第5話 やさしくなりたい
夏の天気はよく分からない。
晴れていると思ったら、ゲリラ的な雨に遭ったり、くもりの今日は電車から降りると、桃の皮も傷つけないようなやさしい雨が降りだした。駅から目的地までは、コンビニで傘を買うかどうか迷うくらいの距離。結局傘を買うこともなく、イヤフォンを耳に預け、小走りに駅を離れる。一緒に取材に出るはずだったチーフが30分遅刻すると電話があったのは、打ち合わせ場所に指定したスタジオに到着するほんの手前のところだった。財布を忘れて出てしまったという高山さんは、取りに戻る時間もないからと、キャッシュレスで支払えるタクシーに飛び乗ったところらしい。電話口で慌てている高山さんは、2つ年下の28歳。「悠貴」と書いて「ユウキ」という名前は、メールだけでやり取りをしている取引先の人からはよく男性と間違えられるらしいが、実際は小柄なボブカットの女の子。それだけを言うと、今どきのお嬢さんを思い浮かべそうだが、高山さんは少年のような顔立ちで甘すぎないオリエンタルな服装が、浅黒い肌によく似合う、よく雑誌で見かける ような類いのなんとか女子とは重ならないタイプの人だった。
高山さんも私もいわゆるプロデューサーだ。イベントや美術展、催事場の企画、制作、広報に運営の管理。正直、なんでも屋さんだ。高山さんは思いきりある決断力で普段は現場をばりばり仕切る、若手ながらチーフプロデューサーに抜擢された生え抜きのエース。ところが、そんな高山さんには弱点がある。
「高山さんのおっちょこちょい出ちゃいましたね」
最近のことを思い返すと、ファイリングする資料の天地を逆にパンチで穴開けたり、オープン前の催事場でコンタクトを落としたりするような中身自体は至って単純なものだけれど、自分のミスに堪えきれず笑い転げてしまったり、みんなと一緒になってコンタクトを探す姿が申し訳なさのあまり殆ど土下座のような姿になっていたり、その様子はまるでアニメのようで、いちいちかわいらしかった。そんなことだから高山さんのおっちょこちょいは現場の人を怒らせるよりむしろ和ませる不思議な力があった。気がつくと高山さんと一緒になる現場は数少ない私の癒しになっていた。
「セナちゃんほんっとごめん!」
私をセナちゃんと呼び始めたのも高山さんだ。会社の中では伝統的に同じ名字の後輩が入ってきたときは、後から入ってきた方を「ジュニア」と呼ぶことになっているそうだが、3人目の川瀬だった私の呼び名にみんな初めは頭を悩ませたようだった。下の名前を呼ぼうにも、ベテランの「奈々」さんも、入社当時は3人目の高橋さんだったらしく、それ以来社内で「ナナ」さんは彼女以外誰のものでものなかった。「川瀬七菜だから…セナちゃんかな。いい?」転職した初日、周囲が声をかけあぐねている間に、迷わずそう提案してくれた高山さんが眩しかったのを覚えている。
「大丈夫なので、気を付けて来てください。」
心なしか雨が強くなってきた。これ以上何か起こらないように祈るしかない。かわいいおっちょこちょいも当事者としては笑えないこともある。実際社内には高山さんに抜かれて僻んでいる大人もいるらしいけれど、少なくとも私に関しては高山さんの昇進にヒリヒリしたことはない。中高生であったなら2つの年の差も大きいかもしれないけれど、転職組の私からすれば高山さんは先輩でしかないし、小さな体からはみ出る頼もしさがあるし、本音と建前の使い方がうまい。40代、50代のおじさんたちに囲まれながら、よく戦っている姿は尊敬できたし、高山さん自身も部下である私たちへの敬意を忘れない人だった。
「…30分かあ、」
とは言え、人見知りの自分が30分も高山さんの登場まで場をもたせることができるか不安でしかなかった。私は再び、スタジオに向かって足を走らせた。
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