第7話 夢番地

 寝ぼけ眼のまま、朝、通い慣れた道。フル稼働のコインランドリーからは焦げてるんじゃないかと思うくらい芳ばしい衣服と、重くて甘い柔軟剤の匂い。湿気をたっぷり含んだ空気にのしかかる。セミの鳴き声よりも、室外機の壊れそうなファンの音の方が忙しない。今日もまた長い1日が始まる。


 あの日、渋滞に巻き込まれて遅刻したテイの高山さんと、前の現場が押していたタカシさん、コントンライダーのマネージャー平田さんはほぼ同じタイミングで到着した。匠さんはラジオのリスナーである私をネタにし、愛のある「気持ち悪いなあ」発言で遅刻に恐縮していたタカシさんたちの空気を変えた。


「いやいや失礼やろ!」


「リスナーなんてみんな気持ち悪いねん!」


「やめろ!お前どこに対して尖ってんねん!」


 打ち合わせは軽快に進み、遅刻した時間をあっという間に取り戻た。


 今回のプロジェクトは、学園祭。それは歌手や芸人、俳優らをはじめとする著名人たちが担任を勤める架空の学園で、生徒は観客たち。生徒たちは担任の企画した催しを行う。またメインステージではいくつかのイベントを行ったり、担任役の著名人たち自らの進路選択体験をモデルにした教材も作成し、進路指導をテーマにしたトークショー、物販を行う。それから追加で決まったのが、ラジオの公開収録。イベント打ち合わせを前に、教材のための打ち合わせ、美術打ち合わせ、音楽打ち合わせ、照明打ち合わせ、スポンサーチェック、ラジオ番組のチームとのPAチェック。スケジュール調整だけでも目が回りそうなのに、このプロジェクト1つに対する"やらなければいけないこと"はクリアしても、クリアしても、うず高く私の前にあたらたにどんどん積み上がっていった。


「いつも笑ってますね」


 会社の会議室。デザイナーさんからあがってきた教本のサンプルに目を通していた匠さんが不意に声をかけてきた。一瞬誰に話をしているのかわからずに、辺りを見回す。


「私ですか?」


「他にいないでしょう」


 さっきまで一緒に打合せしていたはずの平田さんは部屋の外で電話中だし、タカシさんは別件のお仕事。弊社の人間も例によって私1人だ。


「確かに。」


「最初の打ち合わせの日、多分川瀬さんとすれ違ってるんですよ」


「え…ストーカーですか」


「いやいやいや」


「この前のお返しです、すみません」


「あの雨の中、傘もささへんでニタニタ笑いながら歩ってたらそら目立ちますよ」


「え、私そんなでした?」


「でしたよ。気色悪い女やなあ…と思ってたらスタジオにおって、さっき見たのは言わんとことー思って、こっちは我慢してたんですわ」


「はあ…思いあたる節が…」


 きっとラジオだ。


 あの日、外に出る瞬間に計算した。会社から駅まで10分、そこから電車で20分、駅から歩いて15分、時間通りつけば待ち合わせの15分前に着く。この1時間を無駄にはできないと、私は会社を出た瞬間、無料でラジオが聞けるアプリ、radikoを起動した。タイムフリー機能を使って、力尽きてリアルタイムで聞くことができなかった番組を聴取するためだ。普段は通勤時間を使っても1日2時間分しか消化できないタイムフリーを、いつもより多く消化できる個人的なボーナスタイム。逃す手はなかった。大好きなオードリーのラジオ。2時間の生放送のうち、(驚くことに)40分くらいはオープニングトークで、そのあと長いCMがある。CMの間ひとまず3分時間を送ってみては様子を見て、もうひと送り。そこで少しでも時間を稼いで、約束の時間5分前にはイヤホンを外していたいけれど、少しでも長い時間聞いていたい。きっと匠さんはそんな私のボーナスタイムの様子を見かけてしまったのだろう。


「お恥ずかしい…」


「明らかにこんなややこしいイベント、ほぼひとりで回して、デザインもこんな丁寧に…仕事大変なのに顔死んでへんの、しかもニコニコしてて、偉いでほんま」


 気色悪い女呼ばわりから一転、突然の誉め言葉にキョトンとしている私に匠さんは続けた。


「テレビ局の人なんか、特にADさんは自分の担当いないとこでえげつない顔してはるで。正直僕らもしんどいまんまの顔で現場出入りしてしもうてます。そないやのに川瀬さん見てたら、しゃんとせなあかんなあ、と思うて」


「…好きなことやれてますから、一応」


 30歳を過ぎるまでに気がついたことがある。人は思ったより自分のことを、見ていること。辛い顔をして仕事をしている人に仕事を頼みづらいし、普段ニコニコしている人には優しくしたいし、その人が困っていたら助けたくなる。少なくとも好きなことを出来ている点では、嫌な仕事に悩んでいる人よりはいくぶんか幸せ者なのだ。それができない人のためにも、その分嬉しそうに仕事をしているべきなのだ。

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