今後もないんだと私は耳の感覚を無視し続けた。
「つれへんなあ、川瀬さん」
関西弁の男はそう言って、気だるそうに隣のガードレールに腰かけた。
「……匠さん?」
マスクをした匠さんは「しっ」と、人差し指を自分の唇に押し当てた。今日は、人が少ないとは言え、以前のようなことがないとも限らない。私は謝罪と同意の意味を込めて会釈をした。
「どうして…東京タワー、興味なさそうだったじゃないですか」
あの日のラジオでも、東京タワーへ行ったことを嬉しそうに話すタカシさんに対し、匠さんの態度はあっさりしたものだった。連れていかれたけれどピンと来なかったと話す匠さんに、タカシさんが言った「さっそく天狗か!」をきっかけに、2人お決まりのケンカごっこが始まった。
「近くに住んでましてね」
「え、さすが売れっ子…」
条件反射のように出てしまった言葉に少しだけ胸が痛んだのは、匠さんがあまりにも優しい目でこちらを見ていたからだ。でも、正面から受け止めるには、恥ずかしすぎる時間を目撃されてしまっていた。
「悩ましい顔で歩いてる知り合い見かけたもんで、声をかけようかと思ったんですけど、かけられないままついてきてしまいまして」
「…ストーカーじゃないですか。」
「それもう要らんねん」
「ははは、すみません」
匠さんがよくタカシさんに突っ込むセリフが聞けて、嬉しくなり思わず笑ってしまった。
「ずっと上見て、首痛くなりませんか?」
「それも醍醐味なんで。」
「…ようわからんなあ、」
匠さんが東京タワーを見上げる。私が東京タワーを見上げている間、声をかけるか迷っていたのだとしたらこの人は相当の時間、ここにいたことになる。
「いいんです、私はこの時間に癒されるんですから」
「わからんなあ…」
マスクで半分おおわれた顔からわかるのは、そうも言いながらも目元は優しいままであること。
「ありがとうございます」
「え?」
驚き、振り向く匠さん。
「なんか、元気が出た気がします」
「まだ何もしてへんで?」
「まだって、…なにする気ですか」
いたずら心にそそのかされるまま、胸を隠すように腕を交差させておどけると、匠さんは笑った。
「そういうのちゃうねん、やらしいなあ」
「わかってますよ」
「川瀬さんみたいな人、よう知ってるんですわ。いつもにこにこしてはったのに、静かに我慢して、ある日気がついたら限界迎えて、せやから、なんか…はい」
匠さんは力なく笑った。
「…それは、大事な方だったんですね」
匠さんは東京タワーを見上げたまま返事をしなかった。大事な人というのはきっと、時々ラジオでも話していたお父さんのことなんだろうと思った。私はそれ以上追求することは止めて、東京タワーを見た。
「死なないでくださいよ」
不意に聞こえた声は小さくて、暗くてその表情はあまりよくわからなかったけれど、一瞬泣きそうな表情に見えてしまったのは、冗談のようで本当はそうは聞こえないその言葉が少し震えていたような気がしたから。
「…そちらこそ、忙しいんですから無理しないでくださいよ」
多分これが普通の人同士ならば抱きしめたり、肩を貸してあげていたかもしれないと思った。でもこの人が売れっ子の芸能人であること、自分が彼に仕事を頼んだクライアントであること、そして彼がラジオのパーソナリティであり、わたしはそのラジオのリスナーであること。その線引きはわきまえていた。だからこのとき私は、自分の父親も匠さんと同じ高校生のときに亡くなったことは、少し迷ってこの日は話さないことに決めた。
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